第19話 御茶会の始まり

 前日とは打って変わって、よく晴れた午後、私は数日ぶりに茶道部を訪れていた。シーカは黒猫姿で中庭に待機してもらっている。聞ける範囲で、彼らの会話を聞いてもらう手筈だ。約束の時間まで十分を切った時点で、すでに千夏以外の部員は集合を終えている。それぞれが定位置について、温くなってしまったであろうお茶を眺めていた。いつもの和やかな雰囲気とは違い、妙に張り詰めた空気だ。部長は先ほどから、しきりに入口のほうを気にしている。


「香月、そんなに気を張らなくても大丈夫だ。事情聴取って言ったって、ちょっと話を聞くだけらしいしさ」


 水野先輩は、どことなく落ち着きのない香月部長を軽くなだめた。部長は一度だけ頷いて、お茶を口に運ぶ。


「千夏、来ませんね」


 深華は、私の向かい側の千夏の定位置に視線を移し、誰に向けたわけでもない呟きを零した。どうやら彼女は今日も、学校を休んだらしい。


「連絡は? つかないの?」


 そう尋ねた香月部長の声は、憂いを帯びていた。学校はもちろん、部活を無断欠席することもなかった千夏なのだから、部長が心配するのももっともである。


「一応、メールすれば返信はあるんですが……」


「一体どうしちゃったの、千夏ちゃん。やっぱり、花菜ちゃんのことで……?」


「そうだと思います。今にして思えば、千夏は花菜の葬儀の時から少し様子がおかしかったんです。異常なほどに、人に怯えていましたから」


 深華の発言が終わるか否かというときに、不意に部室の扉が開けられる。スーツ姿の警察関係者の姿を予想したが、一番始めに入ってきたのは意外な人物だった。


「みんな、ごくろうさま。柚原さんを連れてきたわよ」


 夏条先生に付き添われながら、泣き腫らした目をした千夏が入室してくる。自然と部員の注目が千夏に集まった。


「お待たせして、ごめんなさい」


 消え入るようなか細い声だったが、それでも千夏の声を聴けたことで、香月部長はいくらか安心したようだ。


「千夏ちゃん、いまお茶を入れるわね」


「……ありがとうございます」


「香月さん、お茶を淹れてくれるのなら、この方たちの分もお願いできるかしら?」


 夏条先生は柔らかな笑みでそう言うと、廊下からスーツ姿の中年の男性と先生と同世代くらいの女性を招き入れた。彼らが茶道部に事情聴取を要請した警察関係者なのだろう。


「橘さんのことで、みんなに話を聞きに来たのよ」


 先生の紹介に合わせて、二人は軽く礼をした。それに応える様に、部員たちも小さく会釈する。


「私たちも、上がっていいかしら?」


「はい、もちろんです」


 お茶を淹れに行った部長の代わりに、水野先輩が先生たちを案内する。部室自体は、この人数でもゆとりを感じる広さだが、畳の上はぎりぎりだ。私は畳を降りて、全体を見渡せる位置へ移動を試みた。先生が、警察関係者の二人を私のいる位置のほうへ案内しようとしていたからだ。


「そこは、橘さんの席です」


 今まで沈黙を決め込んでいた上谷くんが、いつになく鋭い声で言った。夏条先生も部員も、ついでに言えば私も、思わず目を見張る。上谷くんだけが、真っすぐな視線で先生を見上げていた。


