ステージ5.6 妖精の敗北

 八月二十七日火曜日朝、昨日の夜突如現れた空飛ぶ謎の中年男性について話す人間はほとんどいない。誰も視認できない高度にいたからだ。


「謎の黒い物体か」

「物騒な話ね、それでそれが突如消えたとかって」

「そう言えば、マイホープってコンビニの」

「ハイハイ、もう時間ですよ」


 伊佐夫婦もまた、わずかにその存在を確認した人間から得られた「謎の黒い物体」についての話をわずかにしただけだった。それと同時にとあるコンビニの店長がいきなり行方不明になったと言うニュースも入っていたが、それについてもさしたる関心を示す事はなかった。平凡な夫婦の、平凡な日常だった。

 その平凡な日常は、高層ビルの二十三階をまるごとオフィスとしている会社でも同じだった。


「まったく、いったい何なんだろうかね」

「とんでもない事って起こる物ですね。蔵野さんも気を付けた方がいいと思いますよ」

「はいはい」


 蔵野次男も、ありふれたニュースとして聞き流していた。それより大事なのは仕事であり、今日やって来る林勝美と言う女子大生だった。

(やれやれ、話によればその店長と顔が似てる奴がどっかの警察に保護されてるって話もあるらしいけど。どうなっちまうのかね)

 人相は歪み、受け答えもままならず、時々頭がおかしくなったように笑うばかり。精神に異常を来たしたとしか思えない有様。インターネット上の掲示板にはそんな言葉が並んでいる。


「自分がそうならないと言う保証はどこにもないですからね」

「ああそうだな。まったく、これだから人生って怖いよな。俺なんかまだ32歳だけどさ、どうしてあんな風になっちまうのかさ」


 人生と言うのは、いつ何時運命が狂うかわからない。自分だって、あの男が来なければ人生はもう少し楽だったのではないか。あんな卑怯なやり方に手を染めなくても良かったのではないかと言う後悔がある。話によれば大学に入ろうとした時体調を崩してどこも受験できずに一浪し、結果的に一世代遅くなったあの男。どこの誰のせいか知らないが、まったく普通に受験していればよかったのに。自分がどんなに頑張っても通る可能性すらなかった大学に一浪とは言えすんなり入り込んだ、その事もまた自分の心をざわめかせた。


「蔵野さん、誰と話してるんです?」

「え?」


 オフィスのドアを開けて入って来た同僚の女性からそう声をかけられた蔵野は首をキョロキョロと動かしてみるが、早朝と言う事もあり人事課はおろか社内に女性は一人もいなかった。


「いや、キミかと思ったんだけど、世間話をしてたはずなんだけど……」

「おかしいですね」


 疲れているんじゃないか。そう思いたかったが、それにしても奇妙だった。あまりにも声が近く、それでいてそこに誰もいない。空耳なのか。蔵野は早朝早々、変な気分になった。まあ空耳だろうから気にせず仕事に熱中すればいいやと気分を切り替えて外を見ていると、オフィスがざわつき始めた。と言ってもただ始業開始時間が迫っていただけだったのだが、その時の蔵野にはどこかしっくり来なかった。

(朝っぱらから変な気持ちだよな、やる気がそがれるぜ)

 と思ってはみたものの、やはりやらない訳には行かないなと気合を入れ直そうとして机に目を向けると、今度は覚えのないメモ書きが置いてあった。




             伊佐新次郎の死肉は美味か?




 大きく、太い文字で書かれたその十三文字の書かれたメモを蔵野は無言で破り捨てた。悪質ないたずらだ。いったいなぜ俺がそんな過去の存在に足を引っ張られ続けなければならないのか、腹が立ってしょうがなかった。筆跡鑑定でもしてやろうかと思ったが、ワープロソフトで打たれた文章にわざわざそんな事をしても何のメリットもない。死肉うんぬん言うなら、毎日自分は牛や豚や鳥の死肉を食べている。それのいったい何が悪いと言うのか。蔵野は内心鼻で笑った。

 そして伸びをしながら外を向き、さあきれいな青空でも見て気合を入れ直すかと思った蔵野の口に、いきなり何かが飛び込んだ。ハエかと思って吐き出そうとするが、できなかった。


「うぐ……!!」


 自分では大声を出したつもりでいた。だが蔵野の口からは何も出なかった、声も、呼吸も。そしてそのまま、ぐったりと倒れ込んだ。


「あのー、蔵野さん……」

「ああすみませーん、今日もお仕事頑張っちゃいまーす!」

「蔵野さん……?」

「えーっ、何ー?」


 その彼が五分後他の社員に声をかけられて目を覚まし、返事をした結果社内は凍り付き、蔵野は何が悪いんだろうと頭をひねった。もっとも、たかが社員一人の性格が変わっただけで会社が云々と言う訳でもない。むしろ新人社員のように明るく真面目に働くようになった分だけ、社内の雰囲気は改善されたとも言える。


