聖なる愛 Le saint amour 


 Gâteau au fromage blanc - Le saint amour

 Gâteau au fromage blanc - Le saint amour ※


 翌朝、朝日が昇る前に家を出た。しなやかな白い猫のごとく、ピンクのキャデラックに滑り込む。


 なんでピンク……


 趣味に笑ったが、別に好きでピンクを選んだわけじゃないだろう。キューバ土産か。


 俺は朝の小鳥みたいにご機嫌にハミングしながら、まるで太陽が昇るのを引き止めるように、海岸線に車を滑らせた。ハンドルを切ると大げさに上下するキャデラック。ここに来てから、必ず毎朝、朝日を見ることにしていた。


 広大なビーチの砂を踏みしめて歩く。もうすぐ朝日が昇る。ビーチには先客。


 朝の最も気持ちの良い時間を、ベッドの中でなくビーチで過ごす毎日は贅沢な贈り物だ。人生が見違える。生暖かな風にうつむくと、砂浜に点線を引いたみたいに打ち寄せられた海藻や貝殻が緩やかにたわみながら、見えなくなるほど先まで伸びていた。


 俺は、くすんだグリーンのヨガマットを引いて瞑想している背筋の良い女性を眺めながら、広大なビーチの先に向かって、ひたすら真っ直ぐに砂を踏みしめて歩いた。


 限りなく続くような砂浜に大きく打ち寄せる波。ここまで波打ち際がまっすぐ続くと世界の果てに来たようだった。砂つぶのように遠方に、犬を散歩させている人影が見える。俺は波打ち際の濡れた場所まで行って、細長い海綿を指先で拾い上げた。昔の古い映画では、ちょっとした岩ほどもあるようなスポンジを猫足のバスタブの中で泡だらけにしていたな。貝殻やサンゴの欠片、海綿が拾ってもきりがないくらいに打ち寄せられていた。時に蟹や烏賊いかの甲羅などが落ちていて、俺は無意識に丸い雲丹うにの殻をそれとなく探しながら歩いた。


 毎日ここにいると、空から白いマヤが降ってくる恵みの奇跡が、まるで本当の史実のように思えてくるから不思議だった。


 緑の細長い葉先がたなびく乾いた砂の上に、俺はそっと腰を下ろした。長い髪の女性は、形の良いボディラインを姿勢良く、朝日に向けている。


 案外、小柄だな。


 女性は後ろから見ても、まるで今日が最高潮というくらいの芳香を放っていた。健康的なエネルギー。地味なぴったりした黒のヨガウェアにゆったりした白いカットーソー。上下する丸い豊かな胸元。西洋人だが、まるでアジア人のように優しい穏やかな波長だった。空気が癒される。プロフェッショナルな無駄のない動きは、自分のこころを本来住むべき場所まで自然に連れていってくれるようだった。23、24歳くらいだろうか。


 朝日が昇り始めると、あっという間だった。間に合ってよかった。水平線の先の雲の隙間から朝日が昇りきると、眩しさに顔をしかめた。あいにく、サングラスは運転席のポケットに忘れたままだった。


 それでも強烈な真昼の日差しに比べたら、まだ優しい朝のひかり。自然に大きく伸びをして、また波打ち際をあてもなく、まっすぐに歩き続けた。


 すっかり日が昇って、日差しが耐え難くなる前に引き返すと、ちょうど女性はヨガマットをはらって、立ち上がったところだった。丸顔で愛嬌のある可愛い顔をしているのがわかる。丸い目に形の良い唇。外国文学に出てくる乙女のような可憐さだ。落ち着いた雰囲気の中には、壊れやすい少女のような儚さは見られない。自分をしっかり持っていて、芯がぶれないような堅実な健康さがこの世界と同化していた。


 こんな時、ふわふわの真っ白な犬を散歩に連れてきてたら。


 ふとそう思ったのは、なんとなくの手持ち無沙汰だろうか。ただ朝日をこうやって毎日、眺めにきているだけの自分が照れ臭く、格好がつかない気がした。ずっと毎日ここに来ていたが、明日も明後日もまた来るだろうが、そういえば、初めて会ったな。旅行者だろうか。


 この海岸から、人の住むレジデンシャル・エリアはちょっと先だ。ホテルは遠い。自然と交わった草原の小道で女性と顔を合わせた俺は「Hello」と挨拶をした。


 女性は思ったように小柄で、はにかんだ顔で俺を見上げて、挨拶を返した。コインのペンダントをつけている。思った通り清々しいフルーツのような芳香は香水じゃない。狭い小道にわざわざ同時というのが気まずいが、本当に偶然だった。


 前後になって、女性が自分の前を歩く。車やバイクが砂浜まで乗り入れできないようになっている。狭い小道は迷路のようで、歩きにくい。凹凸に大きなヨガマットが何度も引っかかる。俺はその度に後ろからそっと軽く持ち上げた。女性は振り返って、ありがとうと微笑んだ。


