朝起きたら俺が二人いた

樹一和宏

朝起きたら俺が二人いた


 爽やかな朝の日差し。ふわりとカーテンを膨らませる風と一緒に、チュンチュンと鳥の囀りが聞こえてくる。なんて穏やかな一日の始まりなのだろう。

 ただ一つ、異常事態を除ければ。

 六畳間のアパートの一室、中央に敷かれた万年布団。そこで眠っていた俺の隣には、裸の人間が眠っていた。

 短髪に、あまり日を浴びない色白の肌。こめかみには親譲りのホクロがある。

 どっからどう見ても、俺だった。

 掛け布団を剥ぐと、寒いのか俺に背を向けて縮こまる。頭の先から足の指先まで一緒だ。


 一体全体、何が起こったっていうんだ……


 部屋を見渡しても、別段変わった所はない。特別昨日の記憶がないということもない。普通に大学を終えた後、アパートに帰り、撮り溜めしたアニメを見ながら日付が変わるまでゲームをしていただけだ。


 ……何で俺がもう一人いるんだ。というか、何で全裸なんだ。


 慌てたくなるが、だが落ち着け、こんな展開アニメでたくさん見ただろ俺。

 考えうる可能性を考えてみる。

 一つ、並行世界の自分が来たという可能性。所謂パラレルワールドってやつだ。現時点では証拠はないが、フィクションではよくある話だ。

 二つ、同じ世界線だけど、違う時間軸の自分がタイムトラベルしてきた可能性。これもフィクションではよくある話だ。試しに全身をくまなくチェックしてみたが、身長や体格、髪の毛や爪の長さなど時間の経過で変化しやすい部分では、とりわけ自分と違いはなかった。

 世界には自分と全く同じ人間が三人いるというドッペルゲンガーな話があるらしいが、その可能性も捨てきれない。

 すぐに思い浮かぶ可能性として、自分の方が偽物、という物語のオチとしてよくある設定だ。自分の方が偽物、なんて可能性は考えにくいが、そういう類いの作品でも偽物は自分が偽物なんて思っていない。

 あとはとてもよく似たロボット、或いは人形という可能性が頭の中で浮かんだ。しかし、二〇一八年の現代において本物と見分けがつかないロボットを製作するのは不可能に思える。仮に出来たとして、それを俺の隣に裸で寝かす意味が分からない。


 ……裸で寝かす意味。


 考え方を逆にして、どうして僕の隣に裸で寝かす意味があったのか、という点から考えて見ることにしよう。

 うん、思い浮かばない。思い浮かぶはずがない。

 この世界のどこにそんな意味不明な理由が転がっているっていうんだ。

 当の本人はというと未だに寝ている。気味が悪いったらありゃしない。

 頭で考えるだけでは埒が明かない。しょうがない、と一つ溜息を吐くと、俺は寝ている自分の脇腹を蹴った。


「おい、起きろ」

「いったぁ!」


 ようやく目を覚ました全裸の自分に「よっ」と挨拶する。全裸の自分は取り乱す様子もなく、むくりと体を起こすと、辺りを一瞥した。


「何で俺がもう一人いるの?」


 さも大きな問題でもなさそうなテンション。なんだか緊張感にかける雰囲気だ。

 寧ろ何で俺全裸なの、とそっちに驚いている様子で、


「何もしてないよね?」


 としきりに自分のケツを気にしていた。


「するわけねぇだろ」


 手短に話すと、どうやらもう一人の俺も、知っていることは俺と大して違いはなかった。

 そしてもう一人の俺も、俺の助言もなしに俺と全く同じ考察をした。並行世界とか、よく出来たロボットとか…… その点を踏まえると、そっくりさんといった線もないと思われた。寧ろ、知能レベルからもいって限りなく俺と同一と言った方が自然だろう。

