ステージ3 リア充爆発した!?

 八月二十日、火曜日。依田美代子は駅の隅っこでスマホを見ていた。

(確かに昨今物騒だけどなあ、これもどうかと思うけどさ)

 昨日もまた、五人の死刑が執行された。いずれも刑の確定から長くて三年あまりの、ある意味若い死刑囚たち。二十日前は七人、そのまたひと月前は十六人。日本にそれだけの死刑囚がいた事も彼女には驚きではあったが、それ以上にそのペースの速さも異常だった。

 テレビでは刑務所のキャパシティーや費用の問題が取り上げられていたが、美代子にとってはどこかピンと来なかった。殺すべき人間を、殺している。ただそれだけではないのか。その結果としてそういう所が節約できることになったのならば、それはプラスの意味の副作用と言う物だろう。それが美代子の素直な考えだった。




 依田美代子と言う人間の事を、悪く言う男性は少ない。彼女は決して粗暴な振る舞いを取る事がなく、いつも折り目正しく生きていた。歩きスマホも電車の座席を占拠して化粧をするような事もせず、片道四十分の通勤電車でも子供や老人に席を譲る。お嬢様育ちらしいが、良い意味でそれらしく立ち居振る舞いに常に余裕があった。仕事場でも、お茶くみレベルの仕事でも決して嫌がろうとしない。派手なアクセサリーは好まず、常に清潔で礼儀正しい。微妙にお堅い面はあるが、それでも多くの職場の男性から妻にしたいタイプだと言われていた。


「おはよう美代子さん」

「おはようございます」


 その彼女の社会人人生は、実に順調だった。その細やかな仕事ぶりから、わずか四年で平社員から係長補佐と言う肩書きをもらい、そしてそれとほぼ同時に交際相手がいる事も宣言した。その時には歓声とため息が男性社員から上がり、女性社員からは平板な返事だけが返って来た。

 美代子自身、自分の顔もスタイルも十人並みのレベルである事はよくわかっていた。だから、それ以外の武器を持って戦わなければならない事を認識していた。その武器が、この気遣いなのである。女性社員たちには、その事がよくわかっていた。


「美代子さんっていい管理職になりそうですね」


 と言う女性社員からしょっちゅう飛んで来る言葉が、決して褒め言葉でない事を美代子は知っている。八方美人でぶりっ子だから、中間管理職に置いておけば決して角が立たないという嫌味。だが元より幹部候補生でも何でもないそこいらへんの平社員上がりとしては、十分な地位である。言いたければ言えばいい、それで死ぬわけじゃあるまいしと美代子は内心で笑い飛ばしていた。


「そう言えば美代子さん、最近うちの社から二十分ほど行ったところにあるバー知ってます?」

「あああのディアルってバー?新しいはずだけど結構人いるらしいのよね。って言うかあなたお酒呑めるの」

「ほんのちょっとですけどね、でもまあ金がないんでね。もっぱら聞きに行くだけですよ」

「聞きに行く?あなたお金は払ったの?」

「その分ぐらいはありますから」


 最近、社内で話題になっているのがディアルと言うバーである。もっとも、美代子の言う通り古い店ではない。ほんの三年ほど前にできた新しい店である。それなのに常連客もいるようでそれなりに繁栄はしていたが、目立つ店ではない。それが最近耳目を集めている理由は、酒の味でもマスターのサービスでもない。


「KUMIって言う名前の女の子なんですけどね、あれがずいぶんと聞かせるシンガーでね」

「ああそうそう。どこか目を付けない物かなって思うんだけどね。うち芸能プロダクションじゃないしね」


 KUMIと言う、ストリートミュージシャン。店主や行政の許可を得て行われている彼女の路上ライブ目当てに、最近そのバーの客が増えていた。普段はアルバイトに精を出しながら、休みが取れるとああしてギターをかき鳴らしながら歌っているという。なぜ芸能事務所が目を付けないのか、曲を聞いた人間の大半にそう感じさせていた。

