ステージ4.1 ディアル大陸の今
「また厨房に立ってるんですか」
石窯でパンが焼かれている横で、まな板と言う代物に乗せた極彩色の魚を包丁で切るエプロン姿の青年。そしてそれの後ろに立つのは――――真っ白なドレス姿の女性。
「そんな物シェフに任せればいいんです」
「趣味の一つぐらい許してくれよ」
趣味————————炊事、洗濯、掃除。そうはっきりと言われた際にそれではまるっきりメイドではないかと思い半ば八つ当たり気味に女物のメイド服を渡した所、いささか戸惑いながらも着こなしてしまった彼の事を知らない者は、この世界にはもういないと言っていい。
「本当にもう、あなたはどうしてそう」
「名声におごり高ぶって全部台無しにするのはやだからね。後はもう、この世界を実り一杯のそれ、誰もお腹が空かない世界にすればそれでいいよ」
これがほんの一年前まで、このディアル大陸の存亡をかけて戦ってくれた勇者なのだと思うと、いささか物足りなくもある。
決して自分の手柄を誇示せず、どんな苦しい目にあってもくじけない。しかし時にはさっと逃げて、好機を待つ別の意味での勇気もある。勇者と言う二つ名にふさわしい働き方をした存在の欲望の小ささに、九割の人間が感心し一割が彼女と同じように物足りなさを覚えた。この大地を肥沃な物にするという野望は決して小さくないそれだが、果たしてそれが勇者のやる物なんかと思うと疑問も多かった。でも今やこの勇者ジャンこそが自分と並ぶこの国の、いやこの大陸の最高権力者なのだからと言う事実をもってしてはどうにもこのリシア姫にも逆らいようがなかった。
十年前に現れた魔王アフシールの手により、わずか七年間でこのディアル大陸の三分の二はアフシールの手に落ちた。その間にも数多くの戦士たちが魔王討伐に出ては敗れ、敗死したり降伏したりした。そこでリシア姫は当時の王位にあった叔父と共に、十幾代前の王家が発見し骨董品となっていた秘宝を見つけ出し、そこの記されている勇者召喚の儀式を執り行った。
「この書によれば、その時その英雄は二つの四季が巡るうちに全ての危難を払ったと言う。まだ同時に、初春に軽挙妄動せぬが全ての幸福の始まりともな――――」
「わかりました、やりましょう王様」
王は古文書に従い、三日間水のみを口にしながら祈りをささげた。それにより英雄の肉体がまず降り立ち、そしてその肉体にさらに三日後魂が降りる事になっていた。その儀式の最初の三日間でいかにも壮健そうな、だがやや幼さを感じる肉体が王の前に現れた。それが一糸まとわぬ姿であったためリシア姫が悲鳴を上げそうになったが、とにかくそれから三日間更に王が水だけを口にし続けながら祈りをささげた事により、その肉体に魂が宿ったのである。
ジャンと言う名前は、その時の古文書に記されていた名前を拝借したに過ぎない。気に入らなければ変えてもいいと王も姫も言ったが、彼自身があっさり肯定したためそのまま名前となっていた。
そんなジャンにとって、最初の三ヶ月は慣れるための期間だった。剣を振り、この世界の事を知り、そして使命を知る。これだけで全てが終わった。そしてその言葉通り、三ヶ月の時を経て魔王退治に向かった勇者ジャンは、紆余曲折ありながらも残る一年九か月の間に魔王アフシールを倒し、この世界から魔物の脅威を葬り去ったのである。
「この世界の法律なら君の方が詳しいだろう。それに血筋と言う物が」
「私がどういう人間かご存じなのですか」
しかしリシア姫は戦いが終わる間際、アフシールの配下により誘拐されていた。儀式により衰弱していた叔父はもはや亡く、彼女がいなくなったらもう国はおしまいだとまで言われたほどだった。結局無事救出された訳ではあったが、それでも彼女もまたわずかな幽閉期間の間に、コーファンから言わせれば微妙な存在になっていた。
「あの時まで私はあなたから魔物たちの事を聞いていませんでした」
「それはすまなかったと思っている。でも、この国にそれほど問題があったように見えなかったからそれでいいかなって」
「結局その魔物たちのやり方を踏襲しているという訳ですか」
「この国とそんなに変わらないと思うんだけど」
犯罪の取り締まりの強化———それが魔物たちが行った最大の政策だった。魔物たちに直接逆らったとしても、罰金か短い期間の強制労働で済んだ。もちろん反乱を起こせば重罪ではあったが、それでも極刑になる事はめったにない。多くが財産没収か強制労働で終わっていた。死刑になったのは、人間やゴブリンに対する犯罪だった。
ゴブリンは妖精の一種であるが、有翼人種であるコーファンたちとは違い背が低くかなり独特な顔をしており、彼らだけで独自の社会を作っていた。人間との親和性もそこそこあり、それと共に魔物とも親しんでいた。彼らは魔王アフシールの侵攻が起こった際、すぐさま二つに分かれた。ゴブリンはたちまち人類と魔物両方の隣人となり、時には種族を守るためにお互い武器を交えて戦った。
