ステージ1 同窓会事件

 八月十八日、日曜日。そのホテルは活気に包まれていた。


「皆様、どうぞこちらへ」


 上は五十歳から下は二十歳まで、百人以上の男女が集まっていた。全ては、たった一人の人間のために。これが一周忌とか言う辛気臭い物でない事は、案内役の女性の顔が物語っていた。北本と言う名札を胸に付けた彼女は、微妙にぎこちないながらも実にいい笑顔をしていた。


「菊枝ちゃん、ずいぶんと頑張ってるね」

「いえいえ」


 彼女がアルバイトだと言う事が、本職のホテルマンたちにとっては惜しくて仕方がなかった。本職はハウスキーパーで、その仕事がない日に許可を得てこうしてアルバイトをしていると言う女性。笑顔が素敵なだけでなくベッドメーキングや清掃などの仕事にも使えそうであり、こういう人材を何故確保・育成できないのかと言わんばかりに人事担当者が苦虫を嚙み潰したような顔をしているのもごもっともだった。


「本当、どうしてこんな人間を見つけられなかったんだろうな。こんな素材を見つけてさ、ここを去る時にはこれだけの人間に見送られたいもんだよな」

「主役の方だってまだ見送られる訳じゃないんですから。これからあなたが頑張って、そうなればいいだけじゃないですか。私だってそうなりたいですから」

「ああどうもありがとうございます。でも人事担当ってのはどうにも恨みを買いやすい仕事でしてねえ、あなたもですか?」

「私はまあ、夜の店の者ですよ。安心してください、会計担当ですから。それより今日はたまには張り込んでランチでもと思ったんですけど、この調子じゃ無理ですかね」

「いえいえ、結構でございます。それでレストランはこちらですので」


 そういう理由でこの場所で唯一浮かない顔をしていたその人事担当の男性も、一人の男性と話を交わす事により顔がほぐれて行った。目は輝き鼻は高く、背広は派手ではないが上品で値段を実際より高そうに見せていた。靴下もネクタイも靴もしかりで、さぞ女性にモテそうに思えて来る。実際、彼はこのホテルに集まった多くの女性客の目線を集めていた。独身者はともかく、既婚者さえも夫の存在をほんの一瞬忘れさせるほどだった。そして男性さえも、独身者はうらやましがらせ既婚者は自分もああなりたいと思わせた。


「ちょっと菊枝ちゃん」

「ああすみません、不慣れなので」


 ただ一人、北本菊枝だけがその男性を見て好感を持った表情ができなかった。その感情が一瞬表出してしまいあわてて平謝りをしてごまかした菊枝であったが、すぐさま安心して元の笑顔に戻りながら来客たちを出迎えた。


 やがて、百人以上の客が待ち望んでいる男性がホテルへとやって来た。


「お待ちいたしておりました」


 五部倫太郎。新山高校教頭、五十八歳。篤実と評判の高い教師である。


「ずっと大変でしたよ。そんな生活をずっと送って来ましたけど、ようやく解放されるかと思うと安堵すると同時に淋しいんですよね」


 泰然とした様子で会場へ入り込むその姿はとてもシャキッとしていて、五十八歳と言う年齢を感じさせる物ではなかった。頭こそ真っ白であったが、毛の量は多くメガネもコンタクトレンズもしていない。髪が黒ければアラフォーでも通りそうだと言われている。


「ではどうぞ」

「キミは?」

「アルバイトの北本菊枝と言う者です」


 心底からの笑顔を浮かべながら、菊枝は頭を下げた。その姿を見た倫太郎が他の男女と同様に彼女に好感を抱いた事は言うまでもない。倫太郎が上機嫌になりながら部屋へと入り込むと、拍手の雨が鳴り響いた。







「お待たせいたしました!五部倫太郎先生です!」


 この大同窓会と言うべき舞台を仕切ったのは、アラサーの四人組雑多・魚沼・茂山・武村だった。雑多はこのホテルの専属司会者、魚沼は国際的大企業の係長、茂山は弁護士事務所所長、武村はIT企業の社長夫人及び社長秘書。ここにいる百人の中で、いや倫太郎の全ての教え子の中でもアラサーと言う年代を基準にすればもっとも羽振りのいい軍団。


