第26話 雨空の終わり

 不意に玄関のほうでがちゃりと響いたドアノブの音に、待ち望んでいたその人が来たのだと気づく。三人の空気が引き締まるのが分かった。リビングに入ってくれば、嫌でもこのセーラー服とナイフを目にすることになる。言い逃れはできないだろう。


 張り詰めた空気の中、リビングのドアが開かれる。暗い色のワンピースの裾がひらりと揺れた。


「架夜、お友達がいらしているの――」


 柔らかい微笑みを湛えた夏条先生の言葉が、ぷつりと途切れる。その目は、テーブルの上のセーラー服とナイフに釘付けになっていた。


「お邪魔しています、夏条先生」


 柊は軽く会釈をして、彼女の注目を誘った。怯えるような目で、夏条先生はこちらを見やる。


「あなたは……黒川君」


「覚えていてくださって光栄です。それから、この子は幼馴染の詩歌といいます」


 私も柊に倣って軽く会釈をし、「初めまして」と呟いた。先生はよほど動揺しているのか、私の存在などまるで気にしていないような素振りだ。


 一方で、柊の態度は堂々としたものだった。夏条先生が真相を明かすまで、とことん追及するつもりなのだろう。架夜さんも困惑しきっている姉に助け舟を出すこともなく、ただソファーに座るように促した。L字型のソファーの一辺に私と柊、もう一辺に架夜さんと夏条先生が座る形だ。ソファーに座り込んだ先生は、固く握った拳を両膝に置いて、何やら思い詰めている様子だった。その肩はわずかに震えている。


 遂に、私の死の真相が明らかになるのだ。シーカに借りた体の脈が早まっているのがわかる。それは、柊も架夜さんも同じなのだろう。一種の高揚が、三人の間にはあった。


「今日は、先生に伺いたいことがあって待たせてもらっていたんです」


 柊は淡々と言葉を運んでいく。架夜さんにこの話題を持ち出させなかったのは、おそらく柊なりの優しさなのだろう。先生は、俯いたまま彼の言葉を聞いていた。


「先生、このセーラー服とナイフはどうしたんですか?」


 単刀直入に柊は切り出した。現物を目の前にしている以上、確かに余計な探りなどは無用だろう。はっきりと話題に触れたことで、場の空気が一層切り詰める。


 夏条先生もその空気を感じ、逃れられないことを察したのか、ようやく言葉を絞り出す。


「……話すわ、全部。私の知っていることはすべて」


 夏条先生は俯いていた顔をあげ、架夜さんのほうを見やる。こうしてみると、二人の整った目鼻立ちは似ている部分が多かった。先生は、今にも泣きだしそうな表情で続ける。


「だから、架夜、あなたも全部話しなさい。あなたの罪は私も一緒に背負うから」






「何を言っているの姉さん」


 凍り付いた沈黙を最初に破ったのは、架夜さんだった。その思いは、私も同じだ。夏条先生がストレスでおかしくなってしまったのかと本気で思ってしまう。あるいはやはり、架夜さんが嘘をついていたのか。予想外の展開に、頭が回らない。


「もう、隠さなくていいのよ。私、本当はわかっていたの。いつか話さなきゃって思ってた」


「だから、どういうこと? 私たちは、この血まみれのセーラー服とナイフはどうしたのかって聞いているのよ。私の罪だとか訳わからないこと言って誤魔化すようなら、いくら姉さんでも軽蔑するわ」


 架夜さんの言葉には確かな苛立ちが感じられた。その苛立ちには予想外の姉の言動に対する戸惑いも含まれているのだろう。先生はそんな架夜さんを落ち着いた様子でじっと見つめている。覚悟を決めた目をしていた。


「わかったわ。まず、私の知っていることから話すわね」


 決して感情的にはならずに静かに話を進めるその姿は、教室で見る夏条先生と同じだった。


「ええ、話してちょうだい。私を疑う理由がはっきりとわかるようにね」


 冷静な夏条先生とは対照的に、架夜さんはかなり腹が立っているようだった。


 夏条先生は架夜さんからテーブルの上に視線を移すと、軽く息をついてから語りだした。


「一つずつ説明するとね、このセーラー服とナイフは、私の担任しているクラスの柚原さんから受け取ったものなの」


「……千夏が?」


 思わず言葉がこぼれてしまった。どうして、ここに千夏が出てくるのだ。私のせいで泣きじゃくり疲弊しきった彼女の姿が目に浮かぶ。触らなくてもわかるほど、拍動は強く早くなっていく。