 実際、彼女の事を善意か否か芸能プロダクションに売り込もうとした人間もいた。だが本人はあまり積極的ではなく、仮に芸能プロダクションに所属するとしても営業中心でメディアへの露出は控えたいと言うずいぶんと調子のいい条件を付けているため、なかなかうまく行かない。最近では、わざと現状の地位に甘んじ続けるためにそんな条件を付けているのだという噂まで流れ始めていた。


「ディアル? 係長補佐も買ったんですかあの本」

「お前には聞いてねえっつーの」

「話の流れってのがあるでしょ」


 KUMIがディアルの前で路上ライブを始めたのが三ヶ月前である。それまでは、ディアルと言えば「ディアル戦記」だった。実際、社員の中にも「ディアル戦記」を読んでいる人間は少なくない。だが美代子にとっては、全く遠い存在だった。「ディアル戦記」はあくまでも児童文学であり、社内で話題にしているのは小中学生の子供を持つ親である社員と、この男のように大人になっても卒業できないような連中ばかりだった。最近ではコミカライズも行われているらしいが、いずれにせよいいとこ中高生向けの物である。

 そして美代子も、このアラサー独身男へのフォローは行わなかった。だがしかし、彼女がこうして冷たくしたのはあなた話の流れがわかってないじゃないと言う理由ではない。なんとなく、嫌悪感があった。確かに彼は、空気も話の流れも読めていないし、服装にも必要最小限以上に気を使っている節がない。顔だけは良かったが、むしろそれが美代子の心を逆なでしていた。


「おいZ、しっかりしろよ。そんなんだからお前女にモテねえんだぞ」

「だれがZだよ」

「お前だよ。いくら分野が違うからつったってな、お前男のくせに美代子さんに嫌われるって相当だぞ? もうちょいキチっとしろよな」

「そりゃ誰だって好き嫌いがあるもんだけどさ」

「お前は人がいいな、本当。 Zの後はねえんだぞ、Zの後は!」


 その彼の事を、美代子はZと呼んでいた。最初はZIだったが、いつの間にかZになったのだ。A~ZのZと言う意味じゃねえのか、お前もう少しシャキッとしろと言う指摘もあったが、実は彼自身仕事はそれなりに有能で昇進も時間の問題と言われていた。ただ仕事と漫画採集に精力を注いでいただけで、それ以外の方向には意欲が向いていないだけである。

 ZIと言うあだ名に、「残念な」「イケメン」以上の意味はない。嘲りと謗りの意図はあったが、決してそこまでひどい悪口のつもりではなかった。それがここ最近Zに変わった理由を、美代子は誰にも話していない。


「ん?」


 もっともそのZ自身、その事を気にしてなどいない。今日も社内で経理部の仕事に勤しむだけであった。だがまもなく昼休みの時間に、伸びをして手を上げた彼の目に小さな青い光が飛び込んだ。三十階建てビルの七階、比較的眺めが良く青空も見えるオフィスだが、その青い光はどこか異質だった。まるで自分の事を眺めているような、応援してくれるような。そんな心地よさをZはその光から感じる事ができた。


「何か機嫌良さそうだな」

「まあな」


 午後、ハンバーガー二つを腹に詰め込んだ彼の仕事ぶりは実にテキパキとした物で上司や同僚も舌を巻く物だった。もしこの仕事ぶりが続くのならば今度の人事異動で係長に昇進させてもいいのではないかと思わせるほどであり、この日この課で彼だけが定時で退社する事に成功した。その夜、その彼がバー・ディアルに行ったのはどれだけの意味があるのだろうか。


「今日いないんですか?」

「ああ、彼女は不定期だよ。でも土曜日は必ず来て、それで来週の日程を告げて去って行くんだ。今週は忙しいのか水曜日だけだってよ」

「そうですか……」


 わかりやすく肩を落としてみたZだったが、バーのマスターにはどうにも真剣に落ち込んでいるように見えなかった。どうにも真剣さがなく、聞ければ儲け物レベルの発想で動いている。仕方がないと言えば仕方がないが、外見からしてあまり音楽に関心がなさそうであり、そして酒にも関心がなさそうとくればバーのマスターとしては印象は良くならない。酒を呑まずにライブだけ聞きに来ているような人間も多々いる事も知ってはいるが、あの男性は酒よりジュースのがお似合いに見えていた。