「えー、五部倫太郎です。この度はわたくしなどのためにお集まりいただきまして、どうもありがとうございました。わたくしも五十八のつもりではありますが、それでもこれだけ集うと改めて自覚をせざるを得なくなります。いやはや、老いをこんな事で感じるとは全く驚きですねえ」


「先生、八月に場をあっためないで下さいよー」


 この自虐めいたジョークに同窓生たちから笑い声が起こり、場の空気は熱を帯びた。それに続く雑多の掛け合いは、まるで漫才の様であった。親子ほど年の離れた師弟と、やはり親子ほどの差がありながら集まった教え子たち。そのやや散らかり気味だった空気は、これでいっぺんに軟化した。


「さて皆さん、いろいろお話もおありでしょうがまずは会食です。これより四十分間の立食パーティーを行いますので、ぜひ豪華メニューをお楽しみ下さい」


 様々な料理が取り揃えられた豪華な食事。


「魚はないんですか」

「申し訳ございません、ただいま漁閑期でございましてこれほどの人数に対応できる魚料理は確保できませんでした。レストランにはあるそうですが」




 実際、その頃レストランではあのイケメンの男が魚料理をメインとしたコースに舌鼓を打っていた。それでも穀物も野菜も肉も酒も、十分な高級品である。


「お気に召しませんか?」

「いえ、少し気になる事がありましてね。大変美味ですよ」


 だがその男の表情はあまり明るくはない。まるで何かを探し求めているような、素直に美食を楽しむ余裕がなさそうな目つき。レストランの向こうにある、同窓会の会場に向けられたその目線を、もし心得がある人間が見たならば彼は即座にこのレストランを追い出されていたかもしれない。だがこのホテルでただ一人心得を持った存在は、彼の存在に気付く事なく目の前の大事に集中していた。





「魚はなしかよ……まあなあ、今日の最重要目的は五部先生に会う事だからな。会費も会費だったし」

「ちょっとお前、雑多に失礼だろ」

「でも2500円って聞いてたからああそんなもんかなって」

「えっ?」


 それでもなお魚料理がない事に不満をこぼしていた魚沼の部下でかつて五部の生徒だった男がこぼした2500円と言う数字が、魚沼の目線を乱した。


「おい雑多」

「ちゃんと送ったはずなんですけど……」

「私たちは2000円って書いてあったんだけど、ねえ武村」

「そうよね」


 魚沼・茂山・武村の3人の招待状だけ、参加費として2500円ではなく2000円頂戴いたしますと書かれていたのである。そしてこの同窓会を取り仕切った主催者であるはずの雑多もまた、客としては2000円しか払っていなかった。


「何かの手違いがあったみたいですね。すみません、今から500円ずつ徴収いたしまーす。申し訳ありません先生」

「誰だって手違いはあるだろ、なあ聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥だろ」

「そうですね」


 雑多は右手で後頭部を掻きながら頭を下げて台を降り、そして500円玉を3人から回収して袋に入れ、自分の500円玉をそこに放り込んだ。


「大変申し訳ございませんでした。改めて、いただきます!」


 この不手際を責める声は、どこからも上がらない。和やかな同窓会の話に、さらに花を咲かせるハプニングの一つだった。

 そんな彼らには、会場の外で北本とか言うアルバイトが目をつぶってじっと無言で立っている事などどうでも良かった。彼らは肉料理に舌鼓を打ちながら、他愛ない昔話に明け暮れようとしていた。司会と言う立場を半ば放棄した雑多も、三人の親友と共に座を囲みながら口を動かしていた。




「うまいっすねこの肉」

「何の肉かしらね…………えっと」

「あのさお前食べて分からないのか茂山。これは」

「ねえ伊佐新次郎って、生産者の人? 牛ともブタとも鶏とも馬とも羊とも違う味でおいしいんだけど、これ何の肉ですか?」


 ――伊佐新次郎。その名前を聞かされた四人の顔が一挙に青ざめた。十年以上、封印して来たも同然の名前。それがなぜここにあるのか。


「って言うかこの赤ワイン、濃厚でおいしいんだけどさ。この伊佐新次郎って人はブドウ農家だったの?」


 そしてワインを飲んでいた人間からもその名前が飛び出すと、四人の顔はより一層青くなり、倫太郎の顔も少し引きつった。雑多が震えながらワインのボトルを見ると、そこにはフランス語に混じって日本語で「原材料:伊佐新次郎」の文字が入っていた。


