ステージ5.1 新次郎の過去

 (これから三日間は連日更新となります)







 依田美代子なる人物が突如狂乱し、そして気を失って病院に運ばれた――そのニュースが載った新聞を眺めながら、二人の男は同時にため息を吐いた。


「フン、まったく何を考えてるんだか。薬物中毒じゃねえのか?」


 そして二人とも、そうつぶやいた。それはこのニュースを聞いた人間の半分以上が抱いた共通認識であり、実際新聞にもその可能性が書かれていた。







 八月二十三日、金曜日。富良野久太郎は新聞を畳みながら、職場へと赴いた。オフィス街の片隅のコンビニエンスストア。そこで久太郎は店長をしている。オーナーなどではなく、雇われ店長。大規模なコンビニチェーン店を傘下に置く一流企業に、一流大学を卒業して毎日スーツ姿で出社するつもりだった。だがその予測はわずか四年間で外れ、出向と言うより半ば左遷状態でこのコンビニの店長の座に座らされ続けていた。もっとも、左遷だと思っていたのは本人だけで実際には今の久太郎と同じ年齢の課長レベルの年収をその時から得ていたのだが、本人はそうは取らなかった。

 いくら戦果をあげても、本社から自分をその方向に戻そうという話は上がって来ない。来るのは、面倒くさいバイト集団だけである。


「給料なんぞこれまでの1割減でもいいから本社に戻してください、そうもう20回は言ってるんだぞ、だってのにまったくの梨の礫! ケッ、やってられねえな」


 もしその久太郎の発言を耳にした者がいたら、じゃあ代わってくれよの大合唱で満ち満ちていただろう。この結局のところ自分の身を守る事に汲々としている小心者の男は、20回ほど愚痴をこぼしただけであり、本社には一度もそんな事など言っていなかった。誰かその事を本社に訴えろよと言う願望込みの発言が届いた事はもちろん一度たりともなく、今日もまた作り笑顔を浮かべながらコンビニへと入った。


「あーあ…………本当にいいご身分だよなあいつらは」


 今日もまたはす向かいの高層ビルを眺めながら、久太郎は笑顔の下に激情を隠した。







 八月二十三日、金曜日。蔵野次男(つぎお)は新聞を畳みながら、職場へと赴いた。オフィス街の超高層ビルの二十三階。そこが次男の職場である。決して大きくない会社ではあるが、勢いがある事には間違いない。自分が今そこの会社の社員である事を、次男は誇りに思っていた。


「出世するのも時間の問題だ、しょせんサラリーマンなんぞ足の引っ張り合いに落とし合い。それをやるには弱すぎたんだよな、あの男は」


 次男は美代子の事件だけでなく、五部倫太郎の事件の事も把握していた。そして倫太郎と美代子の両方に、一人の男性が関わっている事も知っていた。

 ————伊佐新次郎。その名前を関知した次男は驚くとかおびえるとか言う前に、ただ納得した。彼が自殺した事も、そしてその二人にたっぷり苦しめられたことも。


「それ以前のことゆえ、当方としては何ともお答えできません」


 倫太郎たちの事件の後、マスコミが訪ねて来た事もある。五年前までこの会社の社員だった新次郎だが、今はすでに会社とは無関係の人物でありその上に渉外担当である社員の言う通りその事件はそれより更に過去の話だった。


「職場では何か話をされていたとか」

「まったく関知しておりません」


 これはウソではない。実際、新次郎は職場で過去の話をほとんどしなかった。だがいささか白々しく感じられる物言いであり、同時に逃げ口上にも聞こえた。この同僚のまずい物言いをマスコミは繰り返して取り上げ、そして次男はほくそ笑んだ。

(これでまたライバルがいなくなる、そうなれば俺の道はさらに明るく開ける。あの伊佐の奴も気は弱いがその気になればあれこれと手を尽くしもしないのに上司に気に入られてしまう才能を持っていた。本人さえも気付かない内にだ、そんな奴がいなくて良かったぜ)

 仕事熱心なだけでほめられるのならばこんな甘い話もないのだろうが、伊佐新次郎はそれをやれてしまう可能性があった事に次男は気が付いていた。普通以上の理性を持った人間ならば、何度失敗しても「まあいいぞ」で済ませてしまうのではないか。これをうかつに叱責したり利用したりすれば、たちまち悪人になれるかもしれない存在。出世欲も性欲も金銭欲もなさそうな、ある意味社畜としてはうってつけかもしれない存在、それが伊佐新次郎だった。

 でもコンプライアンスが謳われるこの時代、そこまでの存在に好待遇を出さなければ会社が危なくなる。好待遇は≒出世であり、その流れで行くとやがて新次郎がこの会社を担うと言う事になりかねない。だが新次郎のような無能な働き者がもし実権を握ったらどうなるか、おそらく部下たちはその尻拭いで浪費させられ会社は潰れてしまうだろう。すぐにそこまで思い至った次男は、意図的に新次郎にワナをかけて難しい仕事ばかり回して上司や同僚たちにかばいきれないほどのミスを犯させ、新次郎自ら会社をやめさせた。

(今更俺らの所に来られても困るんだぞ? 赤の他人まで巻き込みやがって迷惑極まりねえやつだ)

