第23話 雨空の始まり
翌朝は、どんよりとした雨空だった。私のすぐ隣では、黒猫姿のシーカが丸くなって眠っている。艶のある毛並みをそっと撫でた。温度は分からなくても、息遣いから確かにここに命があることを感じる。ソファーでは着替え終わった柊が、穏やかな面持ちでこちらを眺めていた。私もそっと微笑み返す。こんな朝にも、もう随分と慣れてきたようだ。
「おはよう、柊」
「もう少し眠っていてもよかったのに」
「私は十分に休めたよ。シーカは……まだみたいだけど」
私の姿をとどめてくれているうえに、依代になっている分、疲れが溜まっているのだろう。言わないだけで、かなりの負荷をかけているに違いなかった。申し訳ないとは思いつつも、彼女に頼らざるを得ないのが現状だ。せめて、気のすむまで眠らせてあげることしかできない。
「今日は、いつ頃大学終わるの?」
「昼過ぎかな。午後二時くらい」
「じゃあ、お散歩もかねて柊の大学に迎えに行くね」
今日は茶道部の活動もない。午前中に夏条先生やクラスの様子を確認して、リハビリがてら大学まで歩こう。昨日の今日で夏条先生がどんな様子なのかは、正直気になるところだった。
「でも、雨だぞ。大変そうだ」
「シーカもいるし、平気だよ。それに毎日憑依させてもらわないと、感覚を忘れてしまいそうで怖いの」
実際、シーカに憑依することでしか、私は何に対しても干渉することができない。シーカに憑依することでしか得られない感覚に、毎日触れておかないといよいよ世界から切り離されたような気持になってしまいそうだった。
「感覚を忘れる?」
そういえば、柊にちゃんと伝えたことはなかったと今更ながら思い出す。妙に不安げな柊に私は慌てて弁明する。
「最近、この姿でいるとき、空腹感や温覚なんかをほとんど思い出せないの……。でも、そんなに深刻なことじゃないよ。生きている体を失ってしまったんだもん。当然のことだよ」
柊は愁いを帯びた表情のまま、ソファーから立ち上がると、こちらへ歩み寄ってきた。そうしてシーカの背を撫でる私の手に触れる。
「この感覚は?」
温かさこそ感じなかったが、確かに触れられているという感触はあった。もう一方の手を私に触れた柊の手の上に重ねて、一層その存在感を感じ取る。今日も確かに柊はここにいてくれているのだ。
「感じるよ。昔と変わらない、柊の手だね」
そっと笑いかけると、柊の表情が柔らかくなった気がした。私に存在を認識されなくなることを恐れていたのだろうか。そんなこと、きっと私のほうがずっと怖いと思っているというのに。
「よかった。安心した」
私と柊に触れられて重かったのか、シーカが少し身じろぎをする。こうして見るとただのかわいい黒猫だ。無防備な姿に癒される。
「かわいいな、シーカは。黒猫の姿でも、美人さんだよね」
「得体は知れないけど、確かにかわいいかもな」
柊もそっとシーカの黒い毛並みを撫でる。自然と口元はほころんでいた。生き物は嫌いなほうではないのだろう。小さなものを可愛がる柊を見ていると、なんだかこちらまで温かい気持ちになった。こんな優しい柊の姿を、架夜さんや深華に見せたかった。そうすれば、彼女たちも柊を殺人者呼ばわりなんてしないだろうに。
そうこうしている間に、柊が出発する時間が迫ってきた。身じろぎはしたものの、シーカが目覚める気配はない。
「私は、シーカが起きてから出発するから柊は先に行って。午後、柊の大学で会おう」
「わかった。気を付けるんだぞ」
そういって柊は、テーブルの上に黒い折り畳み傘を置いた。
「これくらいならシーカも猫の姿のまま運べるだろう。憑依したら使うといい」
「ありがとう、助かるよ」
それじゃあ、またあとで、と挨拶を交わし、柊は部屋を出て行った。階下からは今日も、柊を案ずるご両親の声が聞こえる。柊が元通りの笑顔を取り戻せる日は来るのだろうか。犯人を見つけることが、その助けになるとよいのだが。
柊がいなくなった部屋には、先ほどよりも大きく雨音が響いていた。彼の存在感は大きい。主不在の部屋は本当に物寂しく見えるものだ。私はシーカの背中を撫でながら、これから始まる一日について思いを馳せた。恐らく限りのあるこの日々のことを思うと、少しでも進展があることを願うばかりだ。
「今日の花菜ちゃんは、ご機嫌斜め?」
