第20話 御茶会の終わり
「では、次に柚原さんお願いします」
女性は素早くメモを取りながら、話を続けた。もう一人の男性は相変わらず、千夏のほうに注意を向けているように見える。
千夏は名前を呼ばれただけで、肩を震わせ、どこか助けを求めるような目で夏条先生を見た。先生は、千夏をなだめるようにそっと彼女の肩に手を置いて、微笑みかける。優し気な、私のよく知っている先生の表情だった。千夏もそれを見ていくらか安心したのか、たどたどしく話し始める。
「解散した後は、購買へ行きました。そこでクラスの友達に会ったので、少しお喋りをしました。本当は一緒に帰りたかったけれど、進路のことで先生と面談の約束があるとかで、その子とは学校内で別れました。学校を出たのは……よく覚えてないけれど、十七時半は過ぎてなかったように思います。あの日は、夕日がとてもきれいだったので、何枚か空の写真を撮りながら帰りました。……花菜ちゃんのことを知ったのは、帰宅直後で、部長からの電話で……。もう、それだけで、私は……」
電話を受けた時のことでも思い出したのだろうか。彼女の瞳からぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちる。先生がそんな千夏の背中を軽く抱きしめるように、彼女の背をさすった。千夏はセーラー服のポケットから、白いハンカチを取り出して涙をぬぐうも、涙は止まる気配を見せない。それを見た香月部長まで、目を潤ませる始末だ。
「では、最後に御園さん、お話を聞かせてください」
深華は、小さく返事をするも視線を伏せたままだったが、数秒ののち、静かな声で語りだした。休憩を経ても、彼女の陣妙な面持ちに変化はない。
「あの日は、解散した後、教室に忘れ物を取りに行きました。教室には、誰もいなかったのでそのまま学校を出て……それが、十七時十分になるかならないかくらいだったと思います。その後はまっすぐ駅の方へ向かおうとしたんですが……」
不意に、深華が口籠る。彼女が言葉の途中で、口を閉ざすのは珍しかった。余程、言いにくい何かがあるのだろうか。
「どうしても言いにくければ、後程個人的に伺いますが」
それぞれの証言を裏付けしたいとは言っても、話し手には言いづらいこともあるだろう。事件のことは知りたいが、深華に負担をかけるのは耐え難い。
「……いいえ。どうせ、みんなには言おうと思っていたんです。それに、私が勝手に深刻に捉えているだけで、大したことではないんです」
深華は、自分を落ち着かせるように軽く息を整える。そうして、いつもの凛とした声で言い放った。
「あの日、私は学校を出てすぐ、反対車線の歩道で、黒川先輩の姿を見かけました。……
「大槻?」
夏条先生が、怪訝そうに問い返す。確かに、先生と大槻先輩には接点がなかったので、よく知らないのも当然だった。
大槻架夜。それが、大槻先輩こと架夜さんの名だ。私が死んだあの日、柊は架夜さんと共にいたのか。だから、私との待ち合わせを取りやめたのか。不意に、架夜さんと会ったときに感じたあの寒気と、得体の知れない不安が再来して苦しくなる。幽霊なのに、妙な話だと頭の中では笑いながらも、胸が押しつぶされそうな閉塞感を感じた。
「大槻さんというのは、どういった方ですか?」
「この高校を去年卒業した人で、黒川先輩の元恋人です。校内一の美人だと評判だったので、よく知っています。……夏条先生がご存じないのは意外でした」
「……いえ、思い出したわ。教職員の間でも評判の優等生だったもの」
来客の二人は軽く目配せをして、ノートに何やら書き込んでいた。架夜さんのことも調べてみるつもりなのだろう。私に近い柊の知人となれば、捜査対象になりそうだ。
「わかりました。どうぞ、続けてください」