「あの子は本当、優しい子だねえ。ああいう感性があればもっと今の男もさあ……つくづくもったいないよな、二人とも」


 さえない男がいなくなると、マスターはKUMIの事を思い出す。叙情的で、心魅かれる歌声。最初はなんとなく難色を示していた自分も、一曲聞かされて印象が180度変わった。もしメジャーデビューしたら、全面的にバックアップしてやりたいとまで思わせるほどだった。彼女にその気がなさそうなのがどうにも惜しく、そしてそれもまたマスターには愛おしかった。




 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




 一方その頃、依田美代子はレストランにいた。交際中を通り越して婚約者になった男性とのデートである。


「ねえあなた、そろそろ」

「気が早いな美代子さんも」

「もう、まだ美代子さんって言うの? お前でいいから」


 普段、引き締まった顔をしているキャリアウーマンの姿はそこにはない。衣装こそスーツのままだが、その顔はつややかな女の物になっている。


「ぼくは清純派って訳じゃないけどさ、実はまだ」

「ああそうなの、まあ知ってたけど。まだいいじゃない、二十八なんでしょ。お互い様って話」


 これほどまでいい顔いい仕事ぶりなのに未だに女性との性行為を経験していない事を彼から聞かされた時は、世の女性の見識を一瞬疑いすぐにハードルが高すぎるのだと実感した。そんな男を、今自分は射止めようとしている。美代子が人生最大級の幸福に浸っていると、ウェイターがやって来た。


「ワインの方はいかがいたしましょうか」

「今日のメインはサーロインステーキなのでやっぱり赤で」

「かしこまりました」


 頭を深々と下げたウェイターが顔を上げて美代子と顔を合わせると同時に、幸福に緩んでいたはずの美代子の顔が急に引きつった。




「何かお困りでしょうか」

「いえ何でもありません」

「では少々お待ちください」


 美代子があわてて目線を下にずらすと、そこには「伊佐」と書かれた名札があった。そしてその上の頭には、あの時の顔が張り付いている。


「どうしたんだよ」

「いえ、何でもないから」


 八年前に別れ、そして去年死んだはずの男性。いや間違いなく、あの男は去年の今頃死んだはずだ。それがなぜここにいるのか。そう思うと心が容赦なく乱れる。


 八年前の、二十三歳の時の顔。当初はほんの少しだけその気もあったが、時間が経つにつれ遊びつくして捨てても構わないと思うようになって来た。冷静沈着を通り越してグズ、優しいを通り越して女々しい、そして謙虚を通り越して自信がない。そういう訳でどうにも将来性を感じられなかった男。家事だけは得意だったがそれはそれで自分の自信が崩されてしまうので気に入らず、それである事ない事様々にぶつけた。

 それでひたすらに別れるぞと脅して金品を貢がせ、架空の二股相手を作り、架空の無駄遣いをでっち上げ、架空のミスを責め立てた。こんな相手を好きになってしまった自分自身の後悔をエネルギーに、伊佐新次郎を激しく責め立て追い払った。そして彼女自身、この事を全く反省していない。むしろ後腐れなく別れられて良い事をしたとさえ思っている。

(気のせいよね、気のせい…………)

 そう思いながら気を紛らわせるために周りをキョロキョロと見渡した美代子だったが、そこでいよいよ本格的に声が出なくなった。その場にいた客全員が、伊佐新次郎の姿になっていたからだ。


「ちょっと!」

「………………うっぷ、気分悪くなっちゃって……ごめんなさい今日は帰る……」


 美代子だけを見ていた彼は、その事態に気が付かなかった。ふらつきながら立ち上がった美代子にはもう、ここにいる十人以上の伊佐新次郎の視線に耐えるだけの気力はなかった。いきなり十キロ以上も体重が重くなったように、彼女は無言で肉体を引きずりながらエレベーターへと向かった。

 自分が幸せになろうとしている所に、なぜ割り込んで来るのだろうか。しかもあんなに数を増やして。それだから幸せになれないんだ、自分が見捨てた事はが正しいって事を示すだけなのに。エレベーターで一階まで降りる間に気力を取り戻した美代子は、そう伊佐新次郎に対して毒付いた。

