第24話 真実の始まり
きれいに磨かれたシャワールームを出て、用意された白いバスタオルで体を拭く。自分の家とは違う柔軟剤の香りがふわりと漂って、ここは他人の家なのだと改めて思う。洗った髪からも、慣れない甘い香りがした。
シーカの白い肌を長いこと見つめるのも気が引けるので、さっさと服を身に着けた。架夜さんが用意してくれたのは真っ白なワンピースで、シーカの身長には少し丈が長いようだ。
洗面所に置かれた洗濯機では、先ほど濡れてしまったワンピースを洗っているようだった。乾くまでにはまだ時間がかかるだろう。私はタオルを肩にかけて、架夜さんの待つリビングへと向かった。
架夜さんの家は、大学生が暮らすにはかなり広いマンションだ。話を聞くと、社会人のお姉さんと一緒に暮らしているらしい。私には到底考えられない仲睦まじさに、こんな姉妹もいるのか、という感想しか抱けない。ただ、手入れの行き届いた部屋や、花瓶に飾られた花を見るに、架夜さんはお姉さんと共に充実した毎日を送っているようだった。
リビングでは、架夜さんが柔らかそうなソファーに座ってテレビを見ていた。テーブルの上には、お皿に乗ったクッキーが置かれている。
「シャワー、ありがとうございました」
そう声をかけると、彼女はこちらに向き直り端正に微笑んで見せた。
「いま、お洋服も洗ってるからね」
架夜さんに促されるままにソファーに座り、一息つく。「紅茶でいいかしら」という彼女の問いに返事をし、テレビの画面をぼんやりと見つめた。時刻は、柊との待ち合わせ時間の午後二時をちょうど過ぎたあたりで、お昼の報道番組をやっていた。この時間の番組を見るのは、長期休暇の平日くらいなもので、私にはあまり馴染みがない。
ほどなくして、花の模様があしらわれたティーカップが差し出された。香りで種類を当てられるほど紅茶に精通しているわけではないので、何も言わず黙って頂くことにした。お砂糖の甘さをかなり感じる。
「お砂糖、足りなかったら足してね」
架夜さんは、優雅としか言いようのない仕草で紅茶を嗜んでいた。見てくれは、本当に美しい人だ。感情が見えてこない分、どことなく不気味ではあるのだが。
「あの、柊には――」
連絡してくれたかと言い切る前に、遮るように架夜さんは笑う。
「もちろん、連絡しておいたわよ。もうすぐ来るんじゃないかしら」
ありがとうございます、と小さく零して、紅茶を口に運んだ。「クッキーも食べてね」と架夜さんはお皿を引き寄せてくれる。
「このクッキー、おいしいのよ。姉さんが海外に行った時のお土産なんだけれどね」
架夜さんのお姉さんとなれば、さぞ美しい人だろう。そんな無粋な推測をしてしまうくらいには、私は、柊に見初められた架夜さんの美貌を、心の隅で妬んでいるのかもしれなかった。
勧められた通りにクッキーを食べ、架夜さんと二人きりというこの気まずい状況の突破口を探している。もっとも、架夜さんはそんな私の心の内などまるで気づかないように紅茶とクッキーを楽しんでいる。テレビから流れだす音声だけが、救いのような気がしていた。
「それで、詩歌ちゃん。あなた、柊とどんな関係なの? 友だち、という雰囲気でもなかったわね」
ついにこの質問が来たか。私はティーカップを置いて、視線を伏せた。どう答えれば、彼女の機嫌を損ねないだろう。
「私は……柊の妹のようなものです」
数秒間迷って捻りだした答えは、結局、いつも通りの苦しいものだった。架夜さんはまるで納得がいかないとでもいうように、しばらく私を見つめていたが、軽く息をついて微笑んで見せた。
「……柊の傍にいられるあなたが羨ましいわ」
ぽつり、と架夜さんには似合わぬ素直な言葉が零れ落ちた。彼女が今も柊を想っているのかは定かではないが、気にかけてることは確かなのだろう。
彼女に、なんと返せばよいのかわからない。何も言わないのが正解のような気もしていた。綺麗な笑みに感情を隠してしまうだけで、彼女も普通の女の子なのだ。
紅茶を飲みほしたところで、妙に沈黙が気まずくなってしまう。架夜さんは感傷に浸っている様子で、こちらから話題を変えなければ場の雰囲気は重いままだ。
「あの絵、綺麗ですね」
