Ⅲ
アイビスの屋敷はアーサーの家の三倍近くもあった。屋敷内には、彼女の身の回りの世話や警護をするための使用人が数人いる。使用人たちは洗濯物の取り込みや食事の準備などに明け暮れていた。各部屋や廊下に並ぶ調度品はどれも美しく、アーサーが今までに見たことのないものばかりである。長老宅を初めて訪れた彼にとって、まさに新鮮な光景だった。
アーサーが興味津々で辺りを見回していると、アイビスが奥の部屋から手招きをする。
「こっちじゃ」
部屋に向かうと、近くの椅子に座るように促された。
「しばし待て」
そう言うと、アイビスは電話をかけ始めた。
「アイビスじゃ」
『アイビス様! 本日はどのようなご用件でしょうか』
電話口にいた男はかなり驚いた様子だった。男の声はかなり大きく、アーサーにも話の内容が聞こえている。
「急ではあるが、今日の午後二時に出発するラニーネ急行の切符を取りたい。わしの使いを急遽アントワーヌへ向かわせることになったのでな」
ラニーネ急行と聞き、アーサーは目を見開いた。
ラニーネ急行とは、霧の国中心部にあるクイーンズ・クロス駅から東洋と西洋の狭間にある地の国コンスタンス駅までを繋ぐ豪華寝台列車である。乗車には召使一年分の給料に相当する運賃がかかるとされており、王侯貴族や高級官吏、一部の大商人など数少ない上流階級の人間のみが利用している。
『これはまた急ですな。今のところ二等室が半分ほど空いております』
「一等は空いておらぬか?」
『申し訳ありません、一等室は……』
と、男が言いかけた時、電話口がざわついた。それから彼はやや早口でこう言った。
『一室だけ空きがございます。今から二時間ほど前にキャンセルが出ておりましたので』
「二時間前に? 早朝からそなたらを叩き起こした者がいるとは」
『これも私たちの勤め。それにしても、まさにグッドタイミング……おかげであなた様にご案内することが出来ました』
「では、ありがたく使わせていただこう。使いの名は、アーサーという。切符の受け取りは一時半に駅の詰め所で良いか? 何しろあの子に大金を持たせるのでな」
『承知致しました。お待ちしております、とお伝えください』
「ああ、伝えておこう」
アイビスは受話器を置き、アーサーに革袋を差し出した。
「風の国に行くにはドゥーラン海峡を超える必要がある。じゃが、十七歳に満たない今のお前には空間を飛ぶ能力を授けることは出来ん。これも掟ゆえ、やむを得ん話なのじゃ。ラニーネ急行の切符代と、お前が旅の道中困らんように小遣いを入れておいた。大金が入っているゆえ、くれぐれも盗まれたり、なくさないようにな。クイーンズ・クロス駅より乗車し、海峡を越えたアントワーヌ駅で下車せよ」
「ありがとうございます。一時半にクイーンズ・クロス駅の詰め所ですね」
「そうだ、お前を待っていると言っていた。それと、これはお守りじゃ」
アイビスは机上の小箱から白い布を取り出し、アーサーに手渡した。布の中には何やら丸いものが包まれている。
「中を見てもいいですか?」
「構わん」
アーサーが布を取り払うと、中から瑠璃色の玉が出てきた。玉はずっしりと重みがあり、ひんやり冷たい。表面には光沢があり、アーサーの顔が映りこむ。その輝きに引きこまれるように、彼はじっとそれを見つめていた。
「それは、時の民の長老が代々守り続けている――いわば、わしらの集落の宝じゃ」
「そんな大事なものを……僕に?」
「世界には龍が生んだ二つの玉があると言われている。一つは時間、もう一つは空間を司ると言われている。その内の一つがこれじゃ。お前を最善の方向へ導いてくれることだろう。フランシスを連れて、必ず生きて帰って来い。お前の両親のためにも」
「はい、必ず。行って来ます」
アーサーは、アイビスにもらった袋を肩から下げた布袋へ入れ、玉の入った布を服のポケットへ突っ込んだ。
彼が森へ向かって歩き出すと父親が牛舎から駆けつけ、息子の勇姿を見送った。
懐中時計を頼りに、迷いの森へ入る。南の方向へ一マイルほど歩くと大きな切り株があり、アーサーは足を止めた。
(僕が、フラン兄さんと初めて会った場所……)
アーサーは懐中時計の針を反時計回りに動かし、切り株から少し離れた場所で息をひそめる。
彼の前には幼い頃の自分と二匹のオオカミがいた。
「誰か、誰か助けて!」
幼いアーサーは切り株につまずいて転び、今にもオオカミに襲われそうだった。オオカミが彼の喉笛に今にも噛みつきそうな時、「バーン!」と一発の銃声が響き渡る。驚いて顔を上げると、一人の少年が立っていた。
「怖がらないで」
銃声を聞き、一匹のオオカミは身の危険を感じたのか後ずさりを始めたが、もう一匹は威嚇の声を上げていた。少年がもう一度小型のピストルを構えると、二匹は身をひるがえすように去っていった。
「そのまま巣までお帰り。君、怪我はないか?」
「君じゃないよ、僕の名前はアーサーだよ」
幼いアーサーは頬を膨らませた。
「へぇ、アーサーって言うのか。良い名前だね」
「さっきはありがとう。お兄ちゃんの名前は?」
「私はフランシス。この年で恥ずかしいが、道に迷ってしまった」
「じゃあ、僕と一緒に来る? 里のみんな、とっても優しいんだよ」
(あの時、兄さんと出会っていなければ、僕はオオカミに襲われて死んでいたのかもしれない。今度は、僕があなたを助ける番です……)
アーサーが懐中時計の針に再び触れようとした時、
(誰!?)
アーサーは身構え、辺りを見回す。
だが、辺りは鳥の声が聞こえるぐらいで人影はほかに見当たらない。
(どこからか視線を感じた……気のせい、か?)
アーサーは不審に思いながらも再び懐中時計の針を動かし、現代へ戻った。
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