「橘さんが殺されたあの日、私は研修会に行っていたの。夕方にはもう終わっていたから、駅に向かっていたわ。そんなとき、柚原さんから携帯に着信があって、今すぐ会いたいと言われたのよ」


「一生徒と携帯の番号をわざわざ交換してるの?」


 架夜さんは怪訝そうに聞く。明らかに、彼女は先生を不審に思っていた。


「茶道部の生徒だけには、番号を教えてあるのよ」


「……いいわ、続けて」


「……電話の先で彼女は、泣きじゃくっていたわ。その電話を受けたときはまだ、橘さんの事件のことを知らなかったから、柚原さんに何かあったのか思って慌てて会いに行ったの」


 先生は、セーラー服とナイフが入っていた白い紙袋に手を伸ばした。


「柚原さんの家の近くで私たちは落ち合った。彼女は、泣きじゃくりながらこの紙袋を抱えて私に助けを求めたの。柚原さんは怪我をしているようでもなかったし、彼女をなだめながら訳を尋ねたら、この紙袋をどうすればいいのかわからないって、そう言ったわ。中身を見せてもらったら、生々しい血のついた見慣れたセーラー服とナイフが入っているんだもの。私も驚いたわ。これはただ事じゃないと思って、この紙袋の中身はどうしたのかと聞いたら、彼女、こう言ったのよ」


 先生の視線が架夜さんに再び向けられる。


「大槻架夜先輩に、渡されたって」


「冗談じゃないわ」


 架夜さんは吐き捨てるようにそう言うと、ほとんど睨むように先生に向き合う。


「まさか、その子の言葉を信じたの? なんにも証拠なんてないじゃない!」


「無いわ。無いけれど……」


 何の前触れもなく、先生の両目が潤む。ずっと堪えていたのだろうか。膝に置かれた手は、小刻みに震えていた。


「隠さなきゃって思ったのよ。本当に架夜から渡されたわけじゃなくても、柚原さんがこのまま警察にでも縋ったら、架夜の話が絶対に出る。本当に架夜が関わってないのならそれでいいけれど、万が一犯人だったりしたら間違いなく捕まってしまう。あの時は冷静じゃなかったわ。泣きじゃくる柚原さんに、このことは誰にも言わないように言いきかせて紙袋を預かった。そうして急いで家に戻り、私の部屋の隅に隠して、架夜が帰ってきたら話を聞こうと思ったの。警察に行くのは、それからでも遅くはないって」


 先生は俯くようにして、表情を見せまいとしていた。もしかすると泣いているのかもしれない。いつも落ち着いた雰囲気で、穏やかな先生の表情ばかり見ているだけに、先生の露わにされた感情を直視するのはきまりが悪かった。


「……そんなときに、今度は学校から連絡が来て、橘さんが病院に運ばれたという知らせを受けたの。しかも、体中に刺し傷があって、既に心肺停止の状態だと聞いて、このセーラー服やナイフについた血は橘さんのものなのだと気づいた。それがわかったとき、私はもうこの紙袋をどこにもやれないことを悟ったのよ」


「どうして? 私に話を聞いて、警察に届ければよかったじゃない」


「……できなかった。醜い理由よ。私は、橘さんのお父さんと個人的に親しくしているの。もしこの紙袋を警察に届ければ、妹を庇うために橘さんの事件の重要な証拠を握りつぶしたことが、きっと彼にも知られてしまう。余計に隠さなければいけないと思ったの」


 その言葉の最後の方は、涙に滲んだ声だった。悔やんでいるのか、当時の心境を思い出して怯えているのかは分からないが、その姿はまるで少女のようだった。だが、そんな先生に対して、架夜さんに容赦はなかった。