壁に掛けられた横幅一メートルほどの大きな風景画に目を止めた。油絵だろうか。重厚なタッチで描かれていた。ちゃんとした批評はできないが、色遣いが独特で目を引くものがある。
「ありがとう。あれ、姉さんが描いたものなのよ」
「画家さんなんですか?」
「昔は画家になりたくて、海外に留学していたのだけれど……諦めちゃったみたい。でも、今でもお休みの日には描いたりしているのよ。よかったら他のものも見てみる?」
「いいんですか」
架夜さんは微笑みながら頷くと、すっとソファーを立ち上がった。このまま、柊が来るまでお茶をするより、絵を見せてもらったほうがずっと気楽だ。
「ここが姉さんのアトリエ。……なんていうほど立派なものではないのだけれど」
廊下に並んだドアのうちの一つが、どうやらアトリエのようだった。いたって普通の部屋だが、家具はなく、代わりにキャンバスや絵描き道具が散らばっていた。美術室の匂いがする。
描きかけの絵が、部屋の中央に立てられており、壁際には完成したらしい絵がいくつか並べられていた。その絵の近くには、紙袋や壺が並べられており、彫刻や陶器のようなものが顔を出していた。本当に、小さな美術室のようだった。
「素敵ですね。見てまわってもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
「お姉さまは、昔から絵がお好きなんですか?」
「そうね。大好きだったと思う。でも、両親が厳しくて……」
架夜さんは屈みこんで完成した絵に触れた。私もつられてその隣にしゃがみ込む。
「画家など食べていけないから、といって散々勉強させられていたわ。それも親の思いなのでしょうけれど……」
「……そうなんですね」
夢を語りづらい時代に生まれた私たちには、よくあることだった。何も考えずに、呑気に夢を語れたのは小学校低学年くらいまでのもので、中学生にもなれば、いつの間にか「夢」は「いい大学に入ること」に書き換えられている。
私は、何になりたかったのだろう。重なった色彩にそっと触れながら、ぼんやりと考えを巡らせる。きっと何かしら思い描いていたはずなのに、もう思い出すことも叶わないほど、記憶の奥底に封じられていた。
ふと、絵の右下にサインが入っていることに気が付いた。筆記体で、走るように書かれている。
「やえ……」
一文字ずつなぞりながらゆっくりと追っていく。現代には珍しい古風な名前だと思った矢先、その先の文字にどくんと心臓が跳ねた。
「夏条……?」
架夜さんはふふっと笑って、私と同じようにサインをなぞる。
「珍しい名字でしょう。まあ、訳あって、私は夏条ではないのだけれどね」
夏条先生のフルネームなど気にしたことはなかったが、「
夏条先生は架夜さんのお姉さんだったのか。言われてみれば、その美貌も、よく通る綺麗な声も似ている部分は多い。想い人に対する直球な姿勢も似通っている。姉妹だと言われれば、納得する部分は山ほどあった。
ふと、インターホンの音が家中に鳴り響く。しゃがみ込んでいた架夜さんは、長い髪を耳にかけて廊下のほうを見やった。
「来たみたいね、出てくるわ」
そういって部屋を後にする架夜さんをよそに、私は改めて部屋の中を見回した。この絵は、夏条先生が描いたのか。そう思うと一気に親しみが湧いてくる。見慣れないこの景色は、海外で見たものなのだろうか。そのとき私の父は、夏条先生の隣にいただろうか。先ほどまでとは比べ物にならないほどの想像力が働いていく。
廊下のほうから、早速、何やら言い合う声が聞こえてきた。そうして駆けるような足音がこちらに近づいてきたかと思うと、この小さな美術室に柊が飛び込んできた。
「詩歌! 大丈夫か?」
ここまで走ってきたのか、肩を上下させている。上着には、雨が染みこんでいるようだった。
「ちょっと、柊。濡れたままだと風邪をひいてしまうわよ。せめて上着くらいは脱いだらどうなのかしら?」
柊はそんな架夜さんの呼びかけを無視して、しゃがみ込む私に視線を合わせるように私の前に屈みこんだ。悲痛そうな表情からして、またしても彼に余計な心配をかけてしまったようだと反省する。
ごく自然な仕草で、柊の冷たい手が私の手を取る。
「災難だったな。心細かっただろうに」
「平気だよ。架夜さんはとても親切にしてくれたもの」
