第二章 忍び寄る影
Ⅰ
霧の国南端にあるドゥーランまで一時間半ほど車内で過ごした後、海峡を挟んだアウレンハイムを目指し、乗船する。一時間半ほどの短い船旅ではあるが、乗って僅か三十分もしないうちに酔いを覚えたアーサーは、たまらず甲板へと出た。
船の後方にはドゥーランの切り立った白い断崖が見える。辺りに広がる青々とした海の色と対比されたこの風景に、アーサーはしばらく見とれていた。
(ババ様に持たされた玉の色に似ている……)
アーサーはポケットに入れていた瑠璃色の玉を白い布から取り出し、じっと見つめる。太陽の光で、玉の表面には自分の顔が映り込んだ。その表情はどこかこわばって見える。初めての旅――しかもたった一人でフランシスを連れ戻さなければならない。緊張と不安の表れであった。そんな自分に言い聞かせるように「大丈夫」という言葉を口にし、玉を布にくるんだ。
甲板にはいくつか丸いテーブルと椅子が並べられており、貴族たちが優雅に紅茶や菓子などを楽しんでいた。辺りに漂う紅茶や甘い菓子のにおいにつられ、アーサーは大きな腹の虫を鳴らした。すると、後方からくすくすと笑う声が聞こえてくる。
「あなた、おなかがすいているのね。お昼は食べていないの?」
アーサーが声の主の方へ振り返ると、見た目は歳がさほど変わらない少女だった。真っ黒のワンピースを着ており、栗色の髪を頭の高い位置で二つに分けて結んでいる。琥珀色のきらきらとした目で、アーサーを無邪気に見つめていた。
「言われてみれば……」と、ラントからここまでの道のりを振り返る。約束の時間に間に合わせることに必死で、昼飯を調達するどころではなかった。そして何より、フランシスのことで頭がいっぱいだったのだ。
「……すっかり忘れていたよ」
苦笑いを浮かべるアーサーを前に、少女は近くのテーブルを指さす。
「あそこの席でお茶でもしない? 一人だったから、話し相手が欲しかったところなの。もちろん、あなたがご迷惑じゃなければだけど」
「もちろん、喜んで」
二人が席に着くと、すぐにウェイターが紅茶とケーキをスタンドに乗せ、運んできてくれた。アーサーが二人分の代金を払おうとすると、
「こちらはただで持ってきてくれるのよ。船の料金に含まれているみたい。見たところあなた、庶民の出のようだけど、どうしてこの船に?」
「人を探しているんだ。その……僕にとって大切な人を」
「あら、そうなの……事件にでも巻き込まれたの? それとも……家出?」
家出という言葉に苦笑いを浮かべる余裕もなく、
「ちょっと事件に……」
そう言いかけたところで、アーサーは言葉を詰まらせた。
「お気の毒ね。その人、見つかると良いわね」
「もちろん、そのつもりだよ」
ケーキを口に入れると、優しい甘みが口の中に広がった。柔らかいスポンジケーキが口の中でみるみるうちに溶けていく。腹が満たされ、アーサーが安堵の溜息を漏らした頃、
「そろそろ、アウレンハイムね。部屋に荷物を取りに行かなきゃ。ありがとう、楽しかったわ」
少女は席を立ち、いなくなってしまった。
(アウレンハイムか……)
一歩降り立てば、そこは異国の地。初めての国外だと考えれば考えるほど、アーサーは気持ちが落ち着かなくなった。
まもなく船着き場へ到着し、他の乗客たちとアウレンハイムの駅を目指した。
駅の改札を抜けると、ホームには蒸気機関車が停車している。車体は青々と光り輝き、豪華列車の風格を漂わせていた。
(すごいな。こんな列車に乗ることになるなんて……)
と、アーサーが見とれていると、車掌が大声でアナウンスをする。
「ラニーネ急行、まもなく発車します。途中停車駅は、シュヴァルツァ、アミア、ルーランジェ、アントワーヌ、ルボア、ミラーネ、マミグラード、終着駅コンスタンス。ご乗車の方はお急ぎください」
アーサーは列車へと乗り込んだ。
定刻午後六時にアウレンハイムを出発したラニーネ急行は、先頭から荷物車、寝台車、食堂車、バーラウンジ車の計四両編成で、アントワーヌ駅までは約十五時間をかけて走行する。
度重なる移動で疲れ切っていたアーサーは、肩に掛けていた布袋をライトスタンドのある小さな机の上に下ろし、寝台へ倒れこむように転がった。
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