 この状況で一番近い線で言えば、並行世界だろうか。

 とりあえず俺の衣服を貸し、今後のことを考える。


「どちらかがこの世界の住人じゃないことを前提に、元の世界に帰るのを第一目標として、二人でどう生活していくか」

「正に今、俺も同じことを考えてた」

「じゃあ次に考えるべきことは分かるな?」

「もち。二人でいることをどう有効活用するか、だな」


 同じが人間が二人いる、というのは気持ちの良いものではないが、不便には事欠かない。 二人で外に出たとしても、余所から見たら双子と思われるだろうし、出費に関しても親から送られてくる仕送りで充分まかなえると思う。携帯やらなんやらと細々したものを除けば、デメリットはほとんどない。

 時間が足りない人はよく「時間がほしい」とよく嘆く。もしくは「体がもう一つほしい」と言うだろう。そう、俺は正に、その体がもう一つ欲しいを叶えてしまったのだ。

 一人が大学、一人がオタク活動。こんなに素晴らしいことはない。大学に行ってる間にも楽しいことを満喫出来るなんて神か!


 ……何てことを考えていた時期がありました。


 実際に体が二つあっても体験を共有出来るわけではない。どちらかが天国、どちらかが地獄になるわけだ。向こうだって同じことを考えているわけで、仮にもし自分が大学に行くはめになったら大好きなオタク活動が奪われてしまう。


「一日交替で一人が大学、一人がオタク活動でどうだ?」


 無論、向こうも同じことを考えていたわけで、この案は即可決。じゃあどっちが何曜日に学校に行くかを適当にジャンケンで決めようとしたが、十回連続でアイコになった所で諦め、結局、割り箸のクジ引きで決めることにした。



 

 クジの結果、翌日の月曜日、二限目の講義に出席するために大学に登校した俺は、教室の目の前で、バッタリとおりと遭遇した。

 花織は俺と気付くや否や、顔を伏せてそそくさと教室へと入り、誰も座らない最前列の隅に腰掛けた。挨拶しようした手が、宙で行き場を失ってしまった。

 俺も教室へと入ると、講義なんて聞くつもりのないので、一番後ろの席に座った。

 狙ったわけではいが、俺の席からだと花織の後ろ姿が否応になく視界に入ってきた。視界に入るとつい見てしまう。そして流れるように溜息が出てしまう。

 花織との関係を一言で説明するなら元恋人だ。高校から付き合って、五年ほど交際していた。未練はあった。正直、タラタラだった。

 別れた原因は俺のせいだ。

 五年も付き合っていると、互いの存在が当たり前のようになってくる。付き合った当時にはあった別れないようにする努力や、デートの度にあったドキドキもなくなり、俺は花織をぞんざいに扱っていた。いや寧ろ疎ましく思っていた点もあった。

 やれデートだ、記念日だ、連絡はこまめに等々、面倒になっていた。花織と会っている時もアニメゲームと考えて、時間が惜しいと感じる時が多々あった。

 それから六年目となる記念日のデート時に、花織も俺のあからさまな態度を感じ取っていたのか、向こうから


「別れたい?」


 と訊いてきた。俺は数秒考えて


「うん」


 と返事をした。その後、わかった、と背中を向かれた以来、俺は花織と話さなくなった。

 最初別れたばかりの頃は清々していたぐらいで、これで心置きなくオタク活動の沼にずっぽりと頭まで浸かれるぞー、なんて具合に考えていたが、しばらくすると、よくある失恋ソングみたいに、花織の存在が如何に大きかったのかを知るはめになった。所謂、失ってから気付くってやつだった。構内を一人で歩くこと、一人で昼食をとること、一人で帰路につくこと、携帯が鳴らないこと。二人で過ごすことが当たり前になりすぎていて、一人でいることに耐性が全くないことに気付かされてしまった。

 一人の寂しさを思い知ってしまってから、俺は今更ながら花織とやり直さそうと、その機会を探った。でも、結果はさっきの教室の目の前で起きたことのように、あからさまに避けられて、連絡の一つもとれない状況が続いている。

 講義が終わり、勇気を出して声を掛けようとしたが、花織は同じ空気も吸いたくないと言わんばかりに早足で教室から出て行った。



 

