第25話 追及の始まり

 偶然かもしれない。


 すっかり乾いたシーカの黒いワンピースに袖を通しながら考える。


 偶然、かもしれない。


 結びなれたはずのワンピースのリボンが少し曲がってしまった。しゅるしゅると解き、気を取り直して、もう一度。


 それか、ああいう作品かもしれない。


 悪趣味なご友人の、ちょっとした戯れ。私たちは、それに踊らされているだけ。今度はリボンも上手く結べた。


 鉄のような鼻につくにおいも、セーラー服に滲んだ油のような染みも、ところどころにこびりついた乾いた肉片も、そういう仕様なのかも。


 乱れた髪を手櫛で直して、よく磨かれた鏡と向き合う。いつも通り、溜息の出るような美しいシーカの姿だ。


 それなのに、どうしてこんなにも泣きそうな顔をしているのだろう。






 

 洗面所を出て、リビングへ向かうと、クッションに顔を押し付けるようにしてうずくまる架夜さんと、冷え切った目でセーラー服とナイフを眺める柊がいた。架夜さんの過呼吸は収まったが、まだとても話をできるような状態ではないようだ。


 私は柊の隣に腰を下ろし、彼の視線を辿るようにテーブルの上に並べられたセーラー服とナイフを眺める。セーラー服は紛れもなく、私の通っていた高校のものだった。ご丁寧に校章までついているから間違いはない。この制服は高校に入学した者しか買うことができないので、所有している人はかなり限定的だ。


 もっとも、この血が私のものであるかどうかは定かではなく、私の事件に関係があると言い切ることもできない。ただ、このタイミングでこんなものが出てきた以上、強く疑ってしまうのも無理はないだろう。


 それにしても、とテーブルの上を見やる。所々血痕が付着したままの凶器はサバイバルナイフのような形をしていた。こんなナイフで切り裂かれたら、さぞかし痛いだろうな、と、余りにも他人事な感想が頭を過る。切れ味が鈍そうに見えるのは、既に肉を裂いた後だからなのだろうか。


 柊は何も言わずに、テーブルの上を眺めている。彼が口を開くまで、私も黙っていることにした。今はシーカの姿なのだ。花菜として余計なことを口走ってしまいそうで、それほどまでに私もまた追い詰められていることを知った。


 犯人が決まったわけではないにせよ、やはり、私の知り合いが事件に関わっていた。それだけはもう、揺るぎのないものになってしまった。無差別殺人という推察には違和感を抱いており、それほど信じてはいなかったが、何かの間違いでそうであればいいのにと祈ってはいた。


 溜息のような深い息が、口から漏れ出していく。


 このセーラー服は誰のものだろう。私はちゃんと、病院までセーラー服を着ていた。後処理のために脱がされたりはしただろうが、きっと遺留品として然るべきところに保管されているはずだ。一般家庭であるこの家にあるとはまず思えない。


 そうなると、このセーラー服は、血の量から察するに犯人の着ていたものだろうか。着ていなかったにせよ、犯人の持ちものにはきっと変わりはない。


 先ほどとは一変して、息をするにも苦しいような空気の中、私はじっと耐えていた。この血痕まみれのセーラー服が意図するところを必死に考える。順当にいけば、あの高校のセーラー服を持っていてもおかしくはない、そしてなによりこれを所持していた架夜さんが、事件の時に着ていたという推測になりそうだが、どうも腑に落ちない。彼女のこの動揺ぶりから察するに、架夜さんにとってこの家にこのセーラー服があるのは予想外だったのだろう。自ら、その存在を私と柊に知らしめる理由もわからない。


 その考えには、当然、柊も至っているはずだった。私に思いつくことに彼が気付かないわけがない。だが、彼の口から零れ落ちたのは予想外の言葉だった。


「架夜なのか?」


 架夜さんはクッションに顔を押し付けたまま動かない。泣いているのだろうか、肩が小刻みに震えていた。先ほどの過呼吸のショックからまだ立ち直れていないのかもしれない。


「架夜が、花菜を殺したのか?」


 躊躇いもなく、柊の言葉は鋭く架夜さんに刺さる。余計に彼女の肩が震えだしたような気がした。無理もない。長年の付き合いがある私ですら、この声は少し怖い。表には出ない沸々とした怒りが感じられる。


 再び沈黙が訪れた。誰も何も言わず、時折架夜さんの嗚咽だけが聞こえる妙な空間だ。テーブルの上に並べられた血痕まみれのセーラー服と銀色のナイフに夕暮れの日が差して、異様な存在感を放っていた。


 そうして不意に、ぽつりと言葉は零れた。


「私じゃないわ」


 震えた声で架夜さんは言う。ほんの少しだけクッションから顔をあげた彼女の頬には、涙で髪がへばりついていた。化粧も随分崩れているようで、普段の美しく誇り高い架夜さんからは想像もできない弱りようだった。


「私じゃ、ないの」


 今度はもう少し顔をあげて、柊の瞳を射抜くように見つめる。真っ直ぐに揺らぐことのないその瞳は意志の強さを感じさせる。初めて、本当の架夜さんの目を見たような気がした。


「じゃあ、これは? 説明がつくのか?」


 すかさず問い返す柊にも、架夜さんぶれることなく応じる。


「これに関しては、私は知らない、としか言えないわ。何も心当たりがないの」


 頬にへばりついた髪を取り、弱弱しい声ながらも意志の通った声で架夜さんは続ける。


「それに、柊も私が犯人だとおかしいって気づいているんじゃない? あの日、私たちは十七時半近くまで一緒にいたわよね? 変わり果てた姿の花菜ちゃんが見つかったのは、柊と別れた直後のこと。その私に、花菜ちゃんをあれだけ無残に殺す暇があると思う?」


