第18話 不可思議の始まり

 私の葬儀が終わり、新たな週が始まった。久しぶりに降った小雨のせいか、公園を歩く人の姿も少ない。


「私、傘さすの初めてなんだ! 雨に濡れるのも好きだけど、一度くらい傘さしてみたいと思ってたの」


 ここ数日、陰鬱な雰囲気を醸し出していた柊とは対照的に、シーカは無邪気に駆け回っていた。ビニール傘をしきりにくるくると柄を回しては、水滴を跳ね飛ばして回転する傘の様子を眺めている。その純真さに少しだけ救われるような気がする。今日は柊も早く帰ってくるようだし、このままシーカと散歩をするのも悪くないかもしれない。


「気を付けて歩かなきゃ、転んじゃうよ」


 はしゃぐシーカに笑いかけると、彼女は傘を私のほうへ傾けた。身長差はさほど無いので、ビニール傘の下に二人とも収まってしまう。


「はい、花菜ちゃんも!」


「シーカ、私に傘はいいよ。幽霊だもん」


「いいの、一緒に行こう。私がこうしたいだけなの」


 鼻歌交じりで、軽く傘を揺らしながらシーカは歩き出した。いつもにも増して楽しそうなシーカを見ると、こちらも少し胸が弾む。


 人に傘を差しだされるのは、新鮮な気分だった。生前は、いつも折り畳み傘を持ち歩いていたから傘に困ることはなく、むしろ千夏や深華に差し出す側だったのだ。


「水たまりだ!」


 大はしゃぎのシーカは、靴が濡れるのも厭わずに小さな水溜まりの上を渡り歩いていた。私もそれに従うように、歩幅を合わせる。


「シーカは、雨が好きなんだね」


「とっても楽しいよ。花菜ちゃんは、雨好き?」


「雨音が好きだよ」


 シーカは不意に目を閉じると、その場に立ち止まった。私もシーカの一歩先で立ち止まる。


「確かに心地よい音だね」


 数秒ののちに、シーカは目を開けるとそう言い放った。わざわざ雨音に耳を澄ませていたのだろうか。私の言葉に、そんなにも真摯に向き合ってくれることが嬉しくて、思わず頬が緩んでしまう。


 再び二人で歩き出す。歩いているうちに、私が絶命した路地裏まで来ていた。深華や上谷くんが供えてくれたお菓子と、初夏の厚さで草臥れた花束が、雨に濡れていた。この雨が、拭き取りきれなかった見えない血の名残も洗い流してくれるだろうか。


「詩歌さん?」


 不意に、背後から声をかけられ、私とシーカはほぼ同時に振り返る。そこには紺色の傘を目深にさした、制服姿の男子生徒がいた。


「あなたは、上谷くん?」


 シーカは紺色の傘の中を覗き込むように首を傾ける。それを受けてなのか、彼は傘の柄を軽く肩に寄りかけた。いつも通りの、どちらかといえば不愛想に見える上谷くんの顔がようやく露わになる。


「そうですよ。今日はずいぶんと調子がよさそうですね」


「ええ、雨だから、とっても楽しいの」


「お兄さんは怒るんじゃないですか? こんな雨の日に出歩いたら」


「平気だよ。これから待ち合わせしているんだもの」


「本当に、黒川先輩はお兄さんなんですか?」


 上谷くんは淡々とした調子を崩すことなく、核心を突くような質問をするとシーカの隣を陣取った。シーカは少し困ったような顔をして、私に向き直る。ここで怪しまれてはかなわない。私はとっさに首を横に振った。


「話題をそらそう」


 シーカは本当に微かに頷くと、再び上谷くんのほうを見上げ、微笑んで誤魔化した。


「上谷くんは、ここで何してるの? 学校じゃないの?」


「人の質問には答えないくせに、人に質問はするんですね」


「……えへへ」


「橘さんにお供えでもしようかと思い立ったので、授業はサボりました」


 その言葉通り、彼の手にはコンビニのビニール袋が提げられていた。また、私の好物を買ってくれたのだろうか。こんな雨の日にまで、私を気にかけてお供えしてくれるなんて、上谷くんは本当に律儀な人だ。


「その不自然に空いた詩歌さんの隣には、誰かいるんですか?」


 上谷くんの視線が、私のほうへと向けられる。見えるはずもないのに、目が合ったような気がした。シーカはそんな上谷くんの洞察力に感激したように目を輝かせているが、私は気が気ではなかった。まさか私の存在を見抜くとは思えないが、万が一、上谷くんに私の存在が知られてしまったら、後が面倒だ。柊が機嫌を損ねかねない。


「上谷くんは、どう思う?」


「いるんでしょうね。わざわざ、傘をさしてあげたいと思うような相手が」


 上谷くんが私のいる空間を見つめたまま、ふっと笑んだ。普段不愛想な彼にしては、珍しい表情だった。


 そのまま上谷くんは、道の先の私が絶命した現場へ歩み寄り、コンビニの袋からお菓子や缶ジュースを取り出して、草臥れた花束の周りに供えた。私たちもゆっくりとその後を追う。しゃがみ込んだ上谷くんを、背後から見下ろす体制になった。


