第22話 追跡の始まり

 夕暮れ時の街は、今日も喧騒に包まれている。夕焼けが街明かりに搔き消されていく様は、ひどく不快で美しかった。この時間帯は当然ながら駅周辺は大変な混雑で、夏を思わせる熱気に、人の香りがやたらと混ざりこんでいるような気がしてならない。


 シーカに依代になってもらった私は、黒ワンピースの美少女の姿で柊の隣に立っていた。重力にもだいぶ慣れたようで、悪霊生活も様になり始めている。


「駅前って言ってもな……」


 柊が人込みを見渡して、溜息をつく。柊には、昼間見聞きしたことをすべて伝えてある。架夜さんのことについては流石に怪訝そうな顔をしていたが、ひとまず、先生と父をつけることになったのだ。


 一応、高校から出てきた夏条先生を追う形で付けて来てはいるのだが、帰宅ラッシュの人混みの中では時折見失ってしまう。待ち合わせ場所が分からない以上、私たちは必死に目を凝らして夏条先生を追う他に無かった。


 きっと、父と夏条先生の間には「駅前」で十分なのだろう。そのことが、これまでも何度か待ち合わせをしてきた証のように思えてならない。






 懸命な追跡の結果、私たちは先生と私の父が落ち合う場面に居合わせることが出来た。教師らしいワンピース姿の先生は昼間と同じ服装であるはずなのに、なぜだか今のほうがずっと美しく見える。これがいわゆる恋の力なのか、と吐き気にも似た気持ち悪さをまとう推察をしてしまった。


 そのまま、駅前に立ち並ぶ高級店でディナーなどという流れになったらどうしたものかと思ったが、幸いにも二人はコーヒーを売りにするチェーン店に入っていった。おしゃれな雰囲気と豊富な種類の飲み物が若者に支持を得ている人気店だ。これ幸いと、私たちも後に続いた。


 二人はコーヒーを注文して、小さなテーブルをはさんで向かい合って座っていた。私たちはその様子を、隅の席からキャラメルのドリンクを片手に窺う。二人にばれても、この店なら若者同士のデートで十分言い訳が付きそうだ。


 ここから先生と父の座る席までは、通路を挟んで二メートルくらいだ。かなり近いのだが、カップなどを片付けるダストボックスが間にあるおかげで注意しなければこちらのことには気づきそうにない。逆に言えば、注目さえすれば表情も会話も何とか聞き取れそうな距離だった。


「突然来てもらって済まない」


「私も会いたかったところです。声をかけていただけてうれしいわ」


 会話を進める先生と父の声のトーンには明らかな違いがあった。先生の声は、いつもの落ち着いた印象とは違い、華やいだものだ。昼頃はあれほど疲れたような顔をしていたのに、うまく切り替えている。一方で父の声は、聴きなれていない私でも分かるほど哀愁の影を思わせるものだった。


「それで、今日はどんなご用事で?」


「もうすぐ向こうへ戻るんだ。その前に、花菜の学校での様子を……覚えている限りで構わないから教えてくれないか。花菜は、楽しそうに過ごしていただろうか」


 いきなり私の話題が出てくるのは予想外だ。柊と顔を見合わせ、一層二人を注意深く観察する。


 夏条先生は、拍子抜けしたような様子だった。何か別な話題を提示されることを望んでいたのだろうか。


「警察や学校にも散々聞かれてうんざりするのはわかっている。でも、できれば君の口から聞きたいんだ。花菜の担任だった君に」


「うんざりだなんて、とんでもありません。ただ……花菜さんのことを思い出してしまうので悲しくなってしまうだけです。でも、お話しますわ。私の知っていること、全部を」


 夏条先生は、目を伏せなが笑んで見せた。澄んだ水に、青い絵の具が一滴、染み渡っていくような笑みだった。







 その後、三十分ほど、先生は私のことを話し続けた。茶道部のこと、クラスのこと、深華や千夏の話、そして柊の話までも。その話の中に、何一つ嘘はなかったが、あまりにも私のことを知りすぎているようにも思えた。ただの担任教師としては、不自然なほどに。