「人間でもゴブリンでも殺せばよほどの事がない限り死罪……一方で自分たちを殺そうとした人間は長くても十年ほど牢獄に入れるだけ」
「裁判は結構公平だったそうですしね」
さすがに鑑識や弁護士はいないものの、それでも裁判は一方的ではなかった。犯人側に酌量できる事情があったと判断した際には、命を取る事はせず牢屋に放り込むか強制労働させるかした。ジャンの故郷のそれ並の刑法だと言われた時には、リシアも驚いた。
「魔物たちがもし、身の程を知る存在であったら私はそちらに降っていたかもしれません」
魔物たちが殺したのは、最初に抵抗して来た人間たちを除けば重罪人だけだった。一番汚い所を取り除いているに過ぎないとも言える。後は野生動物や草刈りばかりで、物々しさと窮屈さはあったがそれでもさほど憎まれてはいなかった。魔物に支配された街が当初勇者たちをさほど歓迎しなかったのは、魔物の逆襲を恐れていると言うよりその支配をさほど嫌っていなかった事も大きかったのだ。
「魔物たちはこのディアル大陸を支配し、彼らの言う所の資源を狩りつくしてまた別の地に攻めかかろうとしていた。その言葉をアフシールの息子の口から聞いた時、私は自分なりに抗うことを決めたのです」
「別の地って、海の先にある?」
「いや、別の次元だそうです。あるいは勇者様の故郷とか」
まだジャンのような存在がいるのでできないとも言っていたが、いずれは勇者の魂の出生地である地球を狙うという案もアフシールにはあった。その話をリシアから聞かされたジャンは、改めて自分の勝利を喜んだ。それが自分のようなのでも役に立てるなど言う低レベルな達成感から来ている事に気付いた時には、一抹の虚しさが彼の頭をよぎったが。
政務を終えて二人きりになったジャンとリシアは、今日もまた王宮の寝室で夜を共にする。普段は一人になったり二人になったりだが、二人で寝られるのもあと二、三ヶ月だと言う事を聞かされてからリシアはやたら共寝する事を求めた。その時の寝物語は、大半が勇者ジャンの故郷の話である。
「勇者様は故郷でどんな暮らしをなさっていたのですか?」
基本的な思い出話と言うべき物だったが、召喚されてから三ヶ月近く城下町の宿屋で給仕の仕事をしながら寝泊まりして剣術の修行に励む新米剣士と言う体で修行しほぼそのまま旅立ったジャンの過去を、リシアはほとんど知らなかった。
「ひどいもんだよ、本当に何もいい事はない。だからもう、この世界に全てを尽くそうと思う事が出来た」
「その割に男の方の話もなさいますが」
「僕は三人兄弟の真ん中だった。兄さんは決して僕を蔑まなかったし、弟はこんな情けない僕を守ってくれた。でもその二人に対して僕は何一つできなかった」
「女の方は」
「いい思い出など何ひとつない、本当に何もないならむしろそれでいいけど」
「しかし勇者様はこれで本当に三十三歳なのですか? 二十歳前後にしか見えませんが」
ジャンは自分の年齢を、三十三歳であると称している。だがそれを真に受ける人間は本当の本当に誰もいない。元の世界では三十歳で死にそれから三年間経ったから三十三歳だと言うのがジャンの理屈だが、リシアでさえも信用していない。
「確かに勇者様から向こうの方の女性の話をおうかがいになりませんが、やはり睦事と言う物には」
「とんと無縁だった。恋人さえも人生最後の七年間はいなかった。途中からはもうその気もなくなってしまったけどね」
「むろん事情はありますが、その年齢までそのような事に無知であられた事。その事が正直な話一番勇者様の年齢を信じられない理由なのです」
リシアはジャンを召喚した時には十五歳だったが、この時代・この世界なりのそういう知識をほとんど身に付けていた。去年王宮で睦言を行った際には、数多の戦いを繰り広げて来た勇者ジャンがまったく子ども扱いされていた。
このディアル大陸での平均婚姻年齢は、二十歳を切る。身分によりある程度差はあるが、それでも三十過ぎまで独身を貫く話はほとんどない。その前に死ぬという話が少なくないのも事実だったが、それでもそういう事に対する教育はある意味ジャンの故郷の世界よりずっと進んでいた。
「以前トモタッキーと言う妖精にその力を見せられた事がありましたね。あの時の衝撃のせいで、魔王アフシールの下へ連れ去られた時も意外に怖くありませんでした」
「何が優れているのかなんてみんな違うんだろうな」
「勇者様の世界ではありふれていたと?」
「想像の範囲内だった、でも実際に対峙してみるとえらく大変だったけど」
トモタッキーの映像を映し出す能力は、この世界ではオーパーツレベルのオーバーテクノロジーだった。そしてそれが幻影ではなく現実になるとまで来れば、もはやそれは魔術とか奇術と言う次元を通り越した文字通りの奇跡である。だが映像に慣れ切っており、さらにそれが現実化するという可能性もあるという想像力を持ち合わせていたジャンには、脅威ではあったが恐ろしくはなかった。自分なりの全力を尽くしての戦いに負けたトモタッキーは、ジャンに服属する事を誓ったのである。