 その二日後のことだった。

 構内を歩いていると、たまたま廊下の角で花織と遭遇した。

 思わず身構えてしまう。それは花織も同じようで一歩引いていた。

 両者睨み合い、先に動いたのは花織の方だった。


「ねぇ、昨日みたいなことはもうやめてよね」


 花織の方から話しかけてくることも驚きだったのだが、それ以上に昨日のこと、というのが何のことか分からず、俺はヘンテコな声を上げることしか出来なかった。

 昨日俺は家で一日中ゲームをしていた。大学に来ていたのはもう一人の俺の方だ。特に何かあったとは報告は聞いていないが……


「……何のこと?」


 とりあえず訊いてみると、花織は顔を赤くして


「はぁ!? あ、あんなことしといて!? ありえない!」


 と、髪の毛を逆立てる形相で言い放ち、走って逃亡された。


 ……あんなことって?


 家に帰ると、もう一人の俺はやっぱりゲームをしていた。こちらに振り向くことなく「おかえり」なんて言う。イラッとして俺はその背中を蹴り押した。


「うわっ、なんだよ、俺ってこんなに足癖悪かったっけ?」

「お前、昨日大学で何したんだよ」

「え? 何も?」


 素知らぬ顔を崩さない。まるで本当に何のことか分かっていないみたいだ。でも俺は嘘が得意なのを知っている。この程度で引く気はない。


「お前、花織に何かしたろ」 

「……え? 本当に心当たりがないんだが……」

「嘘こけ馬鹿ちんが。じゃあ昨日花織と会った時何したよ。詳細に言ってみ」

「ハグしただけだけど?」

「はぁ!? ハグしただぁ!? それが何にもないことあるか! 別れてるんだからしちゃいけないに決まってるだろ!」

「え、別れてるの!?」


 初めての違いだった。それには俺も、もう一人の俺も驚きを隠せなかった。


「……だからハグした後、ダッシュで逃げられたのか」

「逃げられた時点で気付よ…… ていうか、何でそんないきなりハグしたの?」


 俺はそんなアメリカンなスタイルで生きていない。


「そりゃー誰だって、生きてたら歓喜のあまりハグぐらいするでしょ」

「何だよ生きてたらって、まるで死んでたみたいじゃないか」


 もう一人の俺が困ったように眉を寄せた。


「だからさ、生きてたらって……」

「だって、ダンプに轢かれたじゃん」


 ……は?



 

 その日は奇しくも俺と花織が別れた日だった。

 花織はもう一人の俺とデート中、信号無視のダンプに轢かれたそうだった。


「でも死体は発見されなかったんだ」


 もう一人の俺は恐らく並行世界の人間だ。そしてもう一人の俺の方が、俺のいる世界に来てしまったと考えていいだろう。


「なぁ、少し話そうぜ」


 自分と同じ容姿と思考だからと高をくくり過ぎたのかもしれない。

 自分達の違いを見つけるために、俺達は座卓で向き合うと、小さい頃から今日に至るまで、思い出せる限りの話をすることにした。小学校低学年の頃が一番モテてたとか、中学の時は好きな子がたくさんいたとか、今考えればあの子は俺のこと好きだったんじゃないかとか、あいつらと疎遠になって本当は連絡がしたいだとか、隠すことが出来ない自分だからこそクズな話も、ゲスな話も、恥ずかしい話も、赤裸々に語り合った。

 気付けばカーテンの向こうが明るくなっていて、やっぱり俺達は同じ人間だったということが判明した。俺達の違いは、花織をどう失ったか、に過ぎなかった。その上で俺は


「なぁ、元の世界に帰りたいか?」


 ともう一人の俺に尋ねた。

 返事はなかった。ただ、その辛さを押し隠そうとする表情は胸の痛みを物語っていた。

 当然と言えば当然だった。自分の住む世界でないのなら帰りたいだろうが、この世界ともう一つの世界の違いは花織の生死だけ。帰る理由はないに等しい。いや俺には分からないが、もしかしたら花織がいる分、帰りたくないかもしれない。


