第21話 密偵の始まり
夜、柊の部屋で私は幽体、シーカは猫の姿で、ソファーに座り込んでいた。シーカとの打ち合わせ通り、柊が架夜さんと会っていたことについては言及しない形での報告を終えたところだ。柊はしばし黙り込んで、考えを巡らせているようだった。
そんな彼の姿を、丸い瞳でシーカはじっと見つめている。昨日まで感じられなかった警戒心がそこにはあった。深華の話を聞いてしまったのだから無理もない。本当は私も、多少身構える必要があるのだろうが、どうしてもそんな気にはなれなかった。仮に犯人が柊だとしても、それはそれで構わないような気がしてしまう。むしろ、それが例え殺意でも、柊が一瞬でも私に対してそんなに強い感情を持ってくれたのなら、私の存在も多少救われるような気がした。生きているうちに柊の心をそんなにも動かせたのなら、私の人生の意味としては十分だ。
ただ、犯人が誰であれ、憑依している状態でもう一度殺されるのをのうのうと許すわけにはいかない。今回ばかりは事情が違う。依代であるシーカの身も危険に晒すことになるのだから。大事な友達をそんな目に合わせることはしたくない。
「本当に、それですべてか?」
考えを巡らすように伏せていた目をこちらに向けて、彼は言った。いつになく鋭い視線を向けられて、言葉を失ってしまいそうになる。柊のその目は苦手だ。どんな嘘も隠し事も、すべて打ち明けたくなってしまう。だが、その衝動をこらえて、私は柔らかく笑んで見せた。
「そうだね、私の覚えている限りでは」
「そうか」
柊は軽く一息をついて、ソファーにもたれかかる。
「結局、部員と先生の証言からは何もわからないな。もともと期待もしていなかったが、残念だ」
「解散した後は、ほとんど関わらないからね。仕方ないよ」
「直に俺のところにも、話を聞きに来るんだろうな」
どこかぼんやりとした調子で、柊は呟いた。それは、おそらく高確率で数日のうちに実現されるのだろう。
「それで? 明日は夏条先生を付け回すのか?」
「そうだね、お父さんとのこと知りたいし、携帯でも盗み見ることができればなって思ってる」
「無理はするなよ」
「大丈夫。この体にもだいぶ慣れたし」
背中を撫でられているシーカは、時折心地よさそうに小さく鳴いている。もうすぐ眠ってしまいそうな勢いだ。
私もシーカにつられるようにして、静かに柊の肩に寄り掛かった。柊は軽く微笑んで私とシーカを見ていた。
「柊、この間の続きを読もう」
テーブルには栞を挟んだままの、分厚い外国の物語が置いてある。柊はそれを手に取ると、私に見やすいように本を開いてくれた。この本を読み終えるころには、何が変わっているだろう。私はまだ、彼の隣にいられるのだろうか。そんなことを思っては無いはずの胸が痛み、目の前で笑う柊を見つめては離れたくないと、そう願う毎日の繰り返しだ。せめてこの安らかな時間だけは、変わらないでいてほしい。犯人捜しよりも何よりも、切実に願うことはただそれだけだった。
翌日、私は幽霊の姿で、高校の視聴覚準備室にいた。ここは夏条先生が使っている部屋である。教室の四分の一くらいしかない、こじんまりとした部屋だ。先生は教室かここにいることがほとんどであるが、最近は私の一件があったせいか一日のほとんどを職員室で過ごしているようだ。
日の光がレースのカーテン越しに入ってくる。先生の部屋は小ざっぱりとしていて、私物らしいものはあまり見当たらない。机の上に、私の学級の生徒資料と授業のための教材が整頓されて置かれている以外には、写真立ても小物入れもなかった。
私は窓のほうへ歩み寄り、外を覗き込んだ。窓越しに黒猫姿のシーカが待機してくれている。何か動きがあった時には、実体のある彼女に動いてもらう寸法だ。
視線を感じたのか、不意にシーカはこちらを見上げた。そして小さく口を開ける。窓越しに、微かに鳴き声のようなものが聞こえたように思えたから、きっと彼女のものだろう。私も笑い返して、軽く手を振ってみせた。