 事情は知らないがせっかく就職した会社をわずか三年で投げ出すような男だ、お前はそんなのと付き合いたいのかよと言われてはいそうですと言える物なら言ってみろ、そう思いながら帰りの電車に乗り込むべく駅へと向かおうとすると、今度は嬌声とシャッター音に包まれた。


「すげえ美女見つけちまったぜ!」

「何やってるの!……って言いたいけどあれには負けるわね」

「美女発見、と。輝く建物と相まってこいつはインスタ映え間違いなし!」


 美女と呼ばれる事は嫌ではないが、それにしても突発的過ぎる。心理的にひどいダメージを受けていた後だっただけにこの急な状況の変化はなおさら美代子の心を揺さぶり、そして肉体にさらなるダメージを与えた。


「うわわっ、何か吐き出してるぞ!」

「あーあー……大丈夫ですか!」


 ないはずのフラッシュを感じて急に気持ちが悪くなった美代子は、下を向いて嘔吐してしまった。かろうじて服だけは汚さずに住んだが、地面がたちまちにして気持ち悪い色に染まった。そしてそれでも美女が台無しとならず、逆に余計なおせっかいレベルに心配する声が膨れ上がった。


「私大丈夫ですから……」


 その手を振り切ろうとして走り出そうとしたとたん、再び美代子の周りに集まっていた人間が全員伊佐新次郎になった。それと共に美代子の姿が元に戻り、そして彼女自身の緊張の糸と理性が消えた。

「うわああああああああああ!!」

 それがほんの0.1秒の事だとは夢にも思わず、美代子は逃げた。ただただ、家に向かって逃げた。そして見る物すべてに怯えながら電車に乗り込み、その中で二度ほど悲鳴を上げては過呼吸に陥り、帰宅した時にはもう生きる屍と化していた。


「何……何これ……」


 まともに着替えもせずにベッドに倒れ込んだ美代子に、今度はメロディーが突如響き渡った。どこから来ているのからかわからないメロディーに、彼女の心は更に乱された。


「どこっ!? 人が寝てるのにどこから!? 近所迷惑よ!」


 確かに夜ではあるが、まだ午後八時にもなっていなかった。その声の方がよっぽど近所迷惑だという発想すら、今の美代子からは消し飛んでいた。いくらわめいてもメロディーは消える事はなく、無思慮かつ無慈悲に耳に向かって流れ込み続ける。どこから湧いているのかさえもわからない音楽が、美代子の心を踏みにじった。




♪あの時渡した アクセサリー まるで使わず 売り渡した~

 壊したとか なくしたとか 取り繕う事もせずに~

 だって だって だって それがあなたの正義!

 だって だって だって そう信じてるんだから~!




 本来ならば心地よいはずのメロディーに乗って、聞こえて来るフレーズは重苦しくとげとげしい。まるで自分の罪を責めるかの様に、曲は流れ続ける。まるで普段はまったく見せない悪意を、精一杯吐き出した時のような恐ろしさ。


「KUMI!」


 話題にしてはいたが、実はこの三ヶ月で二度しか聞いた事のない彼女の声。そのくせ耳に残っている、清らかな声。清らかなだけに、ギャップが恐ろしかった。


「KUMI……あなたはなぜそんな歌を私に!私を苦しめたいの!?そうでしょ、絶対にそのためにそんな事をして!そうよ、そうに決まってる!何が悪いかは知らないけど絶対そうよ、あんたのような奴を少しでも応援しようと思った私がバカだった!」


 まったく姿の見えない存在に向かってわめき立てる美代子の声が、マンションに響き渡る。心地よい歌ではなく、ただの叫び声が。もちろん、果てしない近所迷惑である。


「ちょっと依田さん!」

「ああ……」


 やがて歌声が止まり、その結果わずかに心を落ち着けられた美代子は顔を作りながら隣人の女性の抗議に平謝りしようとした。髪も服もよれよれの姿で足を引きずり、ひたすらその目前の目的を果たすために二十八歳の女性は体を動かし、即座に言い訳をでっち上げた。


