第九章 道化

「C、L、O、W、N」


 木の枝で砂に文字を書く。


「道化にでもなりたいのか?」


 少年はびくりと肩を動かした後、声の主を見上げ、思いきり睨みつけた。


「案ずるな、小童。わしはお主の敵ではない」


 少年は不満げに鼻を鳴らし、持っていた枝を紳士に向かって投げつける。


「小童じゃねーよ、おっさん。俺は王になりたいんだ。俺が王になったら、争いなんかなくしてやる。戦争なんてもう……うんざりだ」


 少年はやや荒げた声で言い放った後、うなだれるように両膝へ顔を隠した。ぼろぼろの薄汚れたシャツにはところどころ血痕が付着している。

 紳士は少年の投げつけた枝を拾い、同じように砂に文字を書いた。


「王冠はC、R、O、W、Nだ。お主、名は何という?」

「名前? そんなもの、とっくに忘れた……俺を呼ぶ奴なんて、誰もいないからさ」


 淡々と告げる少年。

 だが、その声にはどこか憂いの感情が込められている。


「一人か?」

「ああ、一人だ。この先もずっと……多分な」

「ならばわしが呼んでやろう。バルトロ、でどうだ?」


 少年は驚いた表情で顔を上げた。


「バルトロか……まあ、悪くはないな。この辺じゃ聞かない名前だしさ」

「お主から見れば異国の名だからな。風の国と水の国の狭間にある、ローレンというところにわしの居城がある。今からお主をわしの御者に任命しよう。一緒に来るが良い」


 紳士は、持っていたシルクハットをバルトロの頭に被せた。


「でかいな、この帽子。っておい、ちょっと待て! 何でおっさんの付き人なんかやんなきゃなんねーんだよ。俺は王になりたいって言ったんだよ!」


 帽子の口径は、十歳に満たないバルトロには少々大きく、鼻の近くまですっぽり入った。


「そのうち、お主に丁度良くなる日が来る。王になるための修行だと思えば良い。貴族のしきたりというものをお前に叩き込んでやろう。あんな簡単なスペルを間違えるようでは、一から教育してやらねばな」

「何だと⁉ 俺のことをバカにしやがって……って、待てよ! おっさん!」






「ん? 何だ、夢か……」


 バルトロは持っていたワイングラスをテーブルに置き、大きな欠伸をした。ホールの一角に置かれたテーブルと腰掛け椅子はどちらも金細工が施されており、バルトロ愛用の品である。


「あれから何年だ? フォンテッド卿に仕えて二十年以上、今頃こんな夢を見るなんてさ。結局、王にはなれなかったが、今の生活は悪くない。ワインも好きなだけ飲めるしさ……うっ!」


 彼は何の前触れもなく訪れた痛みという感覚に思わず顔を歪め、額に手をやった。


「額の傷が疼くね。これは、そろそろ……」

「バルトロ……」


 鏡の枠に手足を縛られたシャルロットが彼を見つめていた。


「悪く思わないでくれよ、嬢ちゃん……」


 それからまもなく、ウィンディに乗ったアーサーとマリアがバルトロの前に姿を現す。


「やっぱり来たか。ん? ってことは……ルクレツィアは、とうにあの世へ旅立っちまったか」


 バルトロはなおも気怠そうに髪を掻き上げ、腰掛け椅子から動こうとはしなかった。


「下でリン・ユーがルクレツィアと戦っています。恐らく彼も、まもなくここへたどり着くはずです。シャルロットはいったいどこに?」

「あそこですわ!」


 マリアがバルトロの後方にある大きな鏡の方を指さす。


「一対一か……ルクレツィアも甘く見られたもんだな。女だが、アイツは結構やるよ。まあ、俺の方が上だけどさ」


 バルトロはタバコに火をつけ、吸い始めた。


「シャルロット、今君を助けるから! ……でも、その前に――君に聞きたいことがあるんだ」

「……聞きたいこと?」


 シャルロットは首を傾げた。


「アントワーヌの図書館に行った時、電報局に行ったよね? その電報……本当は誰に宛てて出したんですか?」

「……何を言っているの? 私は自分の親に……」

「違う。君が電報を出した本当の相手は――ジャックウェル・フォンテッド、だよね?」


 シャルロットは目を見開いた。


「……シャルロットさん」


 マリアの呼びかけにも応じることなく、その場で俯く。


「バルトロとシャルロット……二人が僕らをここまでおびき寄せたんだ。ラントの街で、普段ならいるはずの辻馬車が一輌も見当たらなかった。何らかの情報を流して、あの場所から一時的に辻馬車がいなくなるように仕向けたんじゃないですか?」

「へぇ、案外勘は良い方みたいだな」

「ラニーネ急行でバルトロが襲撃し、シャルロットが僕の味方をしたのは芝居……シャルロットが僕に同行するきっかけ作りとメモを渡すため、といったところでしょうか」


 アーサーはシャルロットの顔を見たが、彼女は無言で目をそらした。


「見事だ、小僧。お前とやり合ったラニーネ急行……俺が連結部分を打ち抜いたのを利用して、お前は食堂車の時間を止めた。だが、あの時閉じ込められたのは本当の俺じゃない。そう見せていただけのことさ。お前の言うように、メモを渡すのがあの時の目的だったからな」


 アーサーは嘆息した。


「思ったとおりか……本当は君を信じたかった。けど、マリア様の邸宅で君が言っていたディアマーレの事件は、最初に図書館で読んだ時には載っていなかった事件だった。だから、ずっと違和感があったんだ。シャルロット、君は僕たちのことを何度も助けてくれた……なのに、どうして?」


 それを聞いたバルトロが大声で笑い始める。


「こりゃ傑作だな。助けた? むしろその逆さ。お前たちをおびき出すための餌でしかない……シャルロット嬢も、フランシス王子もな」

「私の本当の名前は、シャルロット・ラ・ロンターニュ……そう言ったら、分かるかしら?」

「ロンターニュ……」


 アーサーは、背筋が凍るような思いでシャルロットの方を見た。

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