「言い方を変えるわ。柊、床が濡れちゃうからその上着を脱いで頂戴」
架夜さんが、腕を組んで再度柊に呼びかける。不器用だが、これでも彼女なりに心配しているのだろう。柊はため息交じりに上着を脱ぎはじめた。
「こういうのは、お節介っていうんだぞ」
「あら、そんなこと初めて言われたわ」
架夜さんは柊の上着を受け取ると、すぐに部屋を出て行った。私の服と一緒に乾かしてくれる気なのかもしれない。やはり今も、柊に対する想いは生きているのだろう。
「あいつ、絵なんて描くのか」
ぽつり、と柊の呟きがこぼれる。架夜さんのことを「あいつ」呼ばわりする距離の近さに、心の奥がちくりと痛む気がした。
「架夜さんのお姉さんが絵を描くんだって」
「姉がいるのか」
本当に付き合っていたのかと疑いたくなるほど、柊は架夜さんのことを知らないようだ。柊がきちんと架夜さんに向き合っていれば、思いのほか親しくできたかもしれないのに。柊はきっと、柊に対する素直な想いを零す、架夜さんの横顔を知らないのだろう。
「架夜さんのお姉さん、夏条先生みたいだよ。ほら、この絵の隅にサインが」
「……驚いたな。あの二人が姉妹とはね」
柊は言葉通り、それなりに戸惑っているようで、いましがた聞いた新事実を確かめるように、夏条先生のサインを見つめていた。
「そんなに姉さんの絵が気に入ったの?」
再び戻ってきた架夜さんが私たちの隣にかがみこむ。この三人で、絵を鑑賞するなんて想像もし得なかったことだ。
「知らなかったよ、夏条先生の妹だったなんて」
「あら、サインだけで姉さんのことに気づくなんて、流石ね」
楽しそうな架夜さんとは裏腹に、柊はあくまでも冷静だった。この二人は、付き合っているときもこんな調子だったのだろうと、容易に想像ができてしまう。これはこれで、心地の良い距離感というものなのだろうか。
「二人のお洋服、乾かしているからあと一時間くらい待ってね。お茶でも淹れようか?」
「俺はいい」
「相変わらず、つれないわね」
夏条先生の絵から目を離そうとしない柊の横顔を、架夜さんは愛おしそうに見つめていた。架夜さんが柊を想う気持ちはきっと相当なもので、彼女がどれだけ他の感情を上手にしまい込もうとも、その想いだけは隠しきれていない。
もしかするとこの二人、今からでもうまくやっていけるのではないか。柊を支えてくれる人は多いに越したことはない。
だが、心の中はそんな綺麗な考えだけで埋まるはずもなかった。私にはもう立ちえない場所に、架夜さんはいる。この先も彼のそばで他愛もない会話をしたり、笑いあったりできるのだ。
羨ましい。
ただ、その気持ちだけで一杯になる。幽霊の私には、最早、どうすることもできないのに。生きている二人に嫉妬するなど、いよいよ悪霊じみてきたものだ。
「個展を出したりはしてないのか」
柊は夏条先生の絵が余程気に入ったのか、それとも沈黙を埋めるためなのか、そんなことを口にした。
「あら、やっぱり姉さんの絵が気に入ったの?」
自分のことを褒められたわけでもないのに、架夜さんはとても嬉しそうだ。柊が直接架夜さんを褒めたりしたら、一体どんな表情をするのだろう。そんなことばかり気にかかる自分が嫌になった。
「でも、残念ながら出してないわ。時折、美術関係の友だちと交流があるくらいで。ほら、そこの部屋の隅の彫刻とかは、お友だちからもらったものらしいわ」
架夜さんはそういうと、紙袋や彫刻が置かれているほうへと歩み寄る。
「何か面白いものあったかしら……」
どうやら、架夜さんなりに、私たちを持てなそうとしてくれているようだ。感情表現や愛情表現が不器用なだけで、根は悪い人ではない。私が彼女を苦手だと感じていた要因は、本当はもっと違うところにあるのではないだろうか。私と柊が築き上げてきた絶妙な距離感を乱そうとする彼女が目障りで、それでいて想いを叶えるために一歩踏み込める彼女の強さが羨ましく思えて、「苦手」なんて言葉で片づけていたのではないだろうか。
私は、何て浅ましいのだろう。自分の都合のいいように、自分の感情の理由までも捻じ曲げていた。綺麗な笑みで感情そのものを隠してしまう架夜さんより、下手な嘘をついて感情を捏造する私の方がずっと質が悪かった。