「申し訳ありません、実は付き合いでたっぷり上司の」


 下手くそな歌を聞かされてそれが耳に残ってしまい―—――と言う言葉が、美代子の口から出る事はなかった。主婦らしく高い声での抗議を受けたはずだったのに、目の前に立っていたのは男性だった。そしてその顔は、紛れもなく八年前にこっぴどく振った伊佐新次郎のそれだった。服も体型も、そっくりあの時のままだった。


「………………」


 仰向けにひっくり返った美代子の目は大きく見開かれ、口から泡を吹き出している。その目に何が映っているのかは、もはや誰にもわからない。


「あの、もしもし!」

「…………」

「もしもし!?」

「………………」


 怒鳴り込むつもりだった隣人の主婦の通報で彼女は救急車に乗せられ、病院へと運ばれた。その姿には、もはやいつものやり手OLの面影はない。あるのは、過去の借金の督促状に押し潰された無力な二十八歳の女の姿だけだった。




 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




 ちょうどその頃美代子が住むマンションに向かおうとしていた一人の男性は、救急車の姿を見つけ、そこに依田美代子が乗っている事を聞いて舌打ちした。

(小物を狩ってばっかりだったのが仇になったか……これでは申し訳が立たないぞ。次のめどは付いているが、今の私の力ではできないだろう。その点は王子様にお頼み申すべきだろう、私は引き続き別の女を追おう)

 夜だと言うのにサングラスをかけた長髪のイケメン男性・不破求ことインキュバスは、自分が利用しようとした依田美代子がさして使い物にならなくなった事を悟らざるを得なくなった。彼女を自分の側に取り込む事は可能だったはずなのに、なぜ出遅れたのか。

(しかしこれで、ほぼ間違いないだろう。あの連中もまた、この世界に来ている。こちらの戦力になりそうな人間を潰しにかかっている。それだけでも収穫としておかねばなるまい…………)


 その疑問の答えが、あの連中が先回りしていたからだという結論に達するのはすぐの事だった。そうでなければ、こんな深い闇を持ちながら市井に隠れている人間を取り逃すはずはない。仮にも魔族として相当な戦歴を積み、この世界に来てからも毎晩女性の精を吸い取っているはずの自分が出遅れる。おそらくはこちらの事を知っているより強い力の持ち主がいる、しかもこの辺りに。

 アプローチをかけていない訳ではない。だが不思議なプロテクトがかかっており、どうにもその相手の夢に入り込めない。その件でインキュバスはずっと前から不遇な女を狙ってはそれを取り込もうと繰り返して来た自分の過去を悔いたし、責められもした。自分の力が妻ほど強ければ破れたのかもしれないのに、と。

(あの魂があればお前は昔の様に蘇れる、いや以前よりもっと強くなれる。待っていろ、我が伴侶よ)

 インキュバスは同居人への言い訳とこれからの方針を考えながら、闇夜に姿を消した。そのサングラスの下の目は実に闘志に満ちており、優男の相貌とはまったくかけ離れた魔物らしい物だった。もちろん、女性を落とすためにその目つきにふさわしい姿に自分を変える事ができるのもインキュバスだが。




 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




 あのお方の怒りを買うだろうことは、重々承知だった。だが、どうしても彼女には依田美代子が許せなかった。

(魔物にも、あそこまでの輩はいなかった)

 芸名・KUMI、本名木田功美。彼女は、暗くない都会の夜空を舞っていた。幾百年と暮らして来たふるさととは全く違うこの世界に、最初は戸惑いもした。三人揃ってある程度の知識は持っていたはずだが、やはり見ると聞くとは大違いである。あるいはその間に、少し先行を許してしまったという悔いもある。

 木田功美と言う名前、適当な所在地と適当な両親の名前を始めとした戸籍とか言う代物、そしてこの世界での食い扶持を見つけるための技量を自分たちの力を使って獲得し、三人一組での同居生活を始めてからひと月近くが経つ。それぞれめいめいに動き、この世界の浄化を果たしている。それは、決してこの世界の事を重んじているからではない。あくまでも自分本位であり、「勇者様」本位なのだ。

(怒られるかもしれないけど、トモタッキーだってあんなやり方をしたんだからこれはお互い様って言う代物です。悪意を浄化して弱めれば戦力にはならなくなるかもしれないけど、どうしても勇者様をもてあそんだあの輩は許せなかった、トモタッキーもハーウィンもその事は共通認識でした)