「すみません、私はあくまで司会者でホテルの全てを把握している訳ではございませんのでー、伊佐新次郎と言う生産者様とホテルが契約しました事をー、まったく知りませんでしたですハイー……どうか、不勉強のほどをー、お許しくださいませーー」


 冷や汗をかきながら、雑多は理屈をひねり出して話を無理矢理まとめ上げた。目の錯覚だ、誰かのいたずらだ。いたずらだとしたら後でその張本人を見つけてとっちめてやらなければならないなと思いながら、雑多は茂山にはラム肉の味もわからないのかよと脳内でぶつくさ言いながらワインを口に運んだ。

 確かに客の言う通り、濃厚でおいしい。これまで飲んだ事のない、鉄分に満ち溢れた濃厚で重厚な味。


「さすがですね、一本10000円は下りませんよ」


 ワイン通だと言うアラフィフの男性からそう言われた時雑多は自分の勤め先のワインの目利きぶりを自慢するより先に、1500円のワインと10000円のワインの区別も付かないのかと笑ってやりたくなった。一応雑多はワインを飲まない訳でもないが、それはコンビニで買う一本1000円レベルのである。


「それにしてもこのワインはいいわね」

「ワインはキリストの血とか言うけどね」

「もう、魚沼くんたら気取った事知ってるんだから」

「武村だって社長夫人ならそういう事ぐらい覚えとけっての」


 それでも3人が落ち着いている以上大した問題ではないんだろうなと自分を安心させた雑多はほっと溜息を吐きながら肉を口に運び、そのやはりどこでも食べた事のない不思議な味、しかし良い味を堪能して飲み込んだ。


「先生もお召し上がりになりましたか」

「うむ、いい肉だな」

「ありがとうございます」


 そして五部倫太郎が自分と同じように肉を高く評価してくれている事を知った雑多はようやく胸を撫で下ろし、しばらく美食を楽しむ事を決めた。

 だがその瞬間、雑多の顔から再び血の気が引き、そして腰が抜けた。







 人間の体が切り刻まれようとする映像が、いきなり部屋中を覆いつくした。目を反らそうとしても、映像の方が付いて来る。助けを求めようにも、声が出ない。魚沼も茂山も武村も、同じように腰を抜かしながら口を開けて呆けたように上ばかり見ている。そして五部倫太郎はかろうじて足を踏ん張りながら、やはり四人と同じように無言で上をじっと見ていた。


 そして―――――その映像から落ちて来た血液がグラスに入り、先ほど飲んでいたワインとまったく同じ色になった。まぎれもない、人間の血液。そんな物を飲んでいたのか、いや飲ませていたのか。血液型が違ったら命に関わるとか、その前にそんな事がばれたらこれで自分はクビだとか言う事を雑多が考えていたのは、現実逃避以外の何でもない。


「あ゛ぁ゛っ!」

「どうしたんだ雑多君!」


 その恐怖から押し殺した悲鳴を上げた雑多に、倫太郎が千鳥足で近寄った。雑多の目は大きく見開かれ、口からはよだれが流れている。さすがに会場がざわつき始め、それとともにこれまでこの場所になかった調子の声が響き出した。





「あなたたちこそ、勇者様を貶めた悪魔。2000円なんてすぐ出せるんでしょ?こっちで言う所の、銀貨2枚。7歳児のお小遣いと同じなんでしょ?その2000円のせいで、勇者様の人生は大きく狂ったの」


 会場の外にはまったく届かない、と言うより倫太郎と雑多たち四人以外には届かない声。その声の主とおぼしき十代半ばの少女の声は、糾弾と断罪を望むがごとく容赦がなく、そして一分の濁りもない。