深華は、話し出したことで迷いが吹っ切れたのか、戸惑うこともなく話を続けた。
「遠かったので、はっきりとは聞こえませんでしたが、二人は何か言い争っているようでした。唖然として見ているうちに、大槻先輩が走ってどこかへ行ってしまいました。……思い返してみれば、大槻先輩の走り去った方向は、花菜の現場の方向と近かったように思います。残された黒川先輩は、軽く頭を抱えていましたが、しばらくすると大槻先輩が去った方向へ歩き出しました。私が見たのはそこまでで、あの時は痴話喧嘩くらいにしか思っていなかったので、そのまま駅へ向かいました。止めれば、よかったのかもしれませんが……」
最後の言葉には、深華らしからぬ明らかな後悔が滲み出ていた。彼女の目に暗い影が差す。そんな彼女を笑うように、上谷くんが口を開いた。
「御園さんにしては、ずいぶん弱気な発言ですね。後悔してるんですか? まあ、橘さんを送らなかった俺に比べれば、そんなのかわいいものですけどね」
「いちいちうるさいのよ。喧嘩なら後で買うわ」
「生憎、そこまで暇じゃないんです」
警察が来ていようと、先生がいようと、二人のこのリズムは変わらない。憎まれ口ばかり叩く上谷くんだが、これも彼なりの励ましのような気がしてならなかった。そして、深華もそのことには気づいていながら、敢えて棘のある言葉で返すあたりが、何とも彼女らしい。
この二人の口喧嘩を聞くと、不思議と閉塞感が薄れて、息苦しさが遠のいていく。いつも通りの茶道部の風景に、ひどく安心しているせいだろう。睨み合う二人を見ていると、何だか微笑ましく思った。少しだけ、頬が緩む。
その瞬間、不意に上谷くんが私のほうを見つめた。またしても、目が合うような錯覚に陥る。そして彼は、数秒間こちらを見つめたのちに、誰にも気づかれないくらいの小さな笑みを見せた。
彼は、やはり気づきかけているのかもしれない。笑いかけるような笑みではなかったが、こちらを見て上谷くんは確かに頬を緩ませた。何かを感じていることは確かだ。
もうどこにもいない私のことを、必死に見ていてくれようとする上谷くんの姿に、なぜだか胸が熱くなった。上谷くんが私を知っていてくれることが、どれだけ励みになることだろう。私も、浮かない顔ばかりしていられない。上谷くんや柊が喜んでくれるというのなら、私は微笑み続けよう。
一通りの話が終わった後、部員たちは解散することになった。情緒不安定な千夏は、深華が付き添って家まで送ることになったのでいくらか安心だ。今は、警察の二人が、夏条先生と何やら事務的な話をしている。先生と私の父の関係についても聞きたかったが、この話の流れではどうも難しそうだ。やはり、明日あたりシーカの協力を得ながら、先生を探ってみるのがよいかもしれない。
学校の中庭に出てみると、植木鉢の陰から黒猫が飛び出してきた。紛れもなくシーカだ。彼女は私を一瞥すると、一声だけ鳴いてさっさと歩きだしてしまう。猫の姿の彼女とは、会話も成り立たないのでおとなしくついていくことにした。どうやら公園へ向かっているようだ。
公園に着き、木陰で猫から少女に姿を変えた彼女は、いつになく神妙な面持ちをしていた。昨日、上谷くんと話をしていた時ほどではないにせよ、こちらも少し緊張するくらいの鋭い眼差しをしている。
「花菜ちゃん」
面と向かい合ったまま、彼女は口を開く。いつもの快活で可憐な声も、今日はやけに厳しく聞こえた。
「今日聞いたこと、全部は柊くんに話しちゃだめだよ」
それは、予想外の申し出だった。柊とは、見聞きしたことはできるだけ正確に伝えるよう約束をしている。無論、犯人に近づくために私もそうするつもりだった。
「どうして? 柊にちゃんと教えたほうが、真相がわかると思うの」
