第八章 真の恐怖
Ⅰ
リン・ユーを先頭に、三人と一匹は夜道へとくり出した。幼い頃のマリアの記憶をたどりながら、先ほどの店から歩いて約三十分。植物の青々とした匂いに加え、水の匂いがしてきた。
「水の匂いがする。湖は近いぜ」
湖に繋がる茂みへと入る。
アーサーは頭の中で考えを巡らせていた。
時刻は夜中の二時半を過ぎた。家主の言っていた『魔物』に、マリアの言っていた『晴れた朝に満開だった睡蓮の花』、そして、ルクレツィアの言っていた『あれが閉じるとロクなことがない』これらに何か関連するものはないだろうかと。そこへ、過去に読んだ花の本を思い返してみる。
(睡蓮の花には昼咲きのものと夜咲きのものがある。マリア様の言葉からするに、恐らくは昼咲きの品種。ルクレツィアの慌てようからするに、彼女の言う『あれ』が閉じてから戻るのでは相当不都合なのに違いない。『閉じる』――『あれ』がもし、睡蓮の花を指しているとしたら、今は真夜中だから当然閉じていることになる。ということは――)
アーサーは慌ててリン・ユーの前に飛び出した。
「リン・ユー、今すぐ引き返しましょう」
「何を言っていやがる? この期に及んで怖じ気付いたか?」
「そうじゃありません! ルクレツィアの言っていた意味が今、分かったんです。彼女が言っていた『あれが閉じるとロクなことがない』の『あれ』は睡蓮の花を指していたんだ。花は朝になると開きますが、日が落ちると閉じます」
「それと魔物がどう関係しているって言うんだ? 迷信なんざ、鵜呑みにしやがって」
リン・ユーはばかばかしいと言わんばかりに歩き続ける。
「私が幼い頃、乳母に読んでもらった絵本に睡蓮の話がありましたわ。確か、睡蓮の花に危害が及ぶと、花に住む魔物が出て来て、危害を加えた人間を水中に引きずり込むという話だったかしら……」
「……マリア様まで」
リン・ユーが嘆息した直後、風が吹き、湖の水が渦巻いた。
「迷信? よくもそんなことが言っていられるな――青二才の餓鬼」
どこからともなく聞こえるその声は、夜の
「誰だ?」
辺りを見回すが、自分たちの他に人影は見当たらない。
「私に姿などない。今からお前たちに悪夢を見せてやろう」
周囲を霧が包み込む。視界が遮られ、互いの姿が見えなくなった。
「リン・ユー、マリア様、ウィンディ! どこですか?」
アーサーは必死に名を叫んだが、誰からも返事がなかった。途方に暮れて座り込むと、遠くから木の軋むような音が聞こえ、やがて黒い影が見えて来た。
「誰?」
アーサーは前のめりに立ち上がった。
「アーサー、もう私の姿を忘れたのか?」
アーサーにとって、それは聞き覚えのある声だった。
「……フラン兄さん?」
アーサーは声のする方へ夢中で駆け寄っていく。
「お前の声が聞こえたから、この小舟で迎えに来た」
フランシスに似た声はどこか冷たく、憂いを帯びている。
アーサーは、いったんは歓喜の表情を浮かべるも、夢なのか、はたまた現実なのか、どちらとも言い難い状況に、戸惑いを隠せないでいた。
「無事だったんだね、良かった。霧が濃くて、兄さんの姿が見えないよ」
アーサーは声の聞こえる方向へ右手を伸ばした。
「……無事、だって? よくもそんなことが言えたな――」
アーサーの知る、いつもの優しいフランシスの声とは明らかに違う。地面に叩きつけられるような、怒りや憎しみのこもった声。アーサーは右手を引っ込め、後ずさりした。
「……兄さん?」
「……どうして、もっと早くに来てくれなかったんだ? ずっと待っていたのに――」
怒りに打ち震えたフランシスの幻影は、アーサーの胸倉を掴んだ。
だが、フランシスの顔はまるで靄がかかったように、この至近距離でもなお、見ることが出来ない。
「……ごめんなさい、兄さん。僕……」
「言い訳なんか聞きたくない。お前なんか――こうしてやる!」
影は、アーサーを叩きつけるように湖の中へ放り込んだ。
「兄さん!」
アーサーが水中から這い上がろうと両手をばたばたさせると、みるみるうちに引きずり込まれていく。もがけばもがくほど、まるで底なし沼にいるかのように――アーサーの体力を奪っていく。
(息が……続か、ない)
彼の意識が遠のいていく中、
「アーサーさん! どこにいらっしゃいますの?」
「チッ、面倒かけさせやがって!」
どちらも聞き覚えのある声で、それが誰であるのか、アーサーにはすぐに分かった。
だが、水中にいる今、声を出すことが出来ない。だからと言って、これ以上息を止めることも出来ない。
(……あれは幻だ、フラン兄さんじゃない。ここで諦めるわけにはいかないんだ。兄さんを、フラン兄さんを絶対に助け出すんだ!)