「今なら間に合う。勇者様がふるさとで見せた最大限の謝罪の仕方。土下座ってのを」

「……つまらない……いたずらをやめろ」

「じゃ」


 そして5人にだけ見えていた映像がゆっくりと動き出し、消えたと同時に中年男性たちの声が鳴り響いた。




「うむ、伊佐新次郎の責任だろうなこの事態は」

「そうですよ五部先生。あんな根暗男がいるからこのクラスはダメになるんですよ」

「そうそう、あれって何様のつもりよねー雑多。自分がほんのちょっとばっかし勉強ができるからって。あんなキモい男に惚れる女がいたらいっぺん見てみたいっつーの」

「まったくよね茂山ー、あれ絶対成長したら口うるさいオッサンになるわよ。だからそのためにも今のうちに頭叩いて置くべきじゃ?」

「武村の言う通りだ、うんうん。雑多の言う通り、先生が2000円を置き忘れたのもあの伊佐とかって男のせいですよ」

「4人も証言があるんだからな、うん、間違いない。君たちはきっと社会で成功するぞ」





「修学旅行のお金が足りなかったのはこの男がただお金を置き忘れただけだったのに、それを勇者様がケチっただけだとこの連中が言い出して。全部を勇者様に押し付けて知らん顔。もちろん勇者様は抗議したけど知らぬ存ぜぬ。ご立派な校長先生様とかが出て来てくれて何とか丸く収まったけど、自分の責任でもないのにみんなからクドクドネチネチ責められて勇者様の心はズタズタのボロボロ。それからもうずーっと苦しくて苦しくて仕方なくて、よくこの状況から逃げずに立ち向かってたよね。勇者様が勇者様で良かったね」


 十五年前の、冤罪事件。五部倫太郎は、子どもたちを盲信する4人の子どもの親たちのゴリ押しに屈し、自己保身のために伊佐泰次郎を見捨てたのである。


「うっ……嘘だ! でたらめだ!」


 倫太郎が叫び声を上げると、今度は出席者全員に見えるように映像が浮かび上がり、そして先ほどの会話をしている5人の姿がゆっくりとステージに舞い降りた。十五年の時を経てそれなりに変わってはいたが、その5人は紛れもなく五部倫太郎と雑多・魚沼・茂山・武村だった。


「あれから三、じゃなかった一年だね。お線香とかって物でもくれればよかったのにそんな事もしないでさ。じゃさようなら」


 5人のもっとも醜悪なる過去。そう、伊佐泰次郎と言う無実の人間の肉を喰らい血を啜って大きくなったという事実。同窓会は、たちまちにしてこの5人への弾劾会場と化した。




「ごちそうさまでした」


 ちょうどその頃、ランチを食べ終わったあの紳士はこの大騒動が行われているホールにちらりと目を向け、そそくさと立ち去った。そこに笑顔はない。

(……チッ)

 ホールの方を見た紳士が内心で舌打ちした事を、騒動の対処に追われているホテルの人間たちは気づかなかった。





「いや済まなかったねこんな事になっちゃって……あの皆さん落ち着いて下さ」

「あんたを慕ってた年月を返せ!」

「おいボーイ、この司会者クビにしろ!」

「お前のがよっぽどきめえっつーの!」


「おいおいおいおいどうなってるんだよ!!おい北本!」

「……悪い事は悪いと言わないとダメですね。すみません、実はあまりに忙しかったもんでちょっと10分ほど居眠りしてまして」

「ああそれぐらいならいいよ、とにかくお客様を止めてくれよ!とにかく皆さま……!」


 北本たちスタッフが必死に収拾を付けようとしたものの、この弾劾裁判が終わったのは、同窓会の予定終了時刻より一時間も後の事であった。




(「この行為にどれだけの意味があるのかな……」)


 ようやく全てを終えて帰路に付いた北本菊枝ことトモタッキーは自分がけしかけた弾劾裁判に、どれだけの意味があるのか考え込んだ。自分たちの尊敬する主を追い込んだ卑劣な輩、それに対しまったく反省の様子がない事から見てもあいつらにとっては格好の素材。それを砕く事が出来たと言えば体はいい。だが私情ではないのか、勇者の家臣が市場で動いて良いのか。自分たちの目的はあくまでも魔王と家臣を倒す事でありこんな私刑を下す事ではないはずだ。