「まぁ帰る手段なんて分からないんだから、そんなこと考えても仕方がないさ」


 取り繕うと、もう一人の俺は「確かに」と小さく頷いてくれた。

 一段落すると、眠気が急に襲ってきた。俺達は無抵抗に横になると、目をつぶった。

 最後に時計を確認する。大学には間に合いそうにはなかった。




 ボンヤリ目を開けると、いつもの天井があった。いつもの風景で、いつもの気怠い調子。

 日は若干傾き出しているのか、部屋は薄くオレンジがかっている。

 寝る前のことを思い出すと、俺はもう一人の俺のために何かしてやりたい気になっていた。自分だから、というわけではない。花織の死を語ったときのあの顔。ただ単純に可哀想な奴を救ってやりたいっていう正義心だ。

 体を起こして、俺は隣で寝ているもう一人の俺を見た。そして、頭が真っ白になった。


 俺がもう一人、増えていた。


 隣で寝ている俺は分かる。寝る前と同じ服装をしているから先日からいるもう一人の俺だろう。でもその隣にいる俺は何なんだ? しかもまた裸だし。

 俺はまず先日からいる俺を起こして、状況を見せた。先日からいる俺も驚くを通り越して言葉を失い、ようやく絞り出した台詞は「やべぇ」だった。

 俺達は顔を見合わせると頷き合った。考えていることはやはり同じ。俺は裸で寝ている二人目を蹴り起こした。


「いって……え?」


 慣れているわけではないが、これが初めてってわけでもない。恐らくは二人目も俺達とはまた違う並行世界から来たのだろう。なら俺達との違いは何なのか、それがまた花織を基点としたものなのかハッキリさせる必要があった。


「おはよう。いきなりで悪いけど、花織について話を聞かせてもらおうか」


 結論はすぐに出た。こいつ、いや二人目は花織とイチャラブ生活している世界から来た奴だった。

 イチャイチャし過ぎているのか、少し粘っこくなっている口調を除けばやっぱり根本は俺みたいで、こんな破天荒な状況にも「なるほどね」のたった一言でついてきた。

 俺がもう一人増えたところで生活は劇的には変わらない。どのみち今日はもう大学は間に合わないので、半日を使い二人目、もとい「イチャラブ糞野郎」に説明をすることにした。

 どうやら糞野郎は些か感情に欠けた俺達とは違い、豊かな心を持っているようで、花織と別れた俺を激しく罵り、花織を亡くしたもう一人の俺の話には涙ながらに聞いていた。花織と付き合っているだけでこうも俺という人間はこうも変わってしまうのか疑問だった。

 生活は二等分から三等分に変わった。クジの結果、明日は糞野郎、明後日は俺、明明後日は一人目、という順番になった。




「だっから! お前ら! ハグすんなよ!」

「わりぃ、つい癖で。お前とは違ってハニーとは愛し合っているもんで」

「俺はあれから一度もしてないぞ」


 二日目に大学に行った俺は花織と顔を合わせて早々にまた怒られた。怒られ役はいつも俺。俺だってハグしたいっていうのに。これじゃあ怒られ損だ。

 その日の晩も糞野郎による惚気トークで盛り上がった。当然俺と一人目は文句を叫ぶ側だ。そこで糞野郎はやはり元の世界に帰りたいと言い、俺達二人よりも問題解決について必死に考えているようだった。

 明日は一人目が大学に行く日。そこで俺と糞野郎で並行世界の移動について調べることにした。一先ずはその手の研究をしている大学を調べて、教授の元へ向かうとする。

 夜は更け、三人なって寝場所を失った俺達は雑魚寝をして明日に備えることにした。




 目が覚めると、花織の匂いがした。当然、部屋に花織の姿はない。そして、二人の姿もなくなっていた。

 探すスペースもないが、二人の姿を探す。そこで気付いたのは寝るために動かした家具が元の位置に戻っていたことだ。

 もしかしたら全部夢だったのかもしれない。現実的に考えて、並行世界の自分がいるなんてありえないんだから。

 と、結論づけられたなんて楽だったんだろうか。きっと事態は俺が考えているよりも、ずっと深刻になっているのだろう。

 何故なら俺は、全裸だったからだ。

 経験則で言えば、今度は俺が並行世界に移動してしまったと思われた。


 ならこの世界に元からいる俺は? 花織は?