シーカが目を覚ましたのは柊が家を出てからしばらくたった後で、家を出る頃には昼近くになっていた。雨空を二人で歩きながら、シーカは私の顔を覗き込む。
シーカが目覚めるまでの間、私は悶々とこの日々の終わりについて考えていた。それを、彼女にどう伝えたらいいのだろう。私をこの世に留めてくれているのは彼女張本人だというのに。
「最近、いろんな感覚を忘れ始めているの」
戸惑いながらも、何とか言葉を紡ぎだす。彼女はそっと耳を傾けてくれていた。
「空腹感とか、温かさとか、他にもいろいろと……。なんだか、このまま私自身も消えてしまいそうで焦ってしまって……」
シーカはじっとこちらを見つめていた目を伏せて、考えるような素振りを見せた。いつもよりも真剣な面持ちだ。
「感覚が、無くなりはじめてるのか……。でも、柊くんに触れた感覚はあるんだよね?」
「それは、はっきりと」
「それなら、大丈夫かな」
シーカはにこりと笑って見せた。
「お腹がすいた、とか、あったかいっていう感覚を忘れていくのは、ある程度仕方のないことなんだ。花菜ちゃんは、もう生きてはいないから……」
「そう、だよね」
分かっていたことを改めて突き付けられると、心の奥がちくりと痛んだ気がした。紛れもない事実だ。私の存在はもう、非現実なのだから。
「でも、柊くんに触れられる感覚があるってことは、私の力が弱っているわけではないと思うんだよね。確かに、疲れて長く眠ってしまうことはあるけれど……。でもそれも、心配には及ばないよ。私がいる限り、花菜ちゃんが消えてなくなるようなことはないからね」
私よりも年下に見えるこの少女が、妙に頼もしく思えた。私を幽霊にしてくれた彼女が言うのだから、間違いはないのだろう。すっと心が軽くなるようだ。
「ありがとう、シーカ」
「とんでもない、命を……与えてくれたお礼だよ」
「与えるだなんてそんな。救っただけなのに」
「今の私にとっては、与えるのほうが正しいんだよ、花菜ちゃん」
意味ありげに微笑んだ彼女は、随分大げさな表現をする。十年も前のことをここまで恩義に感じてくれているとは彼女も律儀な人だ。
「それにしたって、感覚を忘れていくのは寂しいよね。私にたくさん憑依して、おいしいものいっぱい食べて、夏の暑さに触れていいんだよ。遠慮なんか、全然いらないんだから」
「シーカは優しいね。じゃあ、今日もお言葉に甘えちゃおうかな」
「大歓迎だよ」
シーカは軽やかに水溜まりを避けながら笑う。確かにいつもよりは歩くのに気を使いそうだが、雨の感覚を忘れずに済むのならこれも悪くない。
公園のベンチでシーカに憑依した私は、黒い傘をさして大学へ向かっていた。黒い服に黒い傘なんて、まるで葬儀にでも行くような格好だが、シーカの美しさはそのような陰気臭さとは無縁だ。生前の私が同じ格好をしたらこうはいかないだろう。
激しい雨ではないが、朝からずっと降り続いているせいか街中にも大きな水たまりがいくつもあった。気を付けて歩かなければ、車に水を跳ねられてしまいそうだ。
雨の匂いがどこまで歩いて行ってもまとわりつく。この香りはどうしようもなく私を惨めな気持ちにさせた。奈菜は今もあの人や病院の人たちの手に、雨に濡れないよう身も心も守られているのだろうと思うと、羨ましくてどうしようもなくなる。奈菜のことなんてどうだっていいと思っているはずなのに、感情を抑制するのはいつだって上手くいかないものだ。
公園を抜け、大学が面している大通りを目指す。シーカの服や靴が濡れないように細心の注意を払いながら歩いていると、ふと、太った三毛猫が目の前を横切るのが分かった。
思わず足を止めて猫のほうを見やると、向こうもまたこちらを見つめている。シーカよりもだいぶ年を取った猫なのだろう。大きな体をぶくぶくと太らせて、ふてぶてしい眼差しでじっとこちらを観察していた。どちらかといえば、不細工な猫だ。
しかしながら、美しくもないその猫から、どうしても視線を逸らすことができなかった。猫もまた、雨に濡れるのも厭わずに私との距離を保っている。こちらを警戒している風ではなかった。
「この度は、気の毒にな」
それは、およそ私の知りうる言語ではなかったが、怖いくらいにすんなりと意味が伝わってきた。そして、その声の主が、おそらくこの三毛猫であるという突拍子もない推察も、不思議と受け入れてしまう。驚くほど、私の心のうちは冷静だった。
「私の友人も、ひどく悲しんでいたよ」