「君は、花菜のことをよく見ていてくれたんだな」


 その不自然さを感じ取ったのは父も同じだったようで、ぽつりとそんなことを呟いた。夏条先生は、美しく含みのある笑みを見せる。


「だって、橘さんのお嬢さんですもの。自然と目が向いてしまいます」


 あまりにも意味深長な言い方に、思わず息を飲む。これで何も感じ取らなければ、父は鈍感にもほどがある。私と柊は、息を殺して父の返答を待った。


「……君が花菜の担任でよかったよ。本当に」


 父は曖昧な笑みを見せると、コーヒーを口に運んだ。そのコーヒーはブラックなのか、それとも砂糖やミルクが入っているのか、そんなことすらも私は知らない。それでも私の半分は、この人からできているのだと思うとやはり妙な気持ちだ。


「橘さんは、今後、どうされるんですか?」


 優雅な仕草でコーヒーを口に運んで、夏条先生は尋ねる。穏やかで完璧な微笑みを崩すことはない。


「近いうちに、こっちへ戻ってくるよ。花菜のことももちろん、奈菜のことも妻と話し合わなければならない」


「奥様と……」


 先生の微笑みが、僅かに歪むのが分かった。先生が、私の父に好意に似た感情を抱いているのであれば、ごく自然な変化にも思える。私だって、父と母が再会することには正直驚いている。もう何年も連絡を取り合っていなかった夫婦が、いきなり私たちのことについて話し合うというのか。どうにも想像しがたい光景だ。


「話を、聞いてくれればいいがな」


「橘さんは、今も奥様を愛しておられるのですか?」


 あまりにも直球な質問に、思わず息を呑む。一瞬の間が、二人の間を走り抜けた。


「難しい質問だ。ただ一つ言えるとすれば、幸せでいてほしいとは願っている。そのためならば、手を貸すつもりだ」


「奥様がもう一度一緒に暮らしたいとおっしゃったら?」


「まずないと思うが、そんなことがあれば私はあの家に戻るだろうね」


 わざわざ来てくれて済まない、と小さく呟くと父は席を立った。コーヒーの入っていたカップを片手に、夏条先生を見つめる。


「今日はありがとう。また何かと会うだろうが、その時もよろしく頼むよ」


「ええ、こちらこそ」


 父が席を離れるのを見て、私たちは慌てて顔を見合わせて会話に花を咲かせる若者同士を装った。父は一瞬立ち止まったが、どうやらコーヒーの空いたカップを片付けていただけのようで、そのまま店の外へと立ち去って行った。後には夏条先生と冷めたコーヒーが残されている。先生の表情からは笑みが消え、怒りとも失望とも見える黒い感情に、ぎゅっと手を握りしめていた。


「ずいぶん気に食わない様子だな」


 柊がふっと笑うように私に耳打ちする。彼女のこの状況をからかうというよりは呆れたような笑みだった。


「先生は、私のお父さんのこと好きなのかな」


「あの様子を見る限りは、そう考えても不自然ではないな。もっとも、相手にされてはいないようだけど」


 鈍感なのか、それとも気づいていない振りをしているのかわからないが、父の口から先生の思いに応えるような言葉は少しも出てこなかった。正直、ほっとしている自分がいる。自分の父親が、娘が死んで数日というときに不倫をするような不誠実な人でなくて本当に良かった。おかしいのはあの人だけで十分だ。もし、私の父が家に戻れば、両親が揃い、邪魔者の私も消えた橘家は、奈菜がまともな少女になるのに最高の環境だ。本来、私に向けられる予定だった愛情もすべて、彼女がかっさらっていけばいい。


 ふと、夏条先生が立ち上がったかと思うと、荒い所作でコーヒーを片付け始めた。まだ半分以上はあったであろう中身を廃棄し、カップを潰してゴミ箱に投げ入れる。そのまま、周りの客に見向きもせずにヒールの音を響かせながら去っていった。かなり、苛立っているのだろう。