アーサーは強い意志を胸に、忘却の丘で手に入れた剣を両手で持ち、刃先を湖の底へ向けた。
すると、剣はまばゆいばかりの光を放つ。彼を乗せた水の柱は空へ向け、間欠泉のように吹き上げた。
(抜け出せた……)
安堵の溜息を漏らした直後、アーサーは目を瞑ってしまった。
水の柱が沈みかけた頃、「ヒュー」と吹く風の音と、何かに引っ張られたような感覚だけが彼にはあった。まもなく「パサッ」という音とともに、柔らかい毛布のようなものに包まれる。
「おい」
体をゆすられ、アーサーは目を開けた。どうやら溺れた際に水を飲んだらしく、むせ込んでしまった。呼吸を整え、辺りを見回す。
「……こ、ここは」
「アーサーさん、ご無事で!」
「……マリア様」
アーサーが起き上がろうとすると、
「無理をなさらない方がよろしいですわ」
マリアがアーサーの体を支える。
それを見たリン・ユーが舌打ちをした。
「ようやく起きやがったか」
「リン・ユー……あれ? ウィンディは?」
「コーン」
アーサーは今自分が何の上に乗っているのか、ようやく気が付いた。
「えっ? ウ、ウィンディ⁉」
ウィンディの体は巨大化しており、アーサーの他にリン・ユー、マリアを背に乗せて空を飛んでいる。眼下には、アーサーが先ほど引きずり込まれた湖が見えていた。
「これは……」
「私たちは悪夢にうなされていたようですわ」
「悪夢? ということは、マリア様も?」
「ええ、とても怖かったですわ。ウィンディが助けに来てくれたおかげで難を逃れましたが」
「あの、マリア様……ウィンディってこんなに大きくなるんですか?」
「実は、私も知りませんでした。空を散歩することは知っていましたが」
マリア様も知らなかったんだ……と、アーサーは苦笑いを浮かべる。
「ノワール渓谷で初めて会った時にも浮かんでいましたね。ありがとう、ウィンディ。君のおかげで助かったよ」
ウィンディは尾を振り、「コーン」とひと声鳴いた。
「マリア様と僕が悪夢を見ていたってことは……あれ? リン・ユー、さっきから黙っていますが、あなたは何も見ていないんですか?」
「……さあな」
「さあ、って……」
「てめぇに答えてやる義理などない」
「ははは……言うと思っていましたけど。ウィンディは平気だったんでしょうか?」
「ウィンディは安らぎの鈴を身につけている。それにお前、マリア様が言っていただろう……人間を引きずり込むと」
リン・ユーは眉間にしわを寄せ、嘆息した。
「……要するに、動物は対象にならないってことですね」
ほどなくして、湖の中島が見えてきた。中島には城がそびえ立っており、満月が辺りを照らしている。
「ここが、マリア様の言っていた……」
「ええ、シャルトーのいる孤城ですわ。ウィンディ、城の前へ」
「コーン」
マリアの指示でウィンディが城の前に降り立つ。
「油断すんじゃねぇぞ」
「分かっています」
アーサーとリン・ユーがウィンディから降り、辺りを警戒する。
やがて、門が鈍い音を立てながら開いた。
だが、門の上や内側に衛兵らしき者の姿は見えない。
「勝手に開きやがった。奴らがこちらの動きに気付いていると見て、間違いない」
門を通り抜けると、行く手を知らせるかのように左右のガス灯が一つずつ灯っていく。ガス灯の並びは城の扉まで続いていた。マリアを乗せたウィンディの両隣をアーサーとリン・ユーが並んで歩く。
「こちらに来いと言っているようだが、罠かもしれん」
「たとえ罠であっても、突破してやるのみですよ」
「へっ、偶には言うじゃねぇか」
扉の前にたどり着くと、扉についていた左右のガス灯が同時に灯り、扉が勝手に開く。
アーサーたちが中に入ると、扉はまたひとりでに閉じてしまった。
不安げな様子で扉の方を振り返るマリアに、
「マリア様、ご安心ください。俺たちが守ります」
「フラン兄さんとシャルロットを助けて、全員で帰りましょう――誰一人欠けることなく」
リン・ユーとアーサー――二人の言葉に、彼女は力強く頷いてみせた。
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