学校中に、昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴り響く。程なくして廊下が喧騒に包まれた。その様子を懐かしいと思うまでに私は学校生活から遠ざかってしまった。聞こえてくる生徒たちの声はすべて、遠い世界のもののように現実味がない。
やがて、喧騒の中からドアを開ける音がして、夏条先生が入室してきた。部屋の照明をつけることもなく、真っ先に机に向かうと、購買で買ってきたようなおにぎりとお茶を置いて椅子に深く腰掛けた。髪も服も綺麗に整えられてはいるが、やはり疲れの色は隠しきれていない。昨日の事情聴取のようなことに追われる毎日なのだろう。
先生はおにぎりのフィルムをはがして口に運びながら、カーディガンのポケットから携帯電話を取り出した。指紋認証でロック画面を解除する。これでは暗証番号はわからない。つまり、先生が使っている今しか端末の中身は調べようがないということだ。久しぶりに神経を集中させて、先生の閲覧する情報を追った。
先生は、電子メールを確認しているようだった。時折、外国からのメールのようなものも混ざっている。以前、留学していた時の繋がりがまだ生きているのだろう。
メールを見るときの先生の表情は、教壇で見る時とは違い、少し冷めた目をしていた。一人でいるときなんて、誰もがこんなものだと言われればそれまでだが、先生のそんな表情を見るのは新鮮だ。
ふと、新着メールの中に、見知った名前の差出人を見つけて、どきりとする。
橘明人。記憶によれば、私の父の名だ。
先生は、その名前を見つけると、おにぎりを口元から離し、ふっと微笑んだ。誰も見ていないだけに、自然と零れたその笑みは心からのものなのだろう。
先生がそのメールをタップすると、メールの全文が表示された。なんてことはない、淡々とした文面が続く。これだけでは先生と父がどういう関係なのか知る由がなかった。
ただ一つ、目についた「今日の午後六時に駅前で会おう」という文。それを目で追った瞬間、夏条先生はとても嬉しそうに微笑んだ。私は、友だちがこのような表情をする瞬間を何度か見たことがある。それは大抵、想い人から便りがあったときのことだった。いわゆる、恋する乙女の顔というやつなのだろう。二十代後半なら、まだ乙女と称しても許されるだろうか。
それにしても、と私は深い溜息をついた。自分の身内と信頼している担任教師の情事というのは、見ていて気分の良いものではない。正直言って、生きていたら吐き気がしそうな代物だ。今すぐこの場から去ってしまいたいが、これだけで二人が良い仲だと判断するのは早計な気もするので、実際に逢瀬の現場を見に行くしかなさそうだ。恐らく、私の事件の話も出てくるだろう。
柊やシーカへの報告の仕方を考えていると、先生はいつの間にかメッセージアプリを開いていた。私たち高校生もよく使うものだ。二十代の先生が使っていても、特に違和感はない。
しかし、私はそこに表示された名前に愕然とすることになる。
「……架夜さん?」
大槻架夜。柊の元恋人、綺麗で危ない人。ここでもあなたの名前が出てくるのか。怒りではないが、何か冷たい感情が心の中に満ちていくのが分かった。そもそも夏条先生だって、昨日の事情聴取で架夜さんのことはあまり知らないというような素振りだったのに。先生は嘘をついていたのか。一気に先生を疑わしく思う気持ちが増してしまう。
夏条先生は、架夜さんの名前が書いてあるトーク画面で、何やら楽しそうにメッセージを送っている。
『明人さんに、会おうって言われちゃった!』
架夜さんに対してずいぶん親し気な口調だ。先生と架夜さんに接点はなかったはずだなのに。私が見逃していたのだろうか。
『そう、よかったね』
返信は思いのほかすぐに来て、どうせ共感などしていないのだろうに、表面上先生に合わせたような文面が画面に表示された。
