第一章 序曲

 一八八九年七月、霧の国北東部。

 目の前に広がるのは鬱蒼とした森。辺りには高い木々が生い茂っているため、太陽の光は地面までほとんど届かない。森の中は真昼でも夜のような漆黒の闇がどこまでも続いている。異国の人々には、一度迷えば二度と出ることは出来ないと評されることから、「迷いの森」と名付けられていた。その迷いの森を抜けると、小高い丘の上に石造りの家々が数十軒ほど建ち並んでいる。時の民たちが住まう小さな集落である。

 時の民たちは金色に輝く懐中時計を身に付けており、時計が現在地と方角を教えてくれるため、森の中で迷うことは一切ない。

 また、時計の文字盤に触れることで、過去と未来の世界を行き来することが出来る。時の民と言われる所以である。

 この日は雲一つない青空だったが、夕方になると天気は一変し、集落の上空には黒い雲が広がり始めていた。大人たちは急いで子どもたちを家の中に避難させ、家畜を頑丈な牛舎へ追い込む。村人全員が家の中へ避難してまもなく、落雷とともに風が唸り声を上げる。大雨の中、雷が鳴るたびに子どもたちは震えあがり、互いに身を寄せ合った。あまりの豪雨と暴風で石造りの建物が今にも吹っ飛んでしまいそうな勢いである。

 その日の深夜、どこからか女性のソプラノを思わせる歌声が聞こえてくる。子守歌のような、心地のよいアリアに答えるように雨足は弱まり、雲間から三日月が顔を出した。


「さっきまでの嵐が嘘みてぇだ。月もよく見えとる。はて、この美しい歌声は?」


 あまりの美しい歌声に、住人のある男は聞き入っていた。やわらかな夜風と美しい歌声にまどろみかけた頃、「きぃ」と軋む音で我に返る。

 男が窓から体を乗り出すと、隣家の扉が開いていた。

 月明かりの元、一人の青年が姿を現す。彼は目を瞑ったまま、両方の腕を前に突き出すように立っており、歌声の聞こえてくる方向へゆっくりと歩いていた。


「フランシス? おーい、こんな時間に何をやっているんだ?」


 男が窓から叫ぶが、フランシスと呼ばれた青年からは反応がなかった。


「まさかアンタ、夢遊病じゃねぇだろうな」


 無言で歩き続けるフランシスに、しびれを切らした男は玄関のドアノブに手をかけた。

 だが……。


「何だ? おい、何で開かねぇ!」


 鍵は動かず、扉はびくともしない。何度やっても、扉はガチャガチャ音が鳴るばかりだった。


「クソ、何で開かねぇんだよ!」


 男は扉へ向かって何度も体当たりをしたが、まるでびくともしない。彼が扉の覗き窓から外を見ると、フランシスの他にもう一つの人影が視界に入る。

 それは顔が白く銀髪で、背中に黒い羽の生えた少女だった。銀色の月に照らされたその姿に男は息をのんだ。


「銀髪の……子ども? いや、この村にそんな子どもは一人もいねぇ……おい、フランシス!」


 どう見ても十歳にも満たないようなその少女は、フランシスを無表情で見上げていた。


「青い目、金色の長い髪、そして……」


 少女はもう一度歌った。

 すると、フランシスの家から月明りで青白く照らし出された首飾りがひとりでに出てくる。少女はそれを静かに手に取った。


「あなたで間違いない……フランシス、あなたを迎えに来たわ」


 フランシスは我に返り、辺りを見回す。


「ここは……なぜ、私は外に?」


 彼は怪訝な顔で少女を見下ろした。


「……君は、何者なんだ?」

「あの方のために、あなたに協力してもらうわ。私と一緒に来なさい」

「あの方? いったい……」


 フランシスが少女に詰め寄ろうと一歩踏み出したところで、急に動きが止まった。蜘蛛の糸に絡まる蝶のように必死にもがくが、びくともしない。


「……体が、動かない」

「もう一度言うわ……私と一緒に来なさい」


 少女が再び歌い始めると、フランシスの体は宙に浮いた。フランシスはなす術もなく、彼女とともに闇夜へと消えて行った。

 その直後、男の家の扉が外れ落ち、地面へ転がり込んだ。体をさすりながら立ち上がる。


「いってぇ……っと、こうしちゃいらんねぇ! 大変だ、アイビス様に知らせねぇと!」


 フランシスの家の前に何かが落ちているのを発見した。恐る恐る拾い上げてみる。


「何だ、この羽根は? 黒い羽根って言うと、何か縁起でもねぇ感じがするぞ」


 漆黒の羽根を手に持ち、男は慌てて駆けて行った。

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