柊の心配そうな視線が視界の隅に映った気がして、軽く深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。今ここで自己嫌悪に陥っていても仕方がない。完全に消えてしまう前に、自分の醜さに気づけただけでも儲けものだ。
「この彫刻なんか、とてもユニークね。詩歌ちゃんは、学校でこういうもの作ったりする?」
そういって架夜さんが手にするのは、木でできた小さなオブジェだった。確かに凡人にはわからないセンスで、何を模しているのかさえ私にはわからなかった。
架夜さんは次々と、彫刻や絵皿などを見せてくれた。暇つぶしにはちょうど良く、私も柊もそれなりに楽しんでいる。和やかな空気というには、私たちの間には様々な壁がありすぎたが、それでも息をするには何ら問題のない空気感だった。お互いを殺人者呼ばわりするような皮肉を言ったかと思えば、こんな風に何でもないように過ごせるとは、この二人も妙な関係だ。
「次は……」
ふと、新しい紙袋を手にした架夜さんの表情が凍り付く。それほど滑稽な作品があったのだろうか。架夜さんにそこまでの表情をさせるものには多少興味が湧いた。
だが、架夜さんはそのまま黙り込んでしまう。大きな目を見開いて、その横顔は茫然としているようにも見えた。
「随分ともったいぶるんだな」
柊がからかうように笑うと、架夜さんがびくりと肩を震わせる。皮肉を言うときも世間話をするときも、一貫して毅然としている架夜さんが狼狽えているのが目に見えて分かった。
「どうかされたのですか……?」
流石に違和感を覚えて、彼女のほうへ歩み寄る。何が起こったのか予想もつかないだけに、妙に不安ではあった。
「駄目っ」
ほとんど叫ぶような形で彼女は紙袋を抱きしめると、私から遠ざかる。壁に背を預けて、泣きそうな顔でこちらを見ていた。
「……どうしたんだ?」
彼女の豹変ぶりに、柊でさえ戸惑っているようだった。怪訝そうな顔をして、架夜さんとの距離を詰めていく。
「やめて、来ないで」
「何があった。嫌なものでも入ってたのか?」
「駄目、お願い、もう帰って」
懇願するような震える声は、架夜さんには相応しくない。よく見ると紙袋を持つ彼女の手は震えていた。
「架夜さん……?」
「架夜、落ち着け」
柊はいたって冷静に、彼女をなだめようとしている。架夜さんは子供のように首を横に振りながら、彼から逃れようとしていた。だが、その行動とは裏腹に、彼女の目だけは彼に助けを求める、縋るようなものだった。柊もまた、それを見抜いているのだろう。冷静に声をかけながら彼女との間合いを詰めていく。彼が架夜さん持つ紙袋に触れるまでに、そう時間はかからなかった。
「架夜、大丈夫だから。まず、その紙袋を渡してくれ」
彼女を怯えさせている原因がその紙袋であることは火を見るよりも明らかだが、そこに何があるというのだろう。ただならぬ緊張感に、シーカに借りたこの体も脈が早まっていた。
ついに零れ落ちた涙と引き換えに、架夜さんは紙袋を手放し、その場に崩れ落ちる。そのまま嗚咽を漏らし、肩を上下させていた。呼吸が浅くなっていくのを見て、慌てて彼女の傍に寄り添い背中をさする。
「落ち着いてください、架夜さん」
あれだけ自分を持っている彼女がここまで取り乱すなんて、何があったというのか。私は彼女の背中をさすりながらも、紙袋を手にした柊を見上げた。
見上げた先で、彼は紙袋の中身と対峙しているようだった。至って冷静な彼の目が、陰っていくのが見て分かる。彼は、私の葬儀の時のような暗く沈んだ瞳で、やがて私に視線を移した。思わず、息を呑む。
「柊、いったい何が……」
柊が、何も言わずに紙袋を手放すと、ごとり、と鈍い音を立ててそれは床に落ちた。その拍子に中身が垣間見える。
赤茶色の染みが付いた、白い布。そのうえで鈍く輝く銀色。
息が、心臓が、止まる。
そんな錯覚を覚えるほどに、私は取り乱していたのだろう。過呼吸気味な架夜さんを置き去りに、私はその紙袋に手を伸ばし、夢中で中身を取り出した。
血痕だらけのセーラー服。
切れ味の悪そうな、銀色のナイフ。
小さな美術室には、架夜さんの嗚咽だけがいつまでも響いていた。
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