 ふと思いついたのは携帯の履歴だった。俺と花織のやりとりを見れば、ある程度の関係性は見えてくるはずだ。だが、携帯は見つからなかった。

 というか、よくよく部屋を物色すると、見たことない小物が置いてあった。

 観に行っていない映画の特典やゲーセンで取ったであろう景品。あるはずのゲームソフトがないことにも気が付いた。この世界の俺は随分俺とは違った生活をしているようだ。

 時計を見るに、もしかしたらこの世界の俺は大学に行っているのかもしれなかった。その証拠に携帯がないとも考えられる。玄関で靴を確認すると案の定なかった。

 時間的にも大学から帰ってくるまでに五時間以上あった。流石に今ゲームやアニメで時間を潰せるほど神経図太くないので、昔の靴を引っ張り出して、大学に向かうことにした。

 財布がないのでバスでの道のりを三十分ひたすら歩く。やっとの思いで大学に到着すると、俺はまず自分の姿を探した。この時間なら今は四限の地学を受講しているはずだ。

 講義中の教室に入り、一番後ろの席に着くと、自分の後ろ姿を探した。だけど、それらしき人物は見つからなかった。

 まぁ自分の後ろ姿なんて見慣れてないからな、などと安直に考えていたのだが、講義が終了し、出て行く生徒を一人ずつ確認するも、自分の姿は欠片もなかった。


 やばい。見逃したか?


 この後は昼休みだ。普段の自分は昼休みの時間は人目の少なそうな場所を探して昼食を取るのでいつも同じ場所にはいない。こうなったら探すのが大変だ。

 自分が行きそうな場所に頭の中でざっくり目星をつけて教室を飛び出す。直後、教室に入ろうしてきた人にぶつかりそうになった。


「あっすいま――」


 花織だった。

 言葉を失ったのは向こうも同じで、信じられないものを見たと言わんばかりに目がどんどん大きく広がっていく。赤く滲み出し、目元にたっぷりと涙を浮かべると


「ダーリン!」

「ダーリン!?」


 と花織は俺に抱きついてきた。驚きのあまり、頭が止まってしまう。久しぶりの花織の抱擁と匂いに、思わず目をつぶって堪能してしまう。

 しばらくして、あぁ、ここはあの糞野郎がいた世界か、と結論づけようとした瞬間だった。


「良かった。やっぱり生きてたんだね」


 その台詞は俺の予想を遙かに上回っていた。

 考えてみると、ここが糞野郎がいた世界にしても不可解な点があったのだ。靴や携帯など、俺が家から出る際に必ず持ち出すものが部屋になかったことだ。前例からして言えば、世界を移動する条件の一つに俺の部屋で寝ることがある。(きっとそれだけではないのだろうが、今の所判明しているのはそれだけだ)。その際は衣服さえも持ち出すことは出来ない。だからここが糞野郎の世界なら靴や携帯は部屋になければおかしいということになる。