それにしても二人は一年以上前から男女の営みを行いながらも、なかなか孕む様子がなかった。勇者であり次代国王と言う特権でリシア自ら側室をあてがった事もあるが、それもなかなかうまく行かなかった。勇者の力を心正しからぬものが悪用する事を恐れ勇者の肉体をわざと不妊に仕立て上げたと言う話まで出たぐらいだった。やがて出た古文書には、この大陸の言葉で勇者の欲望は魂に正比例するという旨の言葉が書いてあった。
「僕は全然その方向に気持ちが向かなかった」
「私はあなたをお慕いしております、ですからあなたを傷つけた方を許したくありません」
「もう今となっては全て過去の話だからどうか恨まないでもらいたい、とも言えないか」
確かに勇者が欲望に塗れていては世の中は良くなりようがない、だからこそなるべく無私な欲望の少ない魂を召喚したのだろうが、いざ平和になってみるとまるで性欲のない勇者に世界を治めさせるのは困難である。勇者の過去を最初は国中みなが慮り、今では大陸中の人間が慮っていた。
「ようやくこうしてお腹が膨らみ始めた事を知ったら、あの輩たちは何と思うのでしょうかね?」
「言葉が汚いよ」
「勇者様には控えているのですが、ついいつもの癖で」
「胎教って言う言葉が僕の世界にはある。あまり汚らしい事を聞かせない方がいいよ、なるべく安静に過ごして欲しいな」
結局、ジャンの子どもが出来たのは二ヶ月前である。十月十日かけての出産ではなく、十月十日かけての妊娠だった。もちろん、他に確認されている子どもはいない。
「魔王の息子がどこかへ逃れたのはもう間違いない。城の地下まで探ったけどそこにはいなかったし、死体もなかった」
「勇者様、また戦うのですか」
「さすがにそれほど楽じゃないだろう、僕以上にもう一方の世界に戸惑っているだろうから。魔王の息子の所在も、なかなかわかるもんじゃないだろうし」
「…………………」
魔王アフシールの息子が亡命した先が、もし地球だとすればどうだろうか。地球には、この大陸で狩りつくされた資源がまだ山とある。山とどころか、ケタがだいぶ違う単位で存在するだろう。日本だけで一億二千万以上、地球全体で七十億と言う数の人間がいると聞かされたリシアなどは、開いた口が塞がらなかった。なお魔物たちはその点もまた正確で、およそではあるが人口の調査も行われていた。その統計によれば、このディアル大陸の人口はおよそ六百万である。
「地球と言うのもややこしい場所なのですね」
「ややこしくない場所なんてないよ、ややこしさの中身が違うだけで」
三人の妖精たちは、20センチ弱の妖精の姿と150~170センチの人間の姿を切り替える事ができた。だがその素の容姿はとても地球人離れした物であり、特に髪色が良くなかった。ハーウィンが炎のような真っ赤な色で、コーファンが透き通った水色、トモタッキーがミントグリーン。ちなみにこれは妖精だからと言う訳ではなく、この世界ではいずれも100人に1人単位で存在する髪色だった。一応黒髪と金髪が二大勢力ではあるが、髪色に対する偏見はなく庶民には髪形と言う発想も少なかった。一応リシアはウェーブのかかった金髪を流しているが、これとてさほどこだわりやしきたりがある訳でもなかった。ジャンはあらかじめ三人に地球に向かう際に、髪を黒くするようにはっきりと申し付けた。
「一応それなりの身分を名乗れるようにある程度は指導したつもりだけど、何せ二年も前の事だからどれほどうまく行ったか」
「それと共に何かを命じていたようですが」
「アフシールの狙いを思うと、必要な命令だと思ってね」
もしアフシールの息子が、アフシールと同じ力を持っていたら。亡命先に存在する「資源」を狩り、それを武器として再び戦いを挑んで来るだろう。仮に地球に亡命したとしたら、日本だけでこの大陸の二十倍、地球全体なら千倍以上に人間がいる事になる。量は無論、質も膨れ上がるだろう。そうなった時、はたして今の自分で勝てるのか。あるいは、その力を持って地球を征服するかもしれない。そうなったら、自分のやった事はまったく意味がなくなってしまう。
「私は聞かされたのです、魔王の息子から。治安維持と人口統計と言う、勇者様がおっしゃる所の先進的政策を行う秘密を」
ジャン自身、旅の途中でその秘密に気が付いていた。そして、もしそれで世の中が丸く収まるのであればそれでも良いかと思ってしまった事もあった。それでも自分の役目と魔物たちがあくまでさらなる世界を征服するための手段としてそのやり方をしている事にすぐ気が付いたから思い直してアフシールを討ち取ったのだが、今思うと改めてそのやり方の周到さが恐ろしかった。
(ディアル大陸編、もう一回続きます)
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