「あーもしもし、蔵野ですか?少々お待ちください」

「はいもしもし変わりましたー、えー何々キャンセルさせてください?残念だなあ、うちの社に来てくれるのを楽しみにしてたのにー、また気が変わったらよろしくね。それじゃ」


 そして一人の女子大生が会社への訪問を取り消したという電話を入れて来たが、どうと言う事がある訳でもない。ただ蔵野次男と言う男性が、かつて伊佐新次郎に絶対取れる訳のない様な契約を取るように意図的に仕向けさせ、それで元々なかった自信を完全に打ち砕いた事も。同僚や上司たちも彼のことをほんのちょっとだけ惜しみながらすぐに忘れた事も。その彼が亡くなったと聞いてひとりだけ花を贈ろうとした女子社員もいたが、その母親から丁重に「お祈り」された事も、全て過去の話だった。


 たった一人現在進行形で切歯扼腕していたのは、先程の取り消しの電話を入れた林勝美と言う女子大生だけだった。


「正義の味方ほど不便な物はねえからな、あのお方もずいぶん苦労なさったはずだ」


 自分たちが求める物が命でも恐怖でもない事を、この林勝美と言う女性はよくわかっていた。かつての愚行・悪行に対する反省と謝罪。それが、ほぼすべてのはずだった。もし、その事を悔いてくれるのであればそれ以上する必要もない。それが彼女たちの行動原理のはずだった。だからああして思い出せ罪と向き合わせるつもりだったのだが、これまでの仲間たちの話を聞く限りその場に至っても罪を認めようとした者は皆無であった。

 正義の味方は倒すべき悪がいなければ成り立たない――――「あのお方」から聞かされた言葉だ。本当は、殺すべきだったのかもしれない。でも、できなかった。それだけはしてはいけないのだから。


「残念ながら、ターゲット捕獲に失敗。奴らに回収された可能性が非常に高い。一体だけとは言え強力な武器になる、何とかして行動を起こす前に止めねばならない。引き続き捜索を行うように。どうかあしからず。」


 これだけの文をLINEグループに送信するのに3分かかった事にため息をつきながら、林勝美ことハーウィンは食料品の買い出しに出かけた。今晩は二割引の魚と出来合いのきんぴらでいいかと言いながら、勝美はとぼとぼとスーパーマーケットへと向かった。







「こいつは使えそうだねえ」


 一方その頃、一人の少年がまるで無課金ガチャの1回目で大当たりを引いた時のように欣喜雀躍していた。

(あいつは怒るだろうけどさ、無駄にするんじゃないって。でもその事に気付いて大パニックを起こして反省するような奴が増えたらそっちのがまずいと思うんだよね。あいつはなんてか言うさ、真面目過ぎるんだよ……)

 昨日、若い男性の会社員が一人通り魔の男に刺殺された。その男はギャンブルで借金を重ね、大した現金も持ってないだろう前途ある人間を殺したのである。この事件は既に迷宮入りが決まっていた。犯人が心臓麻痺を起こし、被害者の上に倒れ込む形で亡くなっていたからである。

(あんなカスみたいな代物、せいぜい有効に使えるとしたらあれぐらいのレベルだろうね。それでこんな大物が釣れるんだから、安いじゃないかめちゃくちゃ)

 内心からホクホクしながら歩いていた少年の額に、一本の腕が当たった。と言っても、 殴られた訳ではなく、立ち話をしていた老人の存在に気付かず普通に垂れ下げていただけの左腕にぶつかっただけであるが。


「こら!」

「申し訳ありません、つい考え事をしていまして前を見ていませんでした!」

「真摯に謝ればよろしい、今度から気を付けたまえ」


 その老人も話し相手の老人も、この時自分の返答によっては命が危なかった事にはまったく気がつかなかった。もしその老人がここぞとばかりに説教を始めたのならばまだともかく、もしその少年の親を駆り出させて責任を、しかも現金や物質的な代償を求めようとする人間であったのならば老人の命はなくなっただろう。

(チッ……善良過ぎて使い物にならない……あいつは今日もまた死刑囚をずいぶんと殺してくれたようだけど、さすがにもう期待はできないぞ)

 この日もまた、死刑執行命令は止まらなかった。八人の死刑が執行され、わずかな時間の間にすでに四十人近くがこの世を去っていた。二人の老人の立ち話の主題もまた、最近やたらと増えた死刑に対する疑問だった。無論、二人ともその少年が深くかかわっている事など知る由もない。

(量はとりあえず、揃った。後は質だ、大物を確保しなければならない。期日は既に決まっている、父の仇を取りディアル大陸を征服し、いやあるいはこの世界を……)

 その少年————————不破竜二の野望は、あと6日後に転校する高校にて新たな段階に至ろうとしていた。

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