Ⅱ
朝六時。日が昇り、澄んだ青空が広がっている。
緑色の長いストールを肩に纏った白髪の老女が、杖をつきながらある家へと向かっていた。村の長老アイビスである。もうすぐ九十歳になる彼女にとっては、短い距離を歩くだけでも重労働だった。目的の家へ着くと、扉についていた真鍮製のドアノッカーを気忙し気に叩く。
「わしじゃ。アーサーはおるか?」
「はい!」
アーサーの母ベルは、慌てて戸を開けた。
「全員無事か?」
「はい。夫は今頃、牛舎で家畜の番を他の方たちとやっているはずですが。アーサーに何か御用ですか?」
「左様、今日は頼みがあって参った」
「アーサー、降りてきなさい」
ベルが足元のおぼつかないアイビスを近くの椅子に誘導すると、アーサーは寝ぼけ眼をこすりながら一階へ降りてきた。鮮やかな赤色で癖のある髪に、透き通ったヘーゼル色の目、身長は約五・四フィートと決して大柄ではないが、手足がひょろりと長い。彼は突然の来訪客に目を見開いた。
「ババ様! 昨夜の嵐は酷かったですね」
「ああ、わしの知る限り一番の酷い嵐じゃった」
紅茶を入れようとアーサーが台所へ向かうと、アイビスは椅子にゆっくり腰を下ろした。
「茶はいらぬ。わしはお前に用があって来たのじゃ。あまり時間もない」
「僕に用があるなら、一言呼びつけてくださればいいものを。そのお体では大変でしょうに」
冗談交じりに笑うアーサーを見て、ベルが「アーサー!」と言い終える前に、アイビスはいつになく低い声で言い放つ。
「わしを年寄り扱いするではない!」
あまりの迫力に押され、アーサーとベルは思わず黙ってしまった。
その様子を見たアイビスも慌てて我に返り、事の次第を伝えにかかる。
「いかん、こんなことをやっている場合ではなかった。フランシスが行方不明になったのじゃ」
アーサーの表情は、空に突如姿を現した雨雲のようにあっという間に暗くなってしまった。
「フラン兄さんが?」
ベルも言葉を失った。
「真夜中、一人の少女とともに姿を消してしまったらしい。フランシスの家の前にこんなものが落ちていたそうじゃ」
アイビスは懐から黒い羽根を取り出し、アーサーに差し出した。
「その羽根、お前にはどう見える? わしには空から舞い降りた悪魔にしか見えぬ。天使の顔をした悪魔にじゃ」
「時間を戻してはどうでしょうか?」
「時間を戻したとしても今回のことは解決せん。お前も忘れたわけじゃなかろう? 時空の大罪を」
「一つ、歴史を変えてはならない。二つ、過去の人間に未来のことを告げてはならない……」
「そうじゃ。例え真相を突き止めることが出来たとしても、そしてどんなに理不尽な結果が目の前で起ころうとも、過去に遡って歴史を変えることは、我々時の民にとってはあるまじき行為。無論、掟に背いた者には罰が下る」
「わ、分かっています……ババ様、女はどちらの方向に飛び去ったのですか?」
アイビスは肩に掛けていたストールへ手をかけた。中から「じゃらじゃら」と音が鳴り、複数の懐中時計が顔を覗かせる。
「懐中時計が沢山……いったいこれは?」
アーサーは、アイビスのストールの中でゆらゆらと揺れる懐中時計の動きに目を見張った。
「これらの時計は世界各国の時間を示しておる。さて、これは風の国に火の国、太陽の国……霧の国、これじゃ」
アイビスは、ひときわ大きな懐中時計を手に持ち、羽根にかざした。時計の針は反時計回りに動き始め、杖の上部についた水晶に映像が映し出される。水晶にはフランシスを連れた少女の飛び去って行く後ろ姿が映っていた。
「風の国の方角じゃ。じゃが、それ以外手がかりはつかめておらぬ」
――フラン兄さん。
アーサーは小声でぽつりと言った。
父さんと家畜を牛舎に追い込んだ後、どうしてフラン兄さんの家に立ち寄らなかったんだろう。兄さんなら大丈夫、って安心しきっていたんだろうか……などと、アーサーは昨夜のことを悔やんだ。彼は、今にも胸が張り裂けそうな思いでアイビスの顔をじっと見る。
「ババ様、行かせてください……フラン兄さんを助けるために。僕にとって、あの人は兄同然の存在ですから」
フランシスは十年前にこの集落へ移住してきた。迷いの森でアーサーがオオカミに襲われそうなところをフランシスに救出されたことがきっかけで、アーサーはフランシスを兄のように慕ってきたのだ。
アイビスは頷いた。
「外は危険が多い。相手がフランシスを誘拐した者だけとも限らん。覚悟はあるか?」
アイビスの問いに、アーサーは迷うことなく答える。
「もちろんです!」
「お前なら、そう言ってくれると思っていた」
二人のやりとりを見ていたベルは、
「この子はまだ十六歳です。お役には立てないかと」
と、アイビスの言葉を遮るように、必死な目で訴えたが、アーサーは首を横に振った。
「母さん、僕なら大丈夫だよ。必ずフラン兄さんを連れて帰ってみせる。それに、ずっと旅をしたいと思っていたんだ。外の世界を見てみたい」
まっすぐな目、そして、どこか遠くを見つめるような我が子の顔を見て、ベルの目から涙がこぼれる。
「……分かったわ。必ず、無事に戻って来るのよ。待っているわ」
ベルはそう言うと、アーサーの肩を優しく押した。
「そうと決まれば『善は急げ』ですね。支度をしてきます」
アーサーは急いで二階へ上がる。
ベルは愛息子が二階へ上がったのを確認すると、その場で塞ぎこんでしまった。
アイビスがそっとベルの肩に手を置く。
「すまない、ベル。じゃが、わしはあの子に一つ賭けてみたいと思ったのでな」
「アーサーに、ですか?」
ベルはゆっくり顔を上げた。
「ああ、あの子なら、あれを上手く使いこなすことが出来るかもしれん」
「……あれ、とは?」
というベルの言葉を遮るように、旅支度を済ませたアーサーが二階から足音を立てて降りてきた。
それに合わせて、アイビスもおもむろに腰を上げる。
「アーサー、わしについてきなさい」
「はい、ババ様」
アイビスの後に続き、アーサーも家を出ようと玄関のドアノブに手をかけたが、「アーサー……」と、か細く呼ぶ母の声に思わず振り返る。
ベルはやや赤くはれた目をハンカチで拭ってから笑顔をつくってみせ、軽く右手を振った。
「気を付けて」
アーサーは、「うん」と、小さく頷いてみせる。そして――。
「行って来ます!」
と、笑顔で力強く告げ、静かに扉を閉めた。
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