「橘さんの席です」


 今度ははっきりと、先生に言い聞かせるような口調で彼は繰り返した。数秒の後、先生は苦笑いに近い笑みを浮かべて頷いた。


「そうだったわね。ごめんなさい」


「あの、私たちはこちらで」


 来客である女性が場の空気を察したのか、遠慮がちに申し出た。畳の外には古びたパイプ椅子が三脚ほどおかれている。二人はそれに座ることにしたようだ。


「すみません」


 夏条先生は、上谷君に睨まれた気まずさを引きずったような笑みを見せた。そうして先生一人で畳に上がり、千夏のすぐ傍に腰を下ろす。長く細い足をきちんと折りたたんで、すっと背筋を伸ばした先生の姿はやはり綺麗だった。でもなぜだろう。上谷くんに睨まれてからの先生の表情の変化には、学校で見る夏条先生の雰囲気よりも、先日の葬儀で私の父と密会していたあのときの雰囲気が漂っていた。そしてその表情の変化の裏に隠されたものが、負の感情に近いもののような気がしてならない。


 みんなを見下ろすのも何なので、上谷くんがこの場の空気を凍らせてまで守ってくれた定位置に大人しく座ることにした。感覚はなくてもやはりどこか安心する。


 それから程なくして、香月部長がお盆に四人分のお茶を載せて運んできた。小さな羊羹も添えられている。茶道部らしい洗練された手つきで、客人たちにお茶を出すと、自分の定位置へ戻っていった。千夏以外は、いただきますと小さく断って、部長が運んできてくれたお茶とお茶菓子を口にした。部長の入れたお茶が美味しかったのか、気分が落ち着いたのか、客人たちが軽く息をつくのがわかる。


「それで、私たちは何をお話すればいいのですか?」


 部長は先生のほうを見やり、至って冷静な面持ちで切り出した。先ほどは、どこか落ち着きがなかったのが嘘のようだ。千夏が来てくれたことで憂いも薄らいだのだろうか。


「重ね重ねの質問になると思うのですが、まずは事件当日のことを教えてください」


 警察関係者の女性がノートとペンを取り出して部員を見渡す。初めに口を開いたのは部長だった。


「あの日、橘さんは、解散時刻の十七時頃まで茶道部にいました。橘さんは、部活の時はいつも最後までいてくれたので、それはいつも通りの帰宅時間だったと思います」


 部長は、既に学校関係者などに何度か質問されているようで、言葉に詰まることなく答えた。その辺りのことまでは、ぼんやりと覚えている。部長の言う通り、私は部活が終わる時間までここで過ごしていたはずだ。


「その日は、部員全員が揃っていましたか?」


「はい。六人全員が、揃っていました」


 それもいつものことだ。部活の時に、誰かが欠けるということは滅多にない。


「では、解散した後のみなさんの行動についてお聞かせください」


 その言葉に、千夏がびくりと肩を震わせたのを、私は見逃さなかった。どうやら来客の二人もその様子を見ていたようで、懐疑の色が向けられる。


「じゃあ、まず香月さんから伺ってもいいですか?」


 部長は、はい、と返事をすると、やはり滑らかに言葉を紡ぎだす。


「この部室で解散した後、私は職員室へ部室の鍵を返しに行きました。夏条先生がお帰りになられていたので、用紙に活動報告を記入して、その後、図書室へ行きました。学校を出たのは、十七時二十分頃だったと思います。その後は、まっすぐに家へ帰りました。私は、橘さんとは家の方向が違うので、橘さんの事件のことは自宅に帰ってから知りました」


 私が発見されたのが、十七時半過ぎであり、学校から十分近くかかる場所であったことを考えると、部長は完全に白である気がした。もちろん、茶道部のみんなを疑っているわけではないが、アリバイがあるときっと柊も安心するだろう。


「夏条先生は、確かこの日は午後から研修会で出かけていらっしゃいましたね」


 女性が、部長と先生に視線をおくる。二人はほぼ同時に頷いた。


「先生が午後から研修会だというお話は、前々から伺っていました」


「研修会が終わったのは、何時ごろですか?」


 今度は夏条先生に向けられた質問だった。先生も、何度も聞かれているのか、慣れたように答える。


「十六時ごろです。会場は隣の駅の近くでしたので、駅のカフェで資料をまとめ、簡単な報告書を作りました。その後は帰宅するつもりでしたから、帰路につくべく電車を待っていました。そんなときに、橘さんの事件のことを学校からの電話で知ったのです。電話があったのは十八時頃でした」