 次第に普段の調子に戻っていく架夜さんに、私はどこか安心していた。柊もまた、架夜さんから視線を逸らすことなく、真剣な面持ちで彼女の言葉を受け止めている。どうやら、冷静さを失っている柊にとって、架夜さんの強い言葉は効果的なようだ。この際、言い争いでも構わない、彼女には彼と向き合っていてほしかった。


 それと同時に、あの日、やはり柊と架夜さんは一緒にいたのだという事実に胸を締め付けられることも確かだ。私が絶命していく瞬間に、二人は何を話していたのだろう。何よりもそれを、柊が隠していたことに違和感を覚えるばかりだった。

 柊はそんな私の心の内を察したのか、気まずそうに私に視線を送ったのち、軽く息をついた。そうしてぽつりと私に弁明する。


「ほんとに……くだらない言い争いだ。花菜の、ことで。今まで言えなくて悪かった」


「私のこと?」


小さな声だったとはいえ、失言だったと気づく。架夜さんが一瞬こちらを見た気がしたが、幸いにも問い詰められることはなかった。


「……後で話すよ」


 そのほうが賢明だ。私もこの状況下で詩歌を演じられるほどの冷静さが残っていない。柊は小さく微笑んで、重ねた手に少し力を込めた。


「……架夜には無理なんだろうな。架夜が花菜を本当はどう思っていたかなんて知らないが、少なくとも、時間的にはあの犯行は無理だってことはわかるよ」


「少しは冷静になってくれたようで助かるわ」


 架夜さんは乱れた髪を直しながら、ソファーに座りなおす。改めて生々しいセーラー服と凶器を目の当たりにして僅かに表情を歪めたが、先ほどのように取り乱すことはなかった。


「でも、このセーラー服とナイフについてはどう説明するんだ? 知らないって言ったって、架夜の家に置いてあったものなんだぞ。夏条先生が持ちこんだとでも?」


「残念だけど……そうとしか考えられないわ。この家に出入りするのは私と姉さんだけだもの」


 架夜さんは複雑な表情で、受け答えていた。自分の姉が事件に関わっている疑惑が浮上した今、その表情にも不思議はない。


「姉さんなら、もうそろそろ帰ってくると思うわ。折角だから、待ちましょうよ。私も、姉さんが何をしたのか気になるもの」


 警察に行くのはそれからでもいいかしら、と架夜さんは淡々と確認を取る。複雑な心境には変わりはないのだろうが、そういった潔さには好感が持てた。柊も私も異論はなく、夏条先生の帰りを待つことになった。


「お茶でも淹れるわ、一息つきましょう」






 甘い紅茶の香りが、ふわりと漂う。架夜さんの用意してくれたティーカップを両手で支えながら、ぼんやりと窓の外を見やった。先ほどよりも夕暮れの濃さは増して、そろそろ私が殺された時間だろうかと思いを馳せる。本格的な夏に向けて、日は長くなる一方だ。今年の夏は、どのくらい暑くなるだろうか。


 テーブルの上のセーラー服とナイフはそのままに、紅茶を嗜むこの光景は異様ではあったが、ようやく落ち着きを取り戻した気配はある。架夜さんの用意してくれた紅茶は甘ったるいくらいで、かえって頭がすっきりした。


「夏条先生とは、仲がいいのか?」


 世間話というには、あまりにも重苦しい空気感だったが、ぽつりと柊がそんなことを零す。架夜さんは紅茶を一口口に運んで、軽く息をつくように受け答えた。


「一緒に暮らしているくらいだもの。悪くはないわ」


 架夜さんの視線が、リビングに飾られた夏条先生の絵に移る。


「いい姉だと思う。私の話をよく聞いてくれるし……柊のことも相談に乗ってくれたのよ」


 彼女は柊をからかうように微笑む。柊は何も言わずに彼女から視線をそらした。


「……私にも、相談してくれたらよかったのにね」


 寂し気なその言葉は、架夜さんの本音なのだろう。仲の良い姉妹なら、そう思うのも自然なことなのだろうか。私には、姉妹愛はわからない。


「ところで、詩歌ちゃんは花菜ちゃんとは面識があったの? その様子じゃ、事件のことは知っているみたいだけど」


 私のことをほとんど何も知らない以上、彼女がそう言うのも無理はなかった。一見すれば、ただの部外者だ。


「ええ、面識はありました。小さいころ、たまに遊んでもらっていたので」


「幼馴染ってことね」


「まあ、そんなようなものです」


 適当に微笑んで、何とか場を凌ぐ。ここまでこの事件に関わっている以上、そこそこの関係性でなければ怪しまれるだろう。


「柊ったら、両手に花の幼少時代を送ったのね。道理で私に見向きもしないわけだわ」


「よく言うよ」


 柊はふっと笑ってみせた。冗談めかした架夜さんの発言は、思ったよりも場の空気を軽くしたようだ。これから、事件の最重要人物となるかもしれない夏条先生を迎え入れるにしては和やかな空気感に、私も少し気が緩む。


 少しぬるくなった紅茶を口に運んで、息をつく。ちぐはぐな関係性の三人だが、心強く思った。この三人なら、どんな真相が明かされようとも耐えられるような気がする。

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