旅立ちの前にアイビスと話していた「時空の大罪」が頭をよぎる。アーサーがごくりとつばをのんだ、その時だった。「カチッ」と時計の針が動く音がする。

 アーサーが己の持つ懐中時計に目をやると、針は反時計回りでぐるぐる回り始めた。一周、また一周と、一向に止まる気配を見せない針の動きに驚いたアーサーは、床に懐中時計を落としてしまった。

 落ちた衝撃で「ガチャン」と鈍い音を立てた懐中時計をシャルロットが恐る恐る拾い上げる。時計の表面に傷がないか確かめたが、床に敷いてあったカーペットのおかげで無事だった。


「針が、ひとりでに……まさか私たち、時空間を移動するってこと?」


 シャルロットは、そわそわした様子でアーサーに尋ねた。


「いや、僕はまだ空間を移動する力を与えられていないから、少なくとも空間を動くことはないと思う。それに、この桃源郷がリン・ユーの言った時空の狭間だというなら、時間の影響を受けることもないからね。あるとしたら、誰かがフラン兄さんの時計を使って過去に行ったってところかな」

「フランシスさんの時計を? けれど、それがどうしてあなたの時計が動くことに繋がるの?」

「元々、僕と兄さんの懐中時計は同じ石を割って作られた飾り石が付いている、いわば兄弟時計なんだ。ババ様は最初から見越していたのかもしれない……兄さんと僕の時計が呼応することを」


 アーサーとシャルロットのやり取りを見ていたリン・ユーとマリアがほぼ同時に立ち上がった。マリアが二人に近づこうとするところをリン・ユーが腕で制止する。リン・ユーが大刀の鞘を左手に忍ばせながら二人に近づいたところで、時計の針は再び「カチッ」と音を立てて止まった。

 アーサーが時計の針の位置を確かめると、十二時の方角だった。文字盤の中央にある小窓には「ⅭⅠ」、小窓の下にある方角を示す針はおよそ五時の方角を指している。


「……今から百一年前の一七八八年だ」

「場所までは分からねぇのか?」


 リン・ユーが尋ねた。


「ここから南東の方角です。ただ、僕は空間を移動することが出来ないので、正確な場所までは……けれど、その頃に何かがあったのは確かだ。歴史を変えるきっかけになるような出来事が……」


(一七八八年……)


 アーサーは、かつてアイビスに教わった世界の歴史を思い出していた。時の民の集落は霧の国の中心部から離れていたため、子どもたちはアイビスから歴史や地理、母国語など基本的な知識を得ており、アーサーもその一人だった。


(その頃は確か――風の国で革命が……)


 一つの仮説が頭の中で浮かんだ時――。


「忘却の丘……」

「……忘却の丘って?」


 アーサーがシャルロットに尋ねた。


「ディアマーレにある遺跡のことよ。水の国にある港町で、かつては商業都市として栄えていたところなんだけど、ある日、爆発が起こって町の半分以上が焼失してしまったって言われているわ」

「町の……半分が?」

「ええ。長い年月をかけて、町はどうにか再生したけれど、いまだに瓦礫の山が多く残っているって。その場所を現地の人々は忘却の丘って呼んでいるのよ。前に本で読んだわ」


(本? ……あれ? そんな話、本に載っていたかな。それとも、別の本に載っているのだろうか……)


 その時、アーサーはシャルロットから聞いた話を思い出した。


「ディアマーレって……君がさっき言っていた、ロンターニュ家の夫人がフォンテッド卿と面会したところ?」

「そうよ、そうだわ! ただの偶然かもしれないけれど」


 シャルロットがやや興奮気味に金切り声を出して答えたので、リン・ユーは耳を塞いでいた。そのリン・ユーの様子には気にも止めず、アーサーは腕を組み、ひとり考えこんだ。


(偶然? ……歴史が変わったってことは、本の内容もそれに合わせて書き換えられている可能性があるのか)


