「……あの人の恩に報いることが出来るのなら、命だって惜しくない。宮廷を追われた時にゾフィーとしての私は一度死んだのだから――」


 その密かな思いを胸の内にしまい、ルクレツィアはブローチを握りしめた。

 リン・ユーは、炎をまとった大刀で彼女を一刀両断したが、水が音を立てて崩れただけだった。


「……何⁉」


 リン・ユーが辺りを見回すが、ルクレツィアの姿はない。


「どこへ行きやがった……」

「お前の言い様だと、あの時、私が落とした氷の塔をその強靭な肉体で打ち砕かなかったのは、あの女に破片が飛び散るのを防ぐためだと言いたげね。負け犬の遠吠えも良いところだ」


 背後にすさまじい冷気を感じ、リン・ユーは振り返った。


「てめぇとの相性は悪くない……むしろ、てめぇの方が危機感を覚えるべきなんじゃねぇのか? 氷なんざ、俺の炎で溶かすことも、この拳で打ち砕くことも出来る……実に容易いことだ」

「勘違いも甚だしいわね……能力が一つとは限らないのよ。お前の炎と武術のように、この私も――ストーンの力を甘く見ないでちょうだい!」


 ルクレツィアのブローチから青白い光が放たれる。

 室内には大量の水が流れ込み、シャボン玉のような水の膜がリン・ユーをすっぽり包み込んだ。


「こんなもの……」


 リン・ユーが中から拳をぶつけるが、膜はびくともしない。

 ルクレツィアの足が魚の尾ひれのような形になる。


「氷だけだと思ったら大間違い。水も自在に操れるのよ。密閉された空間では、酸素がじきに尽きる。だが、もっと苦しませてあげるわ……溺れ死ぬが良い」


 リン・ユーのいる空間へ水を流し始めた。


「クソッ! このままだと水が……」


 大刀を振り回そうにも、膜の中は狭い。代わりに、中から大刀の刃先で突き刺そうとしたが、やはりびくともしなかった。

 ルクレツィアの体は水の塊のようになり、膜の内側に入り込んだ。リン・ユーの背後へ回り込み、両腕で彼の首を絞めつける。彼女の放つ冷気に、リン・ユーは全身が震えていた。


「残念だけどこの勝負、どうやら私の勝ちのようね」


 リン・ユーは必死にもがくが、水と一体化したルクレツィアにはまるで効いていない。


「俺が行かなくては……あの光景が、現実になったら……俺は……」


 意識が朦朧とする中、湖で見た光景が彼の頭の中をよぎった。


「……マリ、ア、様……」

「しぶといわね。あのマリアという女がそんなに大事なの? だったら、私が殺してあげる。そうしたら、あの世で思う存分会えるでしょう? ずっと一緒にいさせてあげるわ」


 ルクレツィアは高笑いをした。


「……クソッ!」リン・ユーは、他に手がないかと思考を巡らせた。


「考えろ……。アイツなら――アーサーだったら、どうする」頭の中で必死に考え、模索する。その時、シャンデリアの明かりが目に入った。


「一か八か……」


 リン・ユーは全身に力を込め、左手から青い炎を出す。


「馬鹿な坊や……そんな炎、私の水で消してあげるわ」


 リン・ユーは目を閉じ、炎を膜のある一点に集中させた。

 すると、「ジュー」という音とともに、中の水が蒸発していく。


「水蒸気⁉」


 危機感を抱いたルクレツィアはリン・ユーから離れた。

 水の膜が破れ、中からリン・ユーが飛び出す。大刀をシャンデリアに向かって投げ込んだ。

 ルクレツィアが避ける間もなく、シャンデリアは大きな音を立てて彼女の体の上に落ちた。水に触れ、電球は「バチバチ」という大きな音を立てている。


「……体が――」


 全身が電気でしびれたルクレツィアは、まともに動くことが出来なかった。


「……今のアンタは、水そのもの……そこに炎を放てば、どうなるだろうな……」

「……まさか!」


 リン・ユーが彼女に青い炎の塊を放つと、けたたましい爆発音が室内に響き渡った。

 爆風でリン・ユーの体は吹っ飛ばされ、ルクレツィアは、絹を裂くような悲鳴を上げる。炎に包まれた彼女の体は足から頭部にかけて気体に代わり、跡形もなくなってしまった。


「やっ、たか……うっ……」


 リン・ユーはその場で立ち上がろうとしたが、よろめき倒れこんだ。彼の周りを炎が容赦なく囲んでいる。


「このままでは……マリア様たちにも、危害が及んでしまう……」


 リン・ユーはよろよろと立ち上がり、炎に向かって手を伸ばした。炎は、あっという間に彼の掌に吸い込まれていく。


「クソッ……少し、暴れすぎたか。だが、あの人を……一人にするわけには、いかない」


 リン・ユーは肩で息をしながら、床に突き刺さった大刀を引き抜き、階段へと向かった。

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