「良かったぁホントに良かったぁ」


 そんな俺胸中を他所に、耳元で上ずり涙ぐむ花織。感情を真っ直ぐぶつけてくる花織を前にして、とりあえず考えるのは後にして、好きにさせることにした。

 俺にとって花織は生きているのは当たり前の存在だ。でも今ここにいる花織にとったらきっと違うのだろう。脳裏に浮かんだのは一人目のことだった。

 俺も花織の背中に手を回そうかと思った。でも今いる花織は俺の知らない花織だ。

 そんなしょうもない理性のせいで、俺は抱き返すことが出来なかった。あとから考えたら抱き返してやれば良かったと思った。自分のためじゃなくて、花織のために。

 それから散々泣いた花織に振り回されて、部屋に帰宅したのは午後十時過ぎ。

 個人的にも花織と過ごせて大満足だったのだが、ダーリンなんて俺のことを呼ぶキャラが180度違う花織に違和感を覚えずにはいられなかった。


 容姿は同じでも中身が違うと、こうも素直に喜べないものだとは……


 布団に寝そべり、息をホッと吐いた。闇夜の中で時計の針だけが音を発していた。

 今日のことを思い返す。久々に楽しかった花織とのデートのこと。今日のことで俺は改めて強く元の世界に帰りたいと思った。

 元の世界に戻ったら勇気を出して花織に今の気持ちを告白しよう。俺には花織が必要だ。

 そこで俺は今日引っかかった点について考えることにした。

 それはこの世界で初めて花織と会った時の台詞だ。

『やっぱり生きてたんだね』という言い回しはおかしく思えた。俺が本当に死んでいるとしたら、やっぱり生きてたんだ、なんて「死んだ可能性がある」ような言い方しないはずだ。生きてたの!? とか、死んだはずじゃ? みたいな言い方をするはずだ。

 そこで俺が思うに、本当はこの世界の俺は死んでいないのでは? と考えることにした。正確には死んだのではなく、花織にとって死んだように見えた、ということだ。

 どうしてそんなふうに考えたのかというと、花織を亡くした一人目の俺の発言を思い出したからだ。


『でも、死体は発見されなかったんだ』


 あくまで可能性の話だが、ダンプに轢かれたら死ぬのではなく、世界を移動するのでは?

 つまりこの世界は元々糞野郎がいた世界であり、糞野郎はダンプに轢かれて俺の世界にやってきてしまった、という仮説だ。

 だけどそうすると、俺の部屋で世界を移動した一人目も俺もこの仮説とは一致しないことになる。「ダンプに轢かれる」に絞らず、死ぬような目にあったら世界を移動してしまうという考え方も出来るが、一人目も俺も寝ている間に死んだとは到底思えなかった。

 勿論、世界を移動する方法が一つと限られているわけではない。俺の部屋で寝る方法とダンプに轢かれる方法は、それぞれ別個の方法として確立されている可能性もある。

 こんなことなら糞野郎に世界移動する前に何があったのか聞いていけばよかった。

 とにかく手掛かりとして、この世界の俺がダンプ轢かれた時の状況を知る必要がある。

 とりあえずは詳細を聞くために、翌日、大学で花織を見つけて声を掛けた。


「おはよ、花織」

「え、あ……お、おはよう」


 昨日とは打って変わって全く逆のテンションの花織。ぎこちない返事をすると、罰の悪そうにそそくさと俺の前から立ち去ってしまう。まるで別人のようだった。

 避けられているような反応は少しショックだった。それよりも、流石に昨日と違いすぎる反応には違和感を覚えるしかなかった。でも言いかければそれは、俺がいた世界での花織の反応とよく似たものでもあった。

 一体何がどうなってるんだ?