 こんなに小柄だと子供のようだが、大きく大人のしっかりした女性に見えるのは健康的な明るいオーラのせいだ。


 「もしよかったら、送りましょうか?」


 俺が車を前にそう言うと「自転車があるから、大丈夫」と彼女はずっと前方に見える白いマウンテンバイクを指差した。


 俺はうなづいて、キャデラックのキーを回す。なぜか日本の神社の小さな鈴が三つ付いていた。ピンクのうさぎのぬいぐるみのキーホルダー。Jさん、案外かわいい趣味してるが、さりげなく恥ずかしい。  


 片手を上げ、ゆっくり車を出す。「Have a Nice day!」


彼女の自転車の横をゆっくり行きすぎると、彼女が「You too. Profite bien du soleil!」と言った。※ 


 大きく手を振って小さくなっていく彼女をミラー越しに見ながら、俺はハンドルを切った。





               〜〜〜〜〜


家に戻ったら、黒電話が鳴っていた。Jさんからだった。


「Jさん、空港に着いたのか」


いつの間にか、帰って来ていたBが聞く。


 バカンスの最終日。Jさんは空港で足止めだった。インドとパキスタンの緊張関係のせいで、予定のフライトに乗れないらしかった。ビーチで遊びすぎた天罰みたいだな。俺は気の毒とは思ったが、Jさんのパンダみたいなサングラス後の日焼けを思い出し、思わず苦笑した。



「じゃ、3人ね」


 いつの間にか、昨日の女がキッチンの戸口にもたれて立っていた。またノーブラか。鈍い光沢のある暗い赤に黒い大きな刷毛のような柄のシャツドレスは、まるで爬虫類の肌のように洋服で締め上げるようなボディに張り付いてぴったり納まっていた。はみ出した丸い形の良い胸とガーターベルトが似合いそうな素足の太ももにピンヒールが毒々しく見えた。長身で美しすぎる肢体だから、いやらしくはないが、このファッションだけ見るなら、普通なら娼婦だ。


 「バスルームに忘れ物、その紙袋に入れといた」

 「私のじゃないわよ」


 俺の間合いにあっさりと女は滑り込む。俺が髪を撫でると、首筋を大きく広げた。こういう時に軽く髪を掴んで上体を反らすと、女は身動き取れない、その気になる。朝に似つかわしくない重い麝香ジャコウのフローラル系の香り。朝から夜のようで俺は、おはよう、と日本語で囁いた。女は「撮影の前日からランジェリー付けないわよ」と低い声で言った。


 Bが「ただいま、Mon Bebe D'amor」と女のつむじにビズをしながら、後ろから果実のような隆起を斜めに両手を滑らせて、その所在を確認した。


 軽く跳ねる女の短い吐息や反応の余韻など御構おかましにすっと離れたBが、冷蔵庫からチーズケーキを出して来た。

 

「なんで朝からチーズケーキなんだよ」


Gâteau au fromage blanc - Le saint amour

Gâteau au fromage blanc - Le saint amour


俺は吹き出した。BがCMソングを口ずさみながら、ナイフで器用にカットする。普段はパッションフルーツ。今日はストロベリーのソースだった。


「俺、実はさっき予言してた。今日の朝ごはん、チーズケーキになるって無意識からの伝言」


 四葉のクローバーのような形の分厚い白いチーズケーキを4等分するB。赤いソースを流れるほどかける。女に白い皿を手渡すB。


「ダイエットしてるから、要らない」


 女は目を逸らした。いつもいつも肩透かしばかりで、全く思う通りにならないことにすぐ拗ねる。いつも男を手玉に取ってる美しい女のプライドが許さないらしい。


「まあ、そう言わず」


 Bはくるりと白い皿を回して、キッチンのバーカウンタの止まり木に腰掛ける女に向けた。


 「なにこれ」


 女はチーズケーキを見て、含んだようにクスッと笑った。Bは後ろから女の重い丸みをスツールのクッションと同化するように滑らせ、女の腰を思わず浮き上がらせる。図形の計算問題のような隙間に女は声にならないような可愛らしい驚きの声を思わず漏らす。


 「……朝からチーズケーキの理由わかった?」


 俺は、白い皿の食べかけのチーズケーキのまま「ちょ、そう言えば用事あった、俺、出てくる」とすっかり朝の爽やかさと無縁になりつつあるキッチンを後にした。


 女がかろうじて上ずったみたいに「……3人じゃなかったの?」という声を上げたが、二人を置き去りにして、俺は、カメラのジェラルミンケースを後部座席に投げ入れ、ピンクのキャデラックをひたすらに真っ直ぐに走らせた。


 太陽が音を立てるように登り始めるこの時間、女の切ない獣のような木霊を振り払うように、アクセルを踏み込んだ。






※ 注釈〜


Gâteau au fromage blanc - Le saint amour

フロマージュブロン〜フランスのお菓子。 Le saint amour社製のものがよくスーパーに売ってる。Saint-Amourは地名だが、「聖なる愛」



Profite bien du soleil!

※挨拶がわりによく使われる。直訳すると、太陽を楽しんでねという意味。








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