胸の奥に直接振動が伝わるような、深くゆったりとした声だった。畏怖の念すら抱かせる。
この猫は、シーカと同じ化け猫の類だとかいうものなのだろうか。驚いていないと言えば嘘になるのだが、彼の存在を受け入れることにそれほど抵抗はなかった。
傘に当たる雨音が、私と猫の静寂を打ち消していく。何か声をかけようにも、言葉が出てこない。気の毒だという言葉からして、シーカの中の私の存在を見抜いているのだろうが、彼は私の何を知っているのだろう。
「予定不調和の命とは、よく言ったものだな――」
その瞬間、冷たい水が足や背中に飛び散った。振り返ると、どうやら車に泥水をはねられたらしい。すぐに停車した車内から運転手が降りてくる。
「ごめんなさい! 水たまりを見落としていて……」
どこか覚えのある女性の声を聴きながら、私は三毛猫のいたほうへ向き直った。だが、そこには最初から何もいなかったかのように、小さな水溜まりがあるだけだった。ほんの一瞬で逃げてしまったらしい。最後に言いかけていた言葉が妙に気になって仕方がない。もっと話を聞きたかったのに。
「大変、ワンピースがびしょぬれじゃない」
三毛猫を諦めて、運転手に視線を移す。聞き覚えのある声だと感じたのは、どうやら間違ってはいなかったようだ。ビニール傘をさし、鞄からハンカチを取り出した彼女とぴたりと目が合ってしまう。
「あら、あなた、柊の……」
傘から滴り落ちる水滴が、彼女の紫陽花のような淡い色のカーディガンに、ぽつりぽつりと染みをつくる。
「大切な人、だったかしら?」
大槻架夜。この人には今は会いたくなかった。いつかの昼下がりに交わした会話、醜態ともいえるべき私の遺体を見られていたこと、あの事件の日に柊と会っていたこと、彼女にまつわるすべてが、私の心を重くする。
「詩歌、といいます」
声を絞り出すようにして、何とか場をつなげる。何度も嫌味のように、「柊の大切な人」などと呼ばれるのはたまらない。
「そう、詩歌ちゃん」
架夜さんはハンカチを持った手で、私の濡れた髪や肩を拭き始めた。その仕草は、とても丁寧で、彼女に潜む歪んだ部分や敵意などは感じられない。
「私、大槻架夜っていうの。柊の高校時代の同級生。この間はちゃんと自己紹介できなくてごめんなさいね」
架夜さんは私の着ているワンピースの状態を確認するように、私の姿をじっと観察している。ワンピースはもちろん、シーカの白い足にも砂のようなものがべったりとついていた。
「かなり水を跳ねてしまったみたいね……。本当にごめんなさい。私の家、すぐ近くにあるのだけれど、よかったら来てくれないかしら。そのままでは、風邪をひいてしまうわ」
妙に親切な架夜さんと対峙するのは、なんだか居心地が悪かった。彼女の胸の奥に渦巻く見えない感情を思うと、彼女の誠実な対応は一種の装飾品のようなものなのではないかと思ってしまう。
「そんな、大したことじゃないですし……」
私一人で彼女の家に乗り込むのは、あまりにも気が重い。シーカのことを思えば、彼女の言葉に甘えるのが最善策なのだろうが、どうしても躊躇ってしまった。
「それに、このあと用事があって……」
柊との待ち合わせまで、あと一時間を切っていた。架夜さんの家に行っていてはとても間に合わない。
「どこかへお出かけするの?」
「いえ、柊と待ち合わせているんです」
「あら、相変わらず仲がいいのね。でもそれなら、何の心配もいらないわ。私から柊に連絡を入れてあげるから」
強引さを感じさせる畳みかけを受け、言葉に迷ってしまう。柊の名前が出た途端、彼女は私の苦手な架夜さんに変わる。
「そんな、ご迷惑ですし……」
「大丈夫よ。さあ、車に乗って? あなたとはもっとお話をしてみたいと思っていたし、ちょうどいいわ」
どうやらこの調子では、このまま私を逃してくれることはなさそうだ。濡れたワンピースの冷たさと架夜さんの強引さを前にして、抗う気力もなくなってしまった。
わかりました、と彼女の車に乗り込みながら、気づかれないよう軽く溜息をついた。柊に連絡がいけば、間違いなく彼は私を迎えに来るだろう。きっと叱られてしまうに違いない。そう思うと余計に気が重くなって、たった五分ほどのドライブで酔ってしまいそうだった。
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