 更にその翌日、再び大学で花織に声を掛けると


「あ、ダーリン! おはよう!」


 と花織は子供のように抱きついてきた。一昨日のキャラに戻ったようだった。


「なぁ昨日凄いテンション低かったけど、何かあったのか?」

「あー……んー、ちょーっと覚えてないかなー」

「覚えてない?」


 あからさまな嘘だった。でもそれ以上追求しても笑って誤魔化すばかりで、花織は何も答えようとはしてくれなかった。


「ねぇ、そんなことより大学サボってデートしに行こうよ!」

「また? 出席日数ぐらいは稼いでおいた方がいいぞ」

「中間と期末で頑張ればいいんだよ。それに私達いつ死ぬか分からないんだから、会える内にたくさん色んなことしておこうよ」


 少し前なら笑ってやり過ごした台詞だが、今となっては現実味を感じぜざるおえない台詞だった。一昨日みたいに泣いてる姿は見たくない。


「ねぇ?」と小首を傾げて微笑む花織。やっぱり笑った顔が一番だ。


 俺はしょーがないな、と降参すると、花織と手を繋いだ。




 こうして二人で歩くだけで、こんなにも気持ちが弾むのはいつ以来だろうか。長年の付き合いで忘れて、失っていたもの。

 たわいもない天気の話も、信号待ちの時間も、共通の授業の話も、目移りする美味しそうなメニューの相談も、どれも一つ一つが愛おしくて堪らない。

 一度失ったからこそ、大切さが目に染みる。


「何泣きそうになってんの?」


 ケラケラ笑いながら花織が茶化してくる。目にゴミが入っただけ、何て定番の返しに花織がもう一笑いした。


 ――そしてその時が訪れる。


「あれ、ピアスない」


 電車に乗ろうと駅前の横断歩道を渡った時だった。花織が耳を触りながら辺りを見渡す。振り向くと今通ってきたばかりの横断歩道の真ん中でキラリと光るものがあった。

 花織は歩行者信号が青なのを確認すると、俺の手を離し、小走りで駆けていく。

 手が離れた直後嫌な予感が背中を走り、咄嗟に車道の先を見た。ダンプが走ってきていた。減速する様子もなく真っ直ぐ花織の元に突っ込んでいく。


「花織!」


 乾いた叫びは宙を掻きむしるだけ。

 助けようと一歩を踏み出した瞬間、全身に悪寒が刺した。

 痛み、ケガ、死の恐怖。生存本能がブレーキを掛けてくる。でも花織を助けたいという願いもあった。

 前から覚悟はしていた。こういう瞬間がいつかは来るんじゃないかって。

 ダンプの鬼気迫る勢いに気圧されたのか、花織の動きが止まってしまっている。

 もしここでダンプに轢かれたら花織を助けられる上に、俺は元の世界に戻れるかもしれない。でもそこにそんな保証はない。証拠も足りない。ただ死ぬだけかもしれない。

 一瞬に様々な気持ちが往来する。


 ――でも


 理性に縛り上げられた足を力尽くで前に出した。

 脳裏に浮かんだのは苦痛にも似た表情をした一人目の俺と笑う花織の顔。あの日、花織と別れた時の胸の痛みを思い出せば、もう後悔なんてしたくないと心が叫んでいる。

 踏み出した足に続く、もう片方の足。

 駆け出せばほんの数秒の距離が、途方にもなく遠く感じた。

 逸る鼓動。伸ばす手。迫るダンプ。

 ダンプより一瞬先に到着したのは俺の方だった。無我夢中で花織を突き飛ばす。そして木の葉が落ちるよりも短いその刹那、鈍い音と共に俺の意識は暗闇に消えた。



 

 もしかしたら全部夢だったのかもしれない。

 目が覚めたら、何度も繰り返した変わらない朝があった。いつもの俺の部屋で、俺以外誰もいない。窓からは朝日の他に鳥の声が差し込んできている。

 ただ一つ違う点と言えば、いつの間にか全裸だったことだ。

 携帯で花織とのやりとりを見ると、別れたあの日のまま止まっている。

 大きく溜息をつくと、とにかく大学へと行くことにした。

 あれが夢だったのかどうかも分からないし、これがあの続きなのかも分からない。

 講義のある教室に向かい、歩いているとまたしても廊下で花織と鉢合わせた。

 あっ、と言いたげに俺達の間に空白が出来る。


「……良かった。いきなり抱きついてこないんだね」

「いや、あれは俺じゃなくて、あ、でも俺でもあって……」


 というか、花織から話しかけられたことが少し意外だった。

 辺りを見渡すと、誰もいないことに気が付いてしまった。二人だけの空間ということに、気持ちが急かされていく。


「あの、さ……」


 ずっと言おうとしていた気持ち。

 たとえ今までのが全部夢だったとしても、今日この日に至るまでに生まれた自分の気持ちに嘘偽りはない。それに明日また自分が生きているとも限らない。

 今伝えなきゃ、永遠に言えなくなる。

 俺はもう知っている。君の存在の大切さを。


「あれから色々あって、その、俺やっぱり花織と一緒にいたいって思ったんだ。駄目、かな?」

「……私もね、色々あったの。君が死んだ時のこととか考えたり、感じたり……だから私も、君と一緒にいたいなって……思ったんだ」


 俯いていた花織が顔を上げてくれた。目が合うと恥ずかしそうに笑って、釣られて俺も頭を掻いて、笑ってしまう。

 それから俺はようやく念願叶ってハグをした。心置きなく、しっかりと。

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