「最低ね。姉さん、その人に全然相手にされてなかったじゃない。しかも花菜ちゃんの父親だったなんて……」


 夏条先生の頬を伝う涙の量が増えた気がした。柊はその光景をやけに冷めた目で見つめている。内心引いているのかもしれない。


「それで、どうして私に話を聞いてくれなかったの? 私、アリバイもちゃんとあって花菜ちゃんのこと殺しようがないの。柊が証人よ。少し話せばすぐにわかってくれたはずなのに」


「……聞けなかったの。橘さんは、架夜のいわゆる恋敵のような存在だと思っていたから。動機はあるのかもしれないと思うと怖くなった。それに、あなたの高校の制服を探してみたけれど、どこにも見つからないから、この血まみれの制服がそうなんじゃないかって思い始めたら止まらなくなって……。あなたが、高校の生徒に扮して橘さんを殺して、その時身に着けていたものを後輩に押し付けたんだとしたらすべて説明がついてしまう」


 夏条先生は思ったよりも思い込みが激しい人のようだ。もっと論理的に物事を考えられる人だと思っていたが、どうも違ったらしい。もっとも、大切な妹が犯人かもしれないと思えばこのくらい狼狽えるものなのかもしれないが、生憎私には理解できなかった。


「それだけのことで、私を犯人だと思っていたの?」


 架夜さんは心底呆れ果てたような様子で問う。先生はただ俯いてしまった。


「はっきり言って、私は姉さんが恥ずかしい。事件の重要な証拠を、片恋慕と思い込みのせいで握りつぶすなんて、あまりに稚拙だわ。恋愛至上主義も、ここまで来ると病気みたいね」


 包み隠すことのない架夜さんの言葉は、夏条先生をさらに追い詰めた。大人が追い詰められているのを見るといたたまれない気持ちになるのだが、夏条先生を憐れむ気持ちは微塵も湧かなかった。それだけ架夜さんの言葉は正しかったし、私の言いたいことも代弁してくれていたのだ。この人の思い込みのせいで、私たちは今まで振り回されていたのかと思うと改めて苛立ちを覚える。私の父に嫌われたくないから、などという女子高生みたいな動機をよくこの場で言ってのけたものだ。夏条先生よりも架夜さんのほうが、よっぽど精神が大人びている。


「確かに、私は花菜ちゃんの話をしたことがあったわね。柊の幼馴染で羨ましいとか、そんな話。でも、それって普通の会話でしょ? 姉さんにただ愚痴を聞いてもらいたかっただけ。殺したいなんて思ったこともなかったわ。それに、どんなに私を疑わしく思ったって……姉さんだけは、信じてくれると思っていた。私はそんな人の道から外れたようなことをする子じゃないって、姉さんだけは言ってくれると思っていたのに!」


 架夜さんの声は震えていた。彼女もきっと傷ついているのだろう。証拠もないのに、思い込みで疑われたことを悔しいと思っているのかもしれない。それでも彼女は強かった。その心の内をまっすぐに先生にぶつけたのだから。先生は架夜さんと向き合うことを恐れたが、架夜さんは先生と向き合うことを決して諦めていない。


「ごめんなさい、架夜。ごめんなさい……」


 先生はほとんど泣き崩れるようにして架夜さんに謝罪をする。架夜さんは軽くため息をついてその様子を眺めていた。


「姉さん、部屋で少し休んだら? 聞けることは全部聞いたし、姉さんがいることで有意義な話し合いになるとも思えないし」


 静かな戦力外通告に先生は従うほかなかった。流石にここでごねて、架夜さんの許しを請うほど図々しくはなかったようだ。涙を手で拭いながら、立ち上がろうとする。


「部屋まで送るわ」


 架夜さんは先生に手を差し伸べる。先生は何度も頷いて彼女の手を取った。どっちが姉だかわからないような光景だ。「ごめんなさい」と先生はもう一度呟いた。


「……すぐに戻るわ」


 架夜さんは私たちにそう告げると、姉の手をとってリビングから出て行った。大きな嵐が去っていくのを感じて、軽く息をつく。


 それにしても、許してもいない相手に手を差し出すことのできる架夜さんの強さには驚かされた。あれほど彼女を嫌がっていたのに、こうして内面を知っていくと好感を覚えるばかりだ。