 木田功美と言うのもまた、自分たちの力で手に入れた名前だった。彼女の本当の名前はコーファンであり、数百年間その名前で通して来た。そして今空を飛んでいる妖精としての姿が、彼女たちの本来のそれだった。

 自分たちは三~二年前にそれぞれの事情をもってあの勇者様と戦い、そして負けた。そして心服し、共に戦った。


「私の力を持ってしても、あの勇者様には手も足も出なかった。そして勇者様に敗れた後もそれなりに研鑽して来たつもりだったけど…………」


 人間と妖精と、そして魔族の違いは何か。その事についてコーファンは考えた事もなかったし、考えようともしなかった。だが狭い森の中を抜けて勇者様と共に戦うと、比較的すぐに答えが分かった。

 確かに自分も、トモタッキーも、ハーウィンも、それなりに強大な力を持っている。だが、案外とあっさり先が見えてしまった。加わったばかりの時こそ勇者様と互角だったのが、時が経つにつれ差が開いて行き最終決戦の時などは、ほとんど脇役にしかなれなかった。自分たち妖精は生まれた時からある程度強い代わりに、頂点に達するのが早かった。その限界に早いうちに気が付き、そしてその事に気づいてからそれ以上は求めなくなる。そういうある意味で平和で穏やかな生活、それが妖精たちの日常だった。

 でも人間と魔物は違った。人間はその大半が、魔物はその一部が自分たちの力を高めんと日々研鑽を積みそうしてその力を無制限と言う段階にまで膨れ上がらせていく事ができる。才能なのか、それとも種族差なのか。いずれにせよ、3人の中で人間の力を一番軽視していたのが自分だった。

 お得意の姿を変える力を使い樹木に成りすましたり逆に自分の姿を増やしたりして視界を惑わそうとしたが簡単に見破られ、それでもなお勇者本人を子どもの姿にしてある意味で力を奪ってみたつもりだったが、まるで諦める様子がない。勇者は自分の事を最後まで諦めない存在だと褒めてくれたが、それは逆で自分の力の限界を知っていたから怖くなって逃げ出しただけである。


「人間ってのは、高く上る事ができる、それと同時に深く沈む事も出来てしまう。その事を改めて思い知りましたわ……」


 自分たちの住んでいた世界には、あそこまで厚顔無恥な人間はいなかった。一年もの間好き勝手と財貨と気力を搾り取り、そして適当な理屈を並べて自己満足に浸って逃げるような非道な女。そして上っ面だけを飾る事に終始し、踏みにじった連中の事は全く考えない。魔物と変わらない、いや魔物でも必要な分以上をむさぼる事はしないからそれ未満の人間。


「魔王の息子は、もちろん自分たちの魔物の強さの根源を知っている。だからこの世界に来たのは、おそらくこの世界から全てを狩りつくすため。そうなったらあるいは勇者様でもかなわないかもしれない。それだけは避けねばならない!」


 勇者様が二年間の旅でここまで悪辣な人間に出くわさなかった理由は、コーファンに言わせれば既にはっきりとしていた。魔王アフシールを倒した後改めて勇者と共に魔王の城を探索したコーファンたちであるが、魔物はいても生命を持った物は全くいなかった。言うなれば、魔物の「ぬけがら」だけが並んでいたのである。


「まったく、勇者様が魔物のやり方を取り込まざるを得なくなった理由もわかりますわ! 決して人間たちが単純には味方しようとしなかった…………あのゴブリンたちは元からとしても、一部の人間たちまでもが積極的に魔物の味方をしようとしたという現実は、正直私は未だに信じられない…………」


 あの政策がもし、ここで行われたらどうなるか。あるいは善良な人間たちはそちらへとなびくかもしれない。いつでも自分たちに牙を向けないとも限らない物に全てを預けるようなやり方をする存在に身を預けてもいいと言う訴えを、ついぞ自分が崇敬する勇者様ははねのけられなかった。この世界であの依田美代子とか言う輩に魂を抜かれたせいかもしれない、彼女がそう思った事もまた今回のやり方を過激な物ならしめていた。

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