ステージ5.3 高速飛行

 八月二十六日午後八時。夜担当の一人を残し、久太郎は退社した。守る者など何もない、四十路の一人暮らし。金を貯める事だけはできたが、それでも何も満たされない。妻よりも子供よりも家よりも、ただ本社に戻り自分にふさわしい仕事がしたい、それだけがもう十年以上彼の頭を支配していた。


「ったく、本社の奴らは何もわかっていない! この俺をこんな所に押し込めて」

「その通り、あなたはもっと広い所に出るべき人」

「そうだそうだ、俺はもっと………………」


 謎の声に同調してさらに気炎を上げようとした途端、久太郎の足が地面から離れた。一瞬階段を踏み外したかとも思ったがいつの通りにならそこはただの横断歩道だ、そんな事などある物かと思っているといつの間にかオフィスビルが目の前に見えた――――地上四十階の。

 声さえも出ない。そこから「転落」したらその瞬間人生のおしまいである事を物語る高さに自分が立たされている。一体なぜこうなったのだ、不思議なほどに冷静に頭が動く。


「たった一言……それだけでいい」

「何をだ。何が欲しいんだ」


 そのせいか、自分の耳にどこからか飛び込んで来る言葉にも平静に返せた。自分に何かを言えと言うのか。久太郎は地に足が付かない状態で地に足のついたセリフを言っていた。


「あんなふうにないがしろにして申し訳なかった……と」

「誰をだよ。誰に何と言えばいいんだ」

「そこまで言って思い当たらないのか? 今から一年前のあの人のように、なりたいのか?」

「去年何があったんだよ。具体的に言えよ」

「ならば答えは一つ」


 唐突な何らかの発言の要求に、久太郎は丁重に応じているつもりだった。だがその丁重なつもりの問答に対する謎の声の答えは、実に冷酷だった。久太郎の体はまたビル十階分ほど登り、そしてまたビル十階分ほど落ちた。


「わー」


 ここでようやく、悲鳴が出せた。そしてようやく久太郎の心に恐怖心が芽生え、それと共に息が苦しくなった。


「な、な……なんだ、誰だ」

「あの人も、きっと最後はこんなんだったんだろうな。その辛さ、苦しさ、悔しさがわかったのならば今からでもいいからせめてごめんなさいの一言でもいいから言えよ」

「まったく、あの恩知らずの手先か? ここをやめて文字通りの無職に成り下がって、それで最後には弟に金をたかっていたような奴に? まったく、どうしてそんな奴に頭を下げなければならないんだ? 向こうの方が頭を下げてお願いしますとでも言うべきだろ? ったくいったい何様のつもりだか!」


 そこでようやくその存在に思い至った久太郎は、その相手に対し思いつく限りの罵倒を行った。一年も前に死んでおいて、今更何のつもりだか。しかもどこで見つけたのか知らない女を誑し込んで安っぽい復讐劇をしようなど、開いた口が塞がらない話だ。そう心底から思った久太郎がまったく心のこもってない目で前を見ると、黒い何かの塊が近寄って来るのが見えた。夜だと言う事を加味してもはっきりと目立つ黒い塊。あれは一体何なのかと久太郎がいぶかしんでいると、その塊から逃げるように再び久太郎の肉体が飛び始めた。




 今度は速度はこれまでより速く、人間の肉体で耐えきれるかわからないほどの負荷がかかり、更に軌道もめちゃくちゃ。その上に真下を向かされたせいか高所である事と落下の恐怖が一挙に押し寄せた。そこでやっと悲鳴を上げられた久太郎だったが、その声を聞く者は誰もいない。


「あの人はな、お前に向けてずっと悲鳴を上げてたんだよ! それをお前はことごとく無視しやがって! あの人が許しても俺が許さねえぞ!」

「うるさい! なぜあんな奴の味方をするんだよ! 抱かれたのか? それとも金か?」


 男のように太くなった声に向かってなおも悪態を付く久太郎の肉体は、ほんの一瞬だけ浮き上がり、そしてさらに息が苦しくなった。五秒ほどして元のオフィス街上空に戻ると、久太郎はすっかり濡れ鼠になっていた。


「これが、あの人がこの世で最後に見た光景だったんだよ! いい加減、あんたもわかっただろ! これで」

「黙れ黙れ! あんな奴のせいで俺は、俺は」


 それでもなお新次郎への悪態を付く事をやめない久太郎の肉体はさらに上へと昇り、気が付けば東京スカイツリーの高さをも超えていた。634mは山なら小山だが、都心では遥か大空である。


「この肉体が地面に落ちれば木っ端微塵だろうな」

「やってみろよ……誰か知らねえけどやってみろよ…………あんな男のためにどうして人生をフイにしなければならねえんだ? お互いもっと他の」

「どうしてごめんなさいの一言が言えねえんだ!?」

「言えるかってーの!」


 久太郎は、どうしても新次郎に頭を下げようとしなかった。そして彼女の怒りをまともに受ける事もなく、ただただ悪態を付き続けた。その結果を示すかのように、久太郎の肉体はさらに加速した。もはや、肉体の負荷などまったく考えてなどいない速度に。




「ぎゃあをぐるわあうあやあ~!!」




 形容しがたいほど醜悪な叫び声を上げながら、すさまじい速度で空を飛ばされた富良野久太郎と言う凡人の四十歳男性。その顔は歪む場所がないほどに歪み、ズボンは濡れていた。黒目が失われ、髪の毛も心なしか白くなっていた。彼にとって救いが二つあるとすれば、その肉体がまったくの無傷である事と、その醜悪な叫び声があまりにも声が小さすぎて誰にも聞こえていない事だけだろう。




「もういいよ、いい加減反省する気になったか?」

「ア……ハイ…………ゴメ……ン……ナサイ……」

「俺じゃねえだろ?」

「ジャ……ダレ?ワカンナイ……」




 やがて都会の片隅にある空き地に下ろされた久太郎の精神はまともな問いかけも叶わないほどに摩耗しきっており、そして彼女がそこまでして要求した伊佐新次郎への謝罪は、ついぞ行われなかった。そのまったく虚ろな目で彼が最後に見たのは、ひとつの小さな光だけだった。

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