「大丈夫か? 花菜。ぼんやりとしてるけど」


 柊は私を気遣うようにこちらを見た。架夜さんの強さを目の当たりにした今、柊に気を遣わせてしまう自分の弱さが一層際立って情けない。


「……架夜さんは、すごいね」


「なんだ急に」


 拍子抜けしたように柊はふっと笑った。その表情が私は好きだ。


「まあ、強い人だよな。精神的に」


 なんだ、柊もちゃんとわかっているじゃないか。みすみす彼女を手放すなんてナンセンスなことをした割には、彼女をちゃんと理解している。


 それならばどうして別れたのだと悶々と考えてしまう私は、恋愛至上主義は病気と言い放った架夜さんに言わせれば、重病人なのかもしれなかった。







「見苦しいところをお見せしたわね」


 数分と経たずにリビングに戻ってきた架夜さんは、紅茶を淹れ直してくれているところだった。


「夏条先生が、ああいう人だとは思わなかったよ」


 柊の言葉に架夜さんは苦々しく笑う。


「昔から、思い込みとか、そういうのが激しいタイプではあるのだけれど、ここまでとは私も思わなかったわ。心が弱い人なのよ。大目に見てあげて」


 架夜さんは紅茶をティーカップに注ぎ、砂糖を取り出した。砂糖をスプーンですくっては、くるくると紅茶に混ぜていく。


「お待たせしちゃったわ」


「ありがとうございます」


 架夜さんは三人分のティーカップをテーブルの上に並べてくれた。セーラー服とナイフは、夏条先生への追及も終わったので紙袋にしまってある。乾ききって、血は変色しているとはいえど生々しいので、なるべく視界に入れないに越したことはない。


「それで、これからどうするの?」


 架夜さんの淹れてくれた紅茶は相変わらず甘くて美味しい。疲れが取れるような気がした。


「どうにかして、柚原さんに会うしかないだろうな」


「その子、今はどうしているの?」


「今は、ずっと家にいるようです。学校にも来ていないらしくて……」


 恐らく、千夏は今も家に引きこもっているのだろう。部屋に閉じこもって出てこないのか、それとも家の中では平穏に過ごしているのかわからないが、いずれにせよ、そんな状態で私たちに会ってくれるかは甚だ疑問である。


「じゃあ、気になるけれど私は行かないほうが良さそうね。面識もないし、余計に不安にさせちゃうでしょう」


「そのほうがいいかもな」


 それは言えば、私もこの姿では千夏とほとんど面識がない。幽体のまま会いに行く他に無さそうだ。


「それにしても、千夏はどうして架夜さんに渡されたなんて言う嘘を?」


「私に心当たりはないけれど、恨まれるようなことでもしていたのかしら」


「そもそも花菜を殺したのが柚原さんかどうかもまだ確証がない。泣いて夏条先生に助けを求めた以上、本当に誰かに紙袋を渡されたのかもしれない」


 それは柊の言う通りだ。立証されているかどうかは定かではないが、千夏が茶道部への事情聴取の際に語った行動から考えると、彼女に私を殺すような時間はない。そうなると、誰かに紙袋を渡されたと考えるのが自然だろう。


「つまり、誰かが柚原さんに紙袋を手渡して、大槻架夜に渡されたって言えと強要したってこと? ずいぶんまどろっこしいことをするのね」


「千夏に紙袋を渡した人はどこまで想定していたのでしょうね。架夜さんの名前を出せば、そのまま千夏がうまく紙袋を隠すと思ったのか、それとも千夏が先生に助けを求めることを見込んだうえで、先生の姉妹である架夜さんの名前を利用したのか」


「いずれにせよ、柚原さんとそこまで接触ができるなら、おそらく柚原さんの知人なんだろうな。尚且つ架夜の存在を知っている人物……。だいぶ絞れてきたんじゃないか?」


 架夜さんはティーカップを置いてふっと笑う。


「私は高校では目立ってたからそれほど絞れていないんじゃない? あとは柚原さんの交友関係によるわね」


 千夏はおとなしい子で、私や深華とつるんでいる以外には特別仲のいい友達がいるようには思えなかった。誰とでも広く浅く付き合うタイプだ。柊の言う通り、紙袋を千夏に渡した人物はかなり絞れているが、それはまたしても私の知人が関わっている可能性が高いということでもある。そう考えると複雑な心境だった。