「まあこれにより魔王にとって都合の悪い魂にすることはできたし、よしとしておくかなー。怒られたらその時は謝るしかないよね」


 トモタッキーに、反省はあっても後悔はない。自分たちなりに勇者の人生を乱した人間を調べ上げ、糾弾するつもりでいたのはコーファン・ハーウィンと並んで三人共通の認識だったからだ。もっとも、言い出しっぺがトモタッキーであった事は都合よく忘れていたのだが。



 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




「五部倫太郎先生が辞職?」


 翌八月十九日、雄太は校長から倫太郎辞職の報告を受けた。それと共にインターネット上に倫太郎と4人の男女の不祥事が飛び交い、埋め尽くされた。


「母さん、今度の事件」

「ああ見た見た。そんな因果関係があるとは思えないですけどって連呼するの疲れちゃったわ」


 そしてこの事件の被害者である伊佐新次郎の母親である玖子の所にも取材申し込みが増え始めていたが、彼女はすべて何を今更で済ませていた。夫にも、数年以上前からあらかじめその旨を伝えている。新次郎の兄である雄太にも、はっきりとその旨伝えていた。


「あの校長先生も甘いのよね」

「母さんはなぜ」

「あなたは状況が悪くなるとすぐ投げ出すし、総司は集中力がなかったから」


 雄太は母親の期待が、自分や総司よりずっと新次郎に向けられていたことを二十年以上前から知っていた。その期待が失望となり、憎悪になっていた。


「でもマスコミはさ、たぶん今更明らかになってもあの子は戻って来ませんって訳すると思うよ」

「あっそ、って言うか何よこれ、みんなおかしくなってるんじゃないの? いきなり十五年前の人間が現れてペチャクチャしゃべり出すだなんて、そんな事が起こる訳がないじゃない」

「一人や二人じゃないんだぞ? 集団で幻覚でも見てたってのか?」

「それよそれ、まったくああごめんチャイム鳴ったからちょっと待ってて」


 悲劇の母親になどなるつもりはない玖子は、雄太の言葉にさらに不機嫌になった。なるほど、そっちの方が世間的には都合がいい。でもあの行為を半ば黙認行為だった玖子にしてみれば、そういう報道はむしろ傷付く。あんな不孝な息子のためになぜと言う思いの方がずっと強かった。

 そんな中で鳴り響くチャイムの音に、今度はマスコミが直接押しかけて来たのかならばそれならまたさっきと同じように定型句をぶつけてやればいいと思いながら電話を切らずに立ち上がった玖子を待っていたのは、一人の小柄な女性だった。


「こちらが伊佐さんの家で間違いないでしょうか」

「あらあら、菊枝ちゃん!」

「ああすみません、九月からしばらくお世話になるハウスキーパーの北本菊枝と申します。少し家を確認しておきたかったものでお邪魔しました」


 その北本菊枝と言う古めかしい感じのする名前をした女性は深々と頭を下げ、作り物ではない本物の笑顔をしていた。その笑顔が玖子の顔をとろかし、心を和ませた。


「私男の子しかいなかったからね、女の子が欲しかったの」

「そのお子さんたちは……」

「一応独立してるわよ。今住んでるのは私と夫だけ。私も来年で還暦だし、ちょっとは楽したいなーって思って」


 この玖子の発言は、八割ほど事実だった。だが玖子本人に言わせれば、十割本音のつもりだった。残りの二割の無自覚な嘘のうち、一割は六年近く彼女のいないまま死んでいった甲斐性のない不孝な息子に対する当てつけであり、残り一割はこの恵まれていなさそうな女性の面倒を見る事によって社会的に好人物であることを見せつけようとする自尊心だった。


「それにしてもあなた大変ね、身寄りもないんだって」

「いますよ、この年になって独立するまで面倒を見てくれた方が。現在はこの仕事で食べつつ三人で暮らしています」

「兄弟姉妹さん?」

「いいえ、シェアハウスです。女三人寄れば姦しいと言いますよ」

「あらそうなの、男三人だと本当に手間がかかってしょうがなくてね。そっちの方が良かったかもね」

「まあ、まだお互い二十二と二十一と二十ですからいいですけど、正直男性にはとんと縁がなくてですね」

「いいじゃない。うちのバカ息子の総司なんか、二十八にして彼女いない歴28年よ。今度あのバカ息子と会ってみない?」

「それはまた時間があれば、貧乏暇なしと言いますから。では九月からよろしくお願いいたします」


 とりあえず週一回金曜日、四時間半。基本的には清掃か買い物だが、料理も頼みたい。それが彼女に対する玖子のだいたいの要望だった。ハウスキーパーと家政婦の違いが付いているのか極めて怪しい物だったが、それでも菊枝は喜んで受けた。