『あなたは、あまり出歩かないようにね。誰に会うかわからないんだから』
『心配しすぎ。言われなくても気を付けるよ』
私の事件を受けて、不審者に警戒でもしているのだろうか。あるいは別の事情があるのか。いずれにせよ、架夜さんは夏条先生に心配されるような立場だということになる。ただの先生と生徒という関係ではなさそうだ。
ほどなくして、夏条先生は校内放送で職員室に呼び出されて部屋を立ち去ってしまった。もちろん携帯も持って行ってしまったので、これ以上調べられそうなところはこの部屋にはない。私は見切りをつけて、シーカに会いに行った。
初夏の正午の空というのは心地が良い。澄みきった青が延々と続いていく様は、事件のことも、もう私に命がないことも、少しの間だけ忘れさせてくれそうな気がする。
公園の木陰で少女の姿になったシーカは、今、私とともにベンチに座っている。傍目には、シーカ一人で座っているように見えるだろう。白い肌が、青々とした木々の光に照らされて、綺麗だった。
「夏条先生と架夜さんのことはよくわからないけど……。とりあえず今日は、夏条先生と花菜ちゃんのお父さんをつけるしかないね」
散歩を楽しんでいる人たちの注意を引かないよう、シーカは小声で私と会話をしている。これでも十分、よく見れば怪しい女の子なのだが、わざわざ首を突っ込んでくるようなお節介な人もそうそういないだろう。
「そうだね。柊にも、そう提案してみよう」
幽霊の私は、声量に気を使わなくていい。暑さも感じないし、いたって気楽だ。
「でも、あんまり見たくないかな、その、花菜ちゃんのお父さんと先生が逢うところなんて……」
人の世の複雑な事情を、彼女は意外にもよく分かっているようだった。つくづくシーカには気を遣われっぱなしだ。だがその健気さが好感を持てる部分でもある。
「大丈夫だよ。柊に言われるまで、父親の顔も知らなかったくらいなんだから。むしろ、顔も知らない人と血が繋がっていますって言われて、なんだか変な気持ちだよ」
「懐かしい感じはしないの?」
「全然。お父さんがあの家を出て行ったのなんて、私が物心つく前の話だから」
「そう……」
シーカは神妙な面持ちで、数秒間私を見つめていた。相変わらず、綺麗な顔をしている。私もこんな美少女に生まれたら、もう少し楽しい人生を送れただろうか。
「私はね、懐かしいって思ったの」
シーカはふっと、花が零れるような笑みを見せて言う。
「私の、お父さんとお母さんにあったとき」
化け猫の類だと言っていたが、彼女にも両親があるのか。不可解なことばかりとは言え、一応は生きているようだから、よく考えれば当然のことにも思える。
「離れて暮らしていたの?」
「そうだね、十年間くらい離れてたかな」
化け猫にもいろいろと事情があるようだ。複雑なのは、人の世ばかりではないらしい。
「こんな事件にかかわっているって知ったら、ご両親心配しない?」
シーカに何かあったら、彼女のご両親はどんなに悲しむだろう。シーカのご両親がどんな人たちなのかはわからないが、シーカがこんな物騒な事件に関わっていることをよく思うはずがない。
「いいの。今はこうして花菜ちゃんと柊くんといることが、私の何よりの願いだから」
たった一度、彼女の命を救ったことを、それほどまでに恩義に感じているのか。私が彼女にしたこととは比べ物にならないほどの恩を、私は既に受けているのに。
「ありがとう。シーカがいてくれて、本当に嬉しいよ。シーカがいなかったら、私、いろんな思いに気づけないままだったもの」
「そういってもらえると、私も嬉しい」
こうしていると、私とシーカはずっと昔からの友人同士のようだ。深華や千夏といい、私は友人に恵まれている。家族に恵まれなかった分、余計にその幸運をありがたく思った。
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