アーサーとシャルロットは、図書館を後にした。

 アントワーヌ駅に戻り、馬車に乗る。

 アーサーが行き先を「ノワール渓谷まで」と告げると、御者の顔はみるみるうちに青ざめていった。


「……あそこに入ったら二度と戻れないって噂ですぜ。お止めになった方が……」


 などと、何度も拒んだが、アーサーは聞く耳を持たなかった。


「どうしてもそこへ行きたいんです。お願い出来ませんか?」

 根負けした御者はしぶしぶ馬車を走らせたが、渓谷の入り口に着くなり、

「で、では……あっしはこれでお暇しますぜ。お客さん、くれぐれも無茶はしなさんな」


 と、震え声で告げ、逃げるようにしてその場を去って行った。


「大の男が呆れたものだわ。まあ、無理もないわね。私だって、一人でこんなところに行きたいとは思わないもの」

「黒い谷か……確かに、名前の通りかもしれないね。中がどうなっているのか、ここからだと見えないな」


 アーサーは身につけていた懐中時計をかざし、方角を確認した。勇気を出し、一歩、また一歩と渓谷へ足を踏み入れる。地面は湿気でぬかるんでおり、歩くたびに「ぺちゃぺちゃ」という音が鳴った。霧で奥の様子はよく見えないが、中からは「ほうほう」というフクロウの鳴き声や鳥の羽音が聞こえてくる。


「話には聞いていたけれど、気味の悪いところ。足元がこれじゃ、ドレスの裾が汚れてしまいそうね」


 シャルロットはドレスの裾を持ち上げ、ゆっくりアーサーの後をついて行く。

 中に入れば入るほど陽光から遠ざかっていく。迷いの森で暗い場所に散々慣れているアーサーでも、異国の渓谷に足を踏み入れることに対し、不安がないわけではなかった。どこを目指せば良いのかわからない状況で、五感を頼りにただひたすら奥へ奥へと進んでいく。


「そういえば君に、旅の目的を聞いていなかったね。昨日から僕の話ばかりしていたよ」


 アーサーの言葉を聞き、シャルロットはくすくす笑った。


「しかたがないわよ。事情が事情だし、昨夜はそれどころではなかったでしょ? 本当はね、家に帰るつもりだったの。私、アントワーヌの出身なのよ」

「実家がアントワーヌってこと? 前にババ様から聞いたことがあるけど、この辺りは昔から貴族が多いらしいね。もしかして……君も?」


 シャルロットの顔をじっと見つめた。


「一応末裔ではあるけど、今はもう……曾祖母の代までは宮廷に知り合いが多かったと聞いているわ」


 アーサーは、天井から糸で吊り下げられたように背筋をピンと伸ばした。


「と、歳が変わらないと思って、タメ口で話していました……す、すみません!」


 シャルロットはぷっと吹き出し、口を押さえた。笑いをこらえようとすればするほど、肩が震えてしまう。


「あなたって、本当に面白い人。大丈夫、そんなこと気にしていないわよ。歳は私の方が一つ上だけどね。大した違いではないわ。一族が宮廷を離れてどれくらいたったかしら」

「僕のような庶民には想像のつかない世界だな。これも前にババ様から聞いた話だけど、大きな屋敷に、綺麗な服や豪華な食事、夜は舞踏会や有名な音楽家たちによる演奏会もあるらしいね」

「ええ、貴族ならではの面倒なしきたりもたくさんあるけれど、今の生活よりはずっと……」


 シャルロットは大きな溜息を吐いた後、首につけているペンダントを握った。


「このペンダントは曾祖母の形見なの。曾祖母も占いが得意だったから、宮廷で引っ張りだこだったって。そんな折、ある男性からこのペンダントをもらったらしいんだけど、私が十歳の時に曾祖母は亡くなってしまったから、あまり詳細は分からないの。だから、曾祖母が滞在したことのある場所に行けば、何か分かるかもと思って、各地へ足を運ぶことにしたわ。結局、有力な手掛かりは得られないままだけどね」

「昨夜、バルトロの言っていたストーンって言うのは、君のペンダントについているその石のこと?」

「ええ、そうよ。見た目は宝石と何ら変わらない、すごく美しいものだけれど、血塗られた歴史を彷彿とさせるこの欠片を見ているとね、急に怖くなってしまうことがあるの。大切な形見の品なのに。欠片の一つ一つには力が秘められていて、持つ人の思いに反応するのだとか、色々言われているわ」


 アーサーは、僅かに表情を曇らせる彼女の目を見た。


「歴史がどうあれ、大切なのはその力を正しいことに使えるかどうか、ってことなんじゃないかな。シャルロットにとっては、大切な人の形見だろうし、きっと、ひいおばあさんも見守ってくれていると思うよ」


 シャルロットは戸惑ったような表情を浮かべたが、すぐに笑顔を取り戻した。


「ありがとう、アーサー。やっぱり、あなたについて来てよかったわ。もしかしたら、真相に近づくことができるかもしれないから」


 と、シャルロットが言い終わるか言い終わらないところで、


「わっ!」


 アーサーは足を滑らせ、尻を思いきり強く打った。するとそのまま、氷の上を滑るように坂を転がり落ちてしまった。


「あっ、あいたた!」


 尻をさすり、ゆっくり起き上がる。


「大丈夫!?」


 シャルロットがアーサーの転げ落ちてきた坂の上の方から叫ぶ。


「大丈夫、お尻を強く打っただけ。服は泥だらけになっちゃったけど……」


 アーサーが苦笑いを浮かべて答えたところで、


「誰だ?」


 という声が鋭く響き渡った。

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