Ⅳ
アーサーが森を抜けた頃、時刻は正午を回ろうとしていた。橋を渡ると市街地であるラントの街並みが見えてくる。産業革命で急速に発達したこの街は、スモッグと呼ばれる黒い霧が立ち込めており、それが太陽の光を遮っているため、昼なのに暗く、肌寒い。
また、大気汚染が深刻で喘息を発症して診療所へ運ばれる者が数多くいた。街に入るや否や、アーサーはハンカチを鼻と口に当て、クイーンズ・クロス駅へ向かうための辻馬車を探し始めた。
ところが――。
(……参ったな)
街の中心に位置する広場にはたいてい複数の辻馬車が止まっているのだが、この日に限っては一輌も止まっていない。通りを越えた電報局の前にも足を運んでみることにした。
だが、こちらにも辻馬車は止まっていなかった。
(どちらかには止まっていると思ったんだけどな……)
その時、後方から馬の鳴き声と車輪のブレーキ音が聞こえ、アーサーは振り返った。
「馬車……」
屋根のついた黒い客車には扉の取っ手や窓枠など、ところどころに金細工が施されており、中から一人の男が降りてきた。黒い背広に身を包み、白髪で鷲鼻が特徴的な長身の男からはほのかに香水の甘い匂いが漂う。男はアーサーの眼を鋭く見つめていた。
「何かお困りかね?」
「一時半までにクイーンズ・クロス駅に行く約束をしていたんですが、辻馬車が見当たらなくて……」
「わしの馬車を使え」
「えっ?」
思いも寄らなかった男の返答に、アーサーは驚きの声を上げた。
「ここから歩けば、最低一時間はかかるだろう。もたもたしている時間はあるまい」
「ですが、それではあなたが……」
「何だ何だ? もしかして迷っているのか?」と、二人のやりとりを見ていた御者の男が会話に入ってきた。
御者は軽々と馬車から降り、アーサーを上から下までまじまじと見つめた。黒い髪に浅黒の肌で、蛇のような目をした男である。少なくとも六・三フィートはあるその身長で、アーサーを見下ろした。
「約束の時間に間に合わせるには馬車が必要。だが、その肝心な辻馬車が見当たらない……だったら、打ってつけじゃないか。馬車なら目の前にあるんだからさ。それで? お客さんまさか、ラニーネ急行に乗るつもりかい?」
「そうです……でも、どうして?」
アーサーは訝しげな目で御者を見つめたが、当の御者はそんなことはどうでも良いと言わんばかりに、
「なら、しっかり掴まっていることだな。さあ、乗った、乗った!」
と、半ば強引にアーサーの腕を引っ張り上げる。
「あっ、えっ、ちょっと!」
「幸運を祈ろう……時の民の少年よ」
そう言い残し、男は去って行った。
アーサーが馬車に乗り込むや否や、御者は鞭を強く打った。すると、馬が勢い良く走り始める。
「わっ!」
アーサーは振り落とされまいと、車内の手すりにしがみつく。曲がり角にさしかかり、御者は馬をせかすように再び鞭を打った。右へ、左へ、そして下り坂へ……ラントの坂道を転げ落ちるように、馬は全速力で走り続ける。
「あ、危ないですよ!」
「そうも言っていられないだろう? 列車に乗り遅れたら最後、切符なんかただの紙切れに成り下がるんだからさ」
御者の放ったこの一言に、アーサーは返すことが出来なかった。
(フラン兄さんを助けられるかどうかは僕にかかっている……)
そう思うと約束の時間に間に合わせるより、ほかはない。
「は、吐きそう……」
「もう少しの辛抱だ。あと二、三分もすりゃ駅に着く」
御者の言葉に頷くも、揺れに耐えきれなくなったアーサーは車内に横たわる。
それからまもなく、馬車はクイーンズ・クロス駅へ到着した。御者が乗降口の取っ手に手をかけたが、アーサーは、ぐったり横になったままだ。
「おい、お客さん? ……ったく、しょうがねぇな」
アーサーは御者に支えてもらいながらやっとのことで馬車を降りることが出来た。
「あ、ありがとう……おかげで約束の時間に間に合いました」
御者に銀貨二枚を渡し、軽く会釈をする。間に合ったのは良いが、ここまで乱暴な運転をする御者に当たったことがない。その上、蛇のようなあの目――辻馬車の多いラントの街で再び出会う可能性もないだろうが――再び彼に出会わないことを密かに願いながら、アーサーは駅の中へと入っていった。
その様子を見た御者は、足元に置いた古めかしい黒のシルクハットを拾い上げ、軽く手で払う。それを深々と被り、不気味なほどに口角を上げた。
「いいねぇ、痛めつけがいがあって……」
クイーンズ・クロス駅の中は利用客で賑わっていた。看板を頼りに詰め所へ向かう。中では駅員の男が待っていた。
「アーサー様、お待ちしておりました。こちらがドゥーランまでの特急券、ドゥーランから森の国アウレンハイムまでの乗船券、アウレンハイムから風の国アントワーヌまでの特急券と一等室十番の寝台券になります。ドゥーランまでの連絡鉄道は午後二時、九番線より発車します。それでは、良い旅を。幸運を祈っていますよ」
「ありがとう。行ってきます」
アーサーは金貨四十枚を渡し、切符を受け取った。
九番線には車体が緑色の列車が止まっている。駅の天窓から差し込む陽光を浴びて車体が光り輝いていた。
定刻午後二時、アーサーと他の乗客を乗せたラニーネ急行は、クイーンズ・クロス駅を発車した。
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