「意外と子供っぽいところもあるんだな、夏条先生」


 柊はキャラメル味のドリンクを一気に飲み干した。彼にはきっと甘いだろうに、好私の勧めたものは最後まで口に運んでくれる。


「わざわざ呼び出されて、私の話で終わりだったら苛立つのも仕方ないよ」


「もうちょっと常識のある先生かと思ってただけに残念だよ」


 残り三分の一くらいになったキャラメルのドリンクをゆっくり味わいながら口に運ぶ。相変わらず、病みつきになる甘さだ。放課後、深華や千夏とこの店に立ち寄った日のことが鮮やかによみがえる。取るに足らない世間話に花を咲かせ、ちょっとしたことで笑いあっていた。青春というフィルターもかかったせいか、今の私には思い出すだけで目が痛くなるようなまぶしい日々である。








 それから程なくして、私たちは店を出ていつもの公園へ向かっていた。一度眠りについて、この体をシーカに返さなければならない。いくらこれから日が長くなるからと言って、のんびりしていては夜になってしまう。


「結局、夏条先生とお父さんは知り合いってことしかわからなかったね」


 駅前から離れていくにつれて、人影は少なくなっていく。私は柊の手に自分の手を少しだけ触れ合わせながら、目の前に長く伸びる二人分の影を眺めていた。シーカの見慣れないシルエットは、影でさえも繊細さを感じさせる美しさがあった。


「そんなことはない。先生が、花菜のお父さんに好意らしきものを持っていることも分かった」


 不意に柊は意味ありげな笑みを見せる。夕日の影になって、一瞬、彼が知らない人のように思えた。


「極端な話、先生は花菜のお父さんと一緒になりたいから、邪魔な橘家の娘を殺した、なんてありうるかもしれないだろ」


「そんなこと……!」


「あくまで可能性の話だよ。花菜に近しい人で、花菜を殺す動機を持ちうる人のことは一応疑っておくべきだろう」


「……そうなのかな」


 私の脳裏に浮かびうるすべての人が潔白であってほしい。これ以上、私の周りで何かが壊れていくのは、いくら死んでいるとはいえ、耐えられない。いよいよ消えたくなるだろう。思わず、軽く触れていただけの柊の手をぎゅっと握りしめる。


 やがて、私が殺された路地裏へやってきた。今日もちょっとしたお供えの山ができている。風に攫われた花弁が、私が絶命したあたりに綺麗に散らばり、夕焼けに染まっていた。


 その花びらの上、長い髪をなびかせながら、今日もお供えに来てくれたらしい深華がこちらを見つめていた。少し痩せたようにも見えるが、相変わらず真っ直ぐな瞳をしている。


 柊は繋いだ手を放すこともないままに、彼女に近づくと爽やかに微笑んで見せる。いかにもみんなの憧れる「黒川先輩」の振る舞いだ。もっとも、こう言った振る舞いが彼女のお気に召さないのだろうが。


「今日も花菜に会いに来たんだな、御園さん」


 深華は何も言葉を返さなかった。代わりに、深い色の瞳でじっと柊を見つめている。一方で、柊も笑みを崩すことはない。この場で何を発言しても不自然になりそうな私は、ただ黙ってこの気まずい数秒間の行方を見守るしかなかった。


 やがて、唐突に彼女は口を開いた。


「あなたが、花菜を殺したんですか?」


 彼女のその言葉がやけに非現実めいて聞こえて、街の喧騒が遠く高く響き渡ってくるような気がした。いつもならば、そんなことあるはずもないと笑って否定できるはずなのに、深華の鋭い視線が深く冷たく突き刺さり、心臓が痛いと泣いているようだった。