 あのお人好しの伊佐新次郎が、無関係な他人を巻き込むような事をする訳がない。次男はそういう安心感を抱いていた。何せ、新次郎の実母さえもあの五部倫太郎の事件について全て過去の事ですで流していたのだ。新次郎の兄が何かしようとしていたらしいが、それがこの時もその後もこれと言った影響をもたらす事はなかったらしい。こちとら大学入学以来十年以上一人暮らしを続け身を立てて来たのだ、そんな弱虫毛虫に構っているほど余裕も暇もない。次男は伊佐新次郎の実母に、深く感謝していた。


「しかしさ、気の早い奴もいるもんだね。もうこんなのを送り付けて来てさ」

「四年生にしちゃ遅いんじゃないんですか」

「三年生だよ」


 人事課に所属する次男の下には、就職を希望する大学生からの履歴書が多数届く。その中で一番目を引いたのが、林勝美と言う大学三年生だった。


「ほほう、こいつは相当に真剣らしいな」

「どう思う一度会ってみてもいいんじゃないか」

「賛成です」


 次男の言葉により、その大学三年生は八月二十七日・火曜日に社を訪れる事になった。次男自身、彼女に恩を売って入社の約束を取り付ければ出世の糧になるという計算もあった。人手不足が深刻なこの時代、一人でも有能そうで意欲のありそうな人材を獲得する事は大事な職務のはずだ。実際にひとり姦計にかけて放り出した人間の分の席が空いている、そこを埋める良い人材を確保するのは重要だった。




 その林勝美は八月二十六日の月曜日、コンビニにいた。売り物の新聞には、依田美代子が自殺したと言うニュースが載っている。そして一人の女性がそれに目もくれる事はなく、まっすぐ売り場に向かって行った。


「こちら合計725円になります。袋と箸のほうはよろしかったでしょうか」

「下さい」

「ありがとうございました」


 昼食と思しきお弁当にお茶、それから菓子パンを自分のカバンに詰めながら、その女性は店を去って行く。オフィス街の真っただ中にあるこのコンビニは朝はまだともかく昼になると行列のできる店となり、その度に店員たちは奔走を強いられる。


「店長」

「人員不足なら訴えてるよ、ったく鈍い連中だからな」

「お客さんに聞こえますよ」

「うるさい」


 そんな厳しい時間帯を、基本的に二人で捌かねばならない。勝美は月曜日の昼間と金曜日の夜の担当だが、最近ではそれ以外にも駆り出される事が増えている。

(店員を増やしたら俺の給料が落ちるじゃねえか、だから失敗しても自己責任で済む本社の仕事に戻せって言うんだよ!)

 勝美と同じアルバイト店員の白田綾子も人を増やせと訴えているが、その言葉が通る節は全くない。アルバイト募集の貼り紙さえも、本社の許可がないと言う名目で貼らせてもらえない。冗談抜きで、人員はカツカツだった。


「人が来ないんですよ、たまに来てもすぐやめちゃうようなのばかりで」


 久太郎は本社にそう言い訳していた。実際、募集をいくらかけても一年すら持たずに辞めて行く人間がこのコンビニには大勢いた。これは実際の所、久太郎自身が選ぶアルバイトの問題だった。

 店長である久太郎には、アルバイトを選ぶ権利があった。その権利を生かして彼は、なるべく自分の眼鏡にかなう人間を選んだのである。例えば、伊佐新次郎とか言う男。商社をクビになったばかりの二十六歳の、気の弱そうな男。彼を雇ったのも、久太郎のさじ加減だった。

 この場にいる事さえも申し訳なさそうに、常にびくびくおどおどとしている。それでいて仕事ぶりだけは真面目であり、何とかして食い詰め者だけにはなるまいとしている。こういうタイプが、久太郎は大好物だった。


「あの新次郎君、最近売り上げがねえ」

「はいっ!」


 そうやって少し脅かすだけで、ますます元気そうに働いてくれる。他の店員から心配されても、自分だけで何とかしようと必死になってくれる。実際に売り上げが悪い時には、現物支給の名目で売れ残り品を押し付けた事もある。それでまったく不満を言わなかったものだからますます久太郎は新次郎の事が気に入り、その現物支給を受ける事前提で店の予算を組み始めるようになった。


「で、でも僕はそれでいいですし」

「ほら本人がそう言ってるんだもん」


 諫言して来るような奴がいても、本人の言葉と言う最強の武器で封じ込められた。結局彼は三年間でこの店を去ったが、その間にその功績をもって本社への復帰が叶わなかった事を久太郎は常に不満に思っていた。その三年間で新次郎と同じ時間帯のバイトが5人やめた事が原因の一つなのだが、本人はまったく気づいていない。

(どいつもこいつも飢え死にする気かね、せっかく飯の種を与えてやってるのに!)

 そんな事を考えていた久太郎が、先ほどの客が勝美を見つめる目線に気付く事はなかった。そしてそれがゴーサインである事にも、まったく気が付かなかった。もしこの時、久太郎の頭に五部倫太郎か依田美代子の事件があれば、彼は救われたかもしれない。だが、早く本社に戻る事しか頭にないような人間にそんな事を要求するのが無駄な事など、勤めて二ヶ月の勝美でさえもすでにわかっていた。

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