「今日の話を聞いて、何も思わなかったの?」
「どういうこと?」
シーカは私から目をそらすことなく、まっすぐに言い放った。
「あの日、柊くんが花菜ちゃんを迎えに行かなかったこと、花菜ちゃんに内緒で大槻架夜に会っていたこと。……こんな大切なことを、どうして今まで黙っていたの? 花菜ちゃんには知られたくない何かがあるからじゃないの?」
ずきりと胸が痛む。そんなこと、わざわざ口に出して言われなくても心の奥底では思っていた。それと同時に得体の知れない不安に悩まされていたのだ。
考えてはいけないと本能が叫ぶ。私は苦笑いして、シーカの視線から逃れるように顔をそむけた。ようやく開いた口からもれる声は、ひどく弱弱しかった。
「考えすぎじゃ、ないかな。柊、最近忙しくしてたから、話す暇もなかったんだよ」
「花菜ちゃん。花菜ちゃんを殺した人は、身近にいるかもしれないってこと忘れちゃ駄目だよ。……次、殺されたら、もうその幽体も保てなくなるからね」
「もう一度殺されるなんてできるの?」
「花菜ちゃんのことが見えて触れられる人は、花菜ちゃんのこと殺せるよ」
「そう……」
ずいぶん遠回しな言い方をするが、その条件に当てはまるのは柊しかいないではないか。私は軽く息をついて目を瞑った。わかっている。シーカだって意地悪で言っているわけではない。私のことを心配して、最悪の可能性まで視野に入れているだけだ。ここで彼女と言い争っても、この状況では私が不利であることは明らかであるし、シーカと気まずい雰囲気になって得することは何一つない。柊が、「聞かれなかったから言わなかった」という言い訳を使うのなら、私もそれに便乗しよう。
「わかった。深華の言っていた柊に関する供述は、ひとまず柊には内緒にしよう。いつか柊から話してくれるかもしれないし、それに……今じゃなくてもタイミングは巡ってくるかもわからないしね」
「ありがとう、花菜ちゃん。忠告を受け入れてくれて」
「いいの、心配してくれたんだよね」
シーカは弱弱しく笑むと、憂いを帯びた表情に戻る。今まで無邪気なシーカばかり見てきただけに、そんな表情を見るのは心苦しい。
「待ち合わせまで時間あるし、この辺お散歩しよう? ね? いつも一人で歩いているから、退屈なんだよ」
シーカの手を引き、あえて明るく振舞って見せた。こんな綺麗な夏の日には、できれば笑顔を見ていたい。シーカはきっと昨日今日で得た情報のせいで、いくつもの悩みを抱えている。それならば、せめて今だけは、彼女を笑わせたいと思った。
「退屈に感じる余裕ができたのはいいことだね」
シーカはくすくすと笑いながら、おとなしく私に手を引かれていた。鮮やかな日差しが、彼女の白い肌を照らす。ふわふわとした長い黒髪が、風になびいていた。
彼女は、生きているのだろうか。不意にそんなことを思う。化け猫だと言っていたが、その正体は、いまいちよく掴めていない。ただ、夏の強い日差しに照らされ、彼女の足元から伸びた黒く濃い影を見て、確かに存在しているのだと、それだけは強く感じた。
私には、何もなかった。ぐるりと周りを見渡しても、足元にはただただ日の光を受けてきらきらと輝く砂利があるだけだ。
私は、ここには存在していない。確かにここにいるのだけれども、もうどこにもいない。その私が、こうしてシーカの手を引いているなんて。
行き交う人々の影を眺めながら、自嘲気味な笑みをこぼした。誰にも気づかれることはない。私はドッペルゲンガーで、幽霊なのだから。それを悲しむでも、悔やむでもない。ただこれが私なのだ。それだけだった。
綺麗な夏の日に憧れる、凡庸な死者。悪くない響きだ。私には、もったいないくらいに。
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