「ありがとうございます」


 女性はメモを取り、その帳面をじっと見つめていた。


「では次に、水野さんのお話を伺ってもいいですか?」


「ああ、はい」


 水野先輩は、手にしていた湯呑を畳の上に置くと、軽く姿勢を正し、女性のほうを見た。


「俺はあの日、解散した後すぐに、橘さんと上谷と一緒に学校を出ました。普段から、途中まではよく一緒に帰ってたんです。あの日は、街で勉強する予定があって、大通りに入ったあたりで二人とは別れました。それが十七時十分過ぎくらいのことだと思います」


 水野先輩と上谷君とともに、途中まで帰るのはよくあることだった。普段は公園に面した道で分かれる。そこは、街のメインストリートからは少し離れた場所だった。そのあと私は、大抵そこで柊と待ち合わせをしていた。その場所から近道を通ると、驚くほど早く家に帰ることができるのだ。その近道こそが、あの人気のない路地裏を通る小道で、夕方は危ないからと柊がわざわざ送ってくれていた。だが、幽霊になってからの出来事を振り返ると、事件の日はどうやら柊と一緒に帰っていなかったらしい。柊がどうしても忙しい時などは、今までにも一人で帰ることはあったが、最近では珍しい。


 不意に、また得体の知れない不安に胸が締め付けられた。この感情は何だろう。深く考えたくないと、本能的に思う。考えてはいけない、という表現のほうが近いのかもしれない。


「それについて、上谷さんは?」


「先輩の言葉通りです。相違ありません」


 淡泊に、上谷くんはそう言い放った。女性の方を見向きもしない。今日はあまり機嫌がよくないらしい。事件のことを蒸し返されるのが、嫌なのかもしれない。


「では、水野さんと別れた後は、どうしましたか?」


 一瞬の沈黙が部室を駆け巡る。その間に、彼が膝の上でぎゅっと手を握るのが分かった。


「僕らは、いつも通りでした。橘さんと他愛もない話をしながら、橘さんが、黒川先輩と待ち合わせをしている場所まで、一緒に歩きました」


「黒川先輩というのは、橘さんの隣人の黒川柊さんのことですか?」


「そうです。あの日、一つだけいつもと違ったのは、その黒川先輩が待ち合わせ場所に来なかったことです。……正確に言えば、あの日は先輩に用事があったようで、橘さんを迎えには行けないといった旨の連絡を、橘さんが受けたようです。僕が送ろうかと申し出ましたが、断られてしまったので、そのまま橘さんとは別れました」


 あの日、やはり柊は来なかったようだ。柊にもいろいろと用事はあるので、それ自体は至って普通な話だが、今まで柊の口からあの日待合せなかった理由を聞いていないことに違和感を覚えた。訊いていないから答えなかったと言われればそこまでなのだが、私に隠したい理由でもあるのだろうか。


「では、上谷さんが、橘さんと一緒にいた最後の一人ということですね?」


「その言い方は疑われているのかとふつうは腹を立てるところなんでしょうけど……。生前の彼女の傍にいた最後の一人というのは、なんだか響きがいいですね。黒川先輩に勝ったような気がして悪い気分ではないです」


 ここにきて、上谷くんはようやく表情を緩めた。彼は柊に対して、何か対抗意識でも持っているのだろうか。柊といい、上谷くんといい、お互いの話題が出るとすぐこれだ。


「言い方が悪かったですね。犯人以外では、最後の一人という意味です」


「わかってますよ。たぶんそうなるんでしょう」


 別れ際、私は上谷くんとどんな言葉を交わしただろう。きっといつも通りの、とりとめのない挨拶だったのだろうが、恐らく生前の私が口にした最後の「バイバイ」を彼は聞いているのだ。こんな言い方をすると、確かに柊は面白くなさそうな顔をするかもしれない。

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