「今度うちに来る家政婦の子だったの。実にいい子ね、わざわざ挨拶しに来てくれたの」

「そうか、じゃ切るよ。少しは……健康に気を付けてくれよ」


 ほんのわずかな間に何を雄太が飲み込もうとしたか、玖子は簡単に分かった。自分自身これまで放置して来た事は認めるが、こうやってまた取り上げられるようになった今こそ振り返るべき好機ではないのか――そう言いたかったのだろう。そんな事ができる物でない事をわかっているのにそれでも口から出てしまいそうになる。

(まったくあの親不孝男はどこまで人生にまとわりつく気かしら……)

 新次郎の事を恨みながら電話を切り、クーラーの温度を下げながらため息を吐いた玖子には、空を見る余裕はなかった。だから、入道雲がちらりと姿を消して夕立をもたらそうとしている事にも気づかなかった。そしてその入道雲の下に緑色の光をまとい、20センチぐらいの背丈でミントグリーンの頭に真っ黒な目をした少女が4枚の羽をはためかせて空を飛んでいる事にも、ましてやその少女のいる方向を下から苦々しい顔をして見つめる男性と男子高校生がいた事にも全く気が付かなかった。




 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※





「あれはやっぱりあいつらの仕業か?」

「ああ、そうで……だな」


 もっとも、二人ともその存在を視認している訳ではない。その方向にいるだろうという観測をしているだけだった。だがその少女が、自分たちにとっての敵である事だけはわかっていた。


「今の俺ではどうにもならない。あ奴ひとりならば何とかなるだろうが」

「あ、いやお前ならできる。きっとできる」


 その中年男性は、あらゆる意味で怪しかった。

 まず月曜日の真っ昼間からいい歳をした大人の男がぶらぶらしていること自体が怪しい。一応世間的には経理の仕事をやっているという事になっているが、それでも説得力は弱い。水商売がらみですからと言ってはいるが、ならば昼間にやれよと言う茶々を入れられる事はしばしばである。


「ったく、もうちょい地味なカッコがあるだろとは言ったけどここまでするかね」

「まあ、そこはその……お互い様だしな」


 無地のTシャツにジーパンと言う格好は、職場のそれとは180度違う。職場の人間には死んでも見せられない格好になった時には、思わず涙も出た。それでも目的があればと耐えるつもりでいたが、やはり悔しさもあった。


「しかしな、今さらだが無理があるだろ。こんな若い奴がいるか」

「ウソつきはモテませんからね」

「そんな四十二歳がどこにいるんだよ!」


 そしてもっと怪しいのが、彼の自称年齢が四十二歳だと言う事である。世間的に見れば二十代半ば、行ってアラサー。その外見で四十二歳だと言う事を信じるのには、しばらく時間がかかる。立ち居振る舞い、身のこなし。それはまさに大人の男性であり、男女ともに引き付けるにふさわしい貫禄を持った物だった。これを見せられて初めて他者は四十二歳と言う年齢に納得する。


「しかし兄と言うには年齢が離れすぎ、叔父と言うには近すぎ。と言う訳でこうなりまして」

「もう少し老けろ! ったく……」


 昔からこの性分のせいで出世できなかったのだろうと思うと、男子高校生・不破竜二は「父」に対しての憤りを隠し切れなかった。


「それでだけどさ、例のおもちゃはどうなの」

「ちゃんと回収はできましたが、やや力が落ちていました。先を打たれてしまいましたので」

「まあいいよ、この五個でもそれなりの戦力にはなる。この前の奴といっしょに、ちゃんと例の日までに回収して」


 ――九月二十日。二人が暮らす家のカレンダーには、その日に丸印が付いている。あの男の、三十二回目の誕生日。その日に、素晴らしいバースデーギフトを届けてやる。そのために、不破竜二ことアフシールJr.は懐に新山高校の資料を忍ばせていた。

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