「まあ、ここであれこれ考えていても姉さんの二の舞よ。とにかく、その子に直接会って話を聞かないことには進まないわ」


「それはそうだ。だが、どうしたものかな。俺は柚原さんにどちらかというと嫌われている気がするんだ」


「あら、柊のことを嫌う女の子なんていないわよ」


 冗談めかして架夜さんは笑う。こういうところも適わない。柊は慣れているのか、「はいはい」とだけ言って流してしまった。


「千夏は、柊を嫌っているというより怖がっている印象だけど……。どうすればいいかな」


「簡単よ。その柚原さんって子の仲のいい友だちを連れて行けばいいじゃない。そうすれば、柚原さんも柊を招き入れやすいわよ」


 千夏の仲のいい友だち。そう聞いて真っ先に思い浮かぶのは深華だが、柊が彼女を誘うのは余計に難しそうだ。


「……かなり厳しいだろうが、声をかけてみることにしよう」


 柊も深華もお互いを嫌っている傾向があるのは承知しているようだった。上手くいくかどうかはわからないが、やってみるしかない。


「この紙袋はどうする? 警察に届けるのが無難なんでしょうけど、柊の判断にお任せするわ」


「じゃあ、預かろう。柚原さんと話をするときに現物があったほうがわかりやすい」


「そう、くれぐれも気を付けてね」


 さくさくと話が進み、紅茶を飲み終わるころにはある程度の今後の方針が立っていた。やるべきことが明確だと、やはり行動を起こしやすい。


「真相が明らかになったら、いつか私にも教えてね。一応、巻き込まれてはいるんだから」


「……まあ、機会があれば、な」


 やけに含みを持たせた柊の言い方に違和感を覚えないわけではなかったが、架夜さんは満足したようで紅茶の残りを飲み干していた。








 架夜さんのマンションから出たころには、すっかり日は沈んでいた。思ったよりも長居してしまったものだ。雨はもう止んでいるが、歩道にはところどころ水たまりが残されていた。微かに残る雨の匂いを感じながら、私は柊の隣を歩いた。


「それで、私が殺されたあの日、架夜さんと何を話していたの?」


 柊はどことなく気まずそうに視線を泳がせる。


「大した話じゃないんだが……いつも通り、架夜に復縁を迫られて断ったら、花菜とはどうなんだと聞かれて、架夜には関係ないと言い張ったんだ。それでも架夜は、早いところ決着つけないと、花菜は離れていくとかなんとか言ってたな」


「決着?」


「さあ、なんだろうな」


 柊は面白がるように笑って見せた。たぶん彼は、架夜さんの言わんとしていることに気づいた上で知らない振りをしている。それは私も同じだった。こんなことは何度もあったが、そのたびにお互い、何かを守るように鈍感を装っている気がする。


「ただ、あの日ばかりは架夜は正しかったな。あんなにもあっさり、花菜との日常に終止符が打たれるとは思わなかったよ」


「じゃあ、この毎日は非日常?」


「そうだろうな。死んだ幼馴染が化け猫に憑依してるってだけで、十分、非日常だ」


 間違いない。こんな日々、誰に言っても信じてくれないだろう。私と柊だけの秘密の毎日だ。


「でも、これはこれで楽しいかなって私は思ってるよ」


「花菜が死んでさえいなければ、同感だったかな」


 不意にお互いの手の甲が触れ、どちらからともなく手を握った。胸が高鳴るというよりは、確かに柊がここにいるのだということに心が安らいでいく。深い意味なんてない。手が触れたから握っただけ。それが、私たちの適切な距離感だった。


 これも、あるいは甘酸っぱい青春の一ページなのかもしれない。柊は、いつか永く眠るそのときに、こんな些細な情景を思い出してくれるだろうか。思い出して、楽しかったと微笑んでくれるだろうか。


 変わらない距離のまま、雨上がりの街を行く。金平糖のような幸せを、一粒ひとつぶ噛みしめて、できるならばこのまま二人、どこまでも歩いていきたかった。

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