「どうして?」


 柊は「黒川先輩」の笑みを崩さない。夕日を背にした彼の笑みは、深華には人殺しの笑みに見えているとでもいうのか。


「あなたなら、花菜を殺したくなるかしらって、そう、思ったんです」


 訳が分からない。柊は、こんなにも私を大切にしてくれているのに。それこそ、実の妹のように慈しんでくれているのだ。私と親しい深華が、それを知らないはずがなかった。


「架夜にも言われたよ、それ。俺って、そんなに危ないやつに見えるかな」


「見えますよ、とっても」


「ひどいなあ、御園さん」


 柊はくすくすと笑ってみせる。ある意味、いつも通りの「黒川先輩」の姿だった。だが、こんなことを言われても「いつも通り」の彼に私は少し戸惑ってしまう。


「それに、その女の子は妹さんではありませんよね? 一体どなたなんですか?」


「内緒」


 やはり深華も私の存在の違和感には気づいていたようだ。高校時代の後輩を騙すには少々無理のある嘘であったようだ。


「それより、もう暗くなる。早めに帰ったほうがいい」


「そうですね、誰かさんに殺されちゃかないませんし」


「送っていこうか?」


「もちろん、お断りします」


 彼女はすぐにお供えの山のほうへ向き直ると消え入りそうな声を零した。


「……また、来るからね。花菜」


 彼女は一体どのくらいの頻度でここへ来てくれているのだろう。私が把握しているよりもずっと、足繁く通ってくれているのかもしれなかった。それだけ私は、彼女にとって大切な友達でいられたということなのだと、信じてもよいだろうか。


 彼女は長い髪を初夏の風になびかせて、私たちに背を向けて去っていった。その後ろ姿に抱えるものの全てを推し量ることなどとてもできないが、彼女が柊に対して敵意を滲ませているのだけは分かった。もともと仲が良い二人ではなかったが、彼を殺人犯呼ばわりするほどだったろうか。もやもやとした灰色の感情が胸の中に渦巻いていく。


「これで何回目かな、花菜を殺したんだろって言われたのは」


 柊はどこか呆れたような笑いを見せる。その表情が悲しくて、私は繋いだ手に力を込めた。


「みんな、混乱してるんだよ。心の底から柊が犯人だなんて思ってない」


「……どうして、花菜は疑わないんだ?」


 不意に離された右手が、僅かに震える。彼の声はそれほどに、冷え切ったものだった。


「疑うって……どうして?」


 何とか笑みを取り繕い、彼を見上げた。彼の顔には、自嘲気味な笑みが張り付いたままであった。


「この場所で、君に警戒されることもなく近づける人間は俺くらいしか思いつかないんじゃないか?」


「そんなこと……。第一、柊が私を殺す理由がないもの」


「理由なんて、殺された側にはわからないくらい些細なものかもしれないのに?」


 シーカの心臓がどくりと胸を打つ。柊の言うことは一理ある。世の中に溢れかえる殺人事件の中には、第三者から見れば本当に些細で、殺人を起こすきっかけになり得るとは到底思えないような動機が沢山ある。けれど、些細な理由でも確かに動機であるには違いないのだ。人を殺める瞬間の感情の昂りや思考の流れなんて、殺人者本人にしか分からない。凡庸な私に推し量れるような、簡単なものではないのだろう。


「柊はそんなことしないって信じているけど……」


 シーカの両手でそっと柊の手を包み込む。夕暮れに伸びる二人の影の一部が、溶けて繋がったようにも見えた。


「柊になら殺されててもいいや。それでいいのって思えるくらい、私は柊でいっぱいだったの」


 柊の驚いたような表情が目に映る。彼にしては珍しいことだった。もっとも、こんな恥ずかしいことをさらりと言ってのけた自分にも少なからず驚いていた。生きていたころでは考えられない。幽霊になってから少しずつ、空腹感や温感など忘れ始めている感覚があることには気づいていたが、ついには羞恥心までも薄れ始めたのだろうか。ゆっくりと、生まれたままの感覚に戻っていくような気がした。どことなく神聖な気持ちもあるが、やはり寂しくもある。こうして柊の隣にいても、私は常に彼から遠ざかっているのだろう。


 柊は夕焼けを背負って僅かに微笑んだ。ここ数日間、何度も見かけた物悲しい笑みだった。私の死は、確かに彼に大きな傷を与えている。それは辛くて仕方がないのだが、私の存在が彼の人生に爪痕を残せたのかと思うと悪くもない気がしてきた。


 そんなことばかり考えていると、私はいよいよ悪霊にでもなってしまいそうだ。依代になってくれたシーカのためにも、そんな結末は避けたい。私は柊の手を引くようにして、路地裏を抜ける。供えられた花の香りがむせ返るように甘かった。


「さあ、一緒に帰ろう、柊。今日も一緒に、あの本を読もうよ」


 こんな夕暮れが、あと何度続くだろう。街を溶かすような暑さが訪れるまで、私はここにいられるのだろうか。失い始めた感覚の代わりに、終わりの足音が近づくのを確かに感じ取っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る