「まずはアントワーヌの図書館に行ってみます」

「図書館?」


 リン・ユーは塞いでいた手を下ろし、アーサーの顔を見た。


「さっき、シャルロットと立ち寄ったアントワーヌの図書館でストーンとそれに関係すると思われる出来事をまとめた本を読みました。歴史が変わったとなると、それにまつわる出来事が書き加えられている可能性もあると思います。それに、こうしている間にもフラン兄さんの身に危険が迫っているかもしれない」

「そうね。アーサー、すぐに出発しましょう」


 シャルロットがそう言うと、マリアが立ち上がり、アーサーの前に立った。


「……アーサーさん、私も……」


 アーサーが見上げると、マリアの目は涙で潤んでいる。


「……私も……一緒に連れて行ってください」


 マリアからの思わぬ一言にアーサーは驚いたが、「はい」と笑顔で頷いた。


「姫様、いくら何でも無茶苦茶な!」


 部屋の入り口で立っていたハンナが血相を変えたようにマリアの元へ駆けた。

 リン・ユーも目の色を変え、


「マリア様、気持ちは分かりますが、あまりにも危険すぎます。もし、どうしても弟君を助けに行きたいと言うのなら、俺が代わりに行きます。あなたが危険を冒してまで行く必要はありません」

「ハンナ、ユー……心配してくれてありがとう。でも私、もう二度と後悔をしたくないの。あの時、フランシスとはぐれてしまったこと、すぐにフランシスを探しに行かなかったこと……後悔してもしきれないことばかり。けれど、どんなに過去のことを悔やんだって、何も変わらない。生きている可能性が少しでもあるのなら、私は弟を救いに行きますわ」

「だからと言って、姫様にもしものことがあれば、国王陛下が悲しまれます。ここはリン殿に任せて、姫様は……」


 リン・ユーはハンナの肩を叩き、首を横に振った。


「ハンナ……もう、分かっているだろう」


 ハンナは無言のまま俯いた。


「マリア様は一度こうだと言ったら、決して曲げないお方だ」


 リン・ユーは両腕を胸の前で組み、頭を深く下げた。


「このリン・ユー……命に代えてもあなたをお守りいたしましょう」

「ありがとう、ユー。私たちもすぐに支度をしましょう。他の護衛の者たちには、谷の警備を強化するようにと伝えなさい。あまり大人数で行くと、目立ってしまうでしょうから」

「御意」

「ウィンディ、あなたもいらっしゃい」


 マリアの呼びかけでウィンディは大きな耳をぴくりと動かし、彼女の肩に飛び乗る。

 マリアは応接間を出て、出発の準備を始め、それを見たリン・ユーも旅支度にかかった。


「御客人方……」


 ハンナがアーサーの前に詰め寄り、睨むようにして見上げている。

 彼女の迫力に負けたアーサーは苦笑いを浮かべ、のけぞるようにして一歩下がった。


「な、何でしょう……」


 ハンナはアーサーの両腕をがっちり握り、


「このハンナ、姫様にもしものことがあれば、あなた方を一生許しませぬぞ! どうか姫様を……姫様をお守りくだされ!」

「ハンナさん……約束します。マリア様のことも、フラン兄さんのことも……必ず二人を守ります」

「今の言葉、この耳でしっかり聞かせてもらいましたぞ!」


 ハンナがアーサーの腕を放したところで、一足早く旅支度を整えたリン・ユーが腕を組み、壁に寄りかかっていた。

 支度を終えたマリアと合流し、屋敷を出る。入り口ではハンナが白いハンカチで目頭を必死に押さえていた。先ほど通った桃源郷の入り口を抜け、四人と一匹は谷の外を目指す。久しく谷の外へ出ていなかったマリアは、不安そうに辺りを見回していた。


「マリア様、どうかされましたか?」

「……何でもありませんわ、ユー。少し、ドキドキしているだけ……」


 そう答えながらも彼女の表情は決して穏やかとは言えない。


「大丈夫ですよ、マリア様。必ず助け出しましょう」


 アーサーが笑顔で励ますと、マリアは「はい……」と、小さく頷いてみせた。

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