「家の庭にも、詩歌さんのような存在が時々来ますよ」


 何の前触れもなく、上谷くんはぽつりと呟くと、不意に立ち上がりシーカと視線を合わせた。


「私のような存在?」


「そいつがこの間、面白い話をしてくれました」


 とぼけて見せるシーカを他所に、上谷くんは淡々とした調子で告げる。


「予定不調和の命が、まれに猫に入り込む……って」


 上谷くんがあまりにも大真面目に風変わりなことを言うので、思わず笑ってしまった。彼と話していると、飽きることがない。


「やっぱり、上谷君って変わってる――」


 苦笑交じりにシーカに語り掛けて、不意に口をつぐんだ。シーカは普段のあの温厚な表情を捨てて、どこか睨むように上谷くんを見据えていた。こんな険しい表情をしたシーカは初めて見る。怒っているというよりは、彼のことを警戒しているようだった。それこそ、黒猫のような、怜悧な鋭い瞳で。


「……そう、不思議な話だね。どうして、そんなこと私に教えてくれるの」


「気づいてないんですか? 詩歌さん、橘さんと黒川先輩によく似ておいでですよ」


 上谷くんは意味ありげにゆっくりと微笑む。二人の間に重苦しい沈黙が訪れた。雨音が妙に大きく聞こえる。シーカもぶれることのない視線で、まっすぐに上谷くんを見つめていた。


「お迎えが来たようですね」


 十数秒の沈黙ののちに、唐突に上谷くんはそう呟くと、半身後ろを振り返った。シーカは相変わらず睨むように上谷くんを見ていたが、私は彼の視線の先を辿った。


「ここにいたのか、詩歌。それに、上谷まで」


 黒い傘をさして、教科書の入った鞄を持った柊が、十歩ほど離れた先で私たちを見つめていた。相変わらず、上谷くんは人の気配に気づくのが恐ろしいほどに早い。


「お久しぶりです、先輩。橘さんのお葬式以来ですね」


「そうだな」


 柊はシーカの険しい視線に気づいたのか、どこか警戒するような素振りで上谷くんを見やった。上谷くんは軽く微笑んだまま、溜息をつく。


「やましいことは何もありませんよ。少しお話をしていただけです」


「その割には、詩歌の元気がないが」


「心当たりがありませんね。俺はただ、猫の話を少ししただけですし」


 上谷くんはもう一度軽く息をつくと、肩によりかけていた傘を草臥れた花束の上に置いた。


「ああ、そうだ。明日、茶道部は事情聴取されるそうですよ」


 傘を置いた上谷くんは、自身が雨に濡れることを厭う素振りも見せずに思い出したように呟いた。


「事情聴取? 花菜の件で?」


「もちろん、そうです。先輩のもとに、警察が行くのも時間の問題でしょうね」


「嫌に含みのある言い方だな」


「はっきり言ったほうがいいですか? 妹さんの前で」


 上谷くんは、横目にシーカを捉えながら微笑んで見せた。それも、どこか嘲笑に近い笑みだった。今日の上谷くんはいつになく表情豊かだ。


 対して柊は笑いも睨みもせず、ただじっと上谷くんを見ていた。普段の二人とはまるで正反対だ。


「みなさんの邪魔をしてもいけないので、俺は帰ります。ではまた」


 上谷くんは傘を置いたまま、雨の中をそのまま歩き出す。詩歌も柊も止めることはなかった。二人とも黙って彼の後ろ姿を見送っていた。


 ようやく彼の姿が見えなくなった頃に、柊は溜息交じりに呟く。


「みなさん、か」


 上谷君は、私だとはわからないにしろ、シーカの隣に何かがいることを信じ切っているようだ。彼の庭に来るシーカのような存在とは、以前シーカが言っていた友だちの猫のことなのだろうか。それに、「予定不調和の命」という言葉を聞いた時の彼女の豹変ぶりも気にかかる。


「シーカ」


「ごめん、花菜ちゃん。聞きたいことがたくさんあるのはわかってる。でも、まだ話したくないの」


 柊が怪訝そうに私とシーカのやり取りを見つめていた。止みかけていた雨が再び強まる。不穏な空気だ。


 私は軽く息をついて、上谷くんの置いて行った紺色の傘を見つめた。その傘も、きっとお供え物の一つなのだろう。私が雨を凌げるようにと、置いて行ってくれたのかもしれない。優しい人だ。優しくて、不思議な人。


「帰ろう」


 どことなくぎこちない空気を背負ったまま、ぽつりと柊が告げる。静かな声だった。けれど雨音に掻き消されはしない、私の好きな声だ。


 柊は俯くシーカの腕をとって、そのまま歩き出した。私も慌てて二人に従う。雨は、まだ、止みそうにもなかった。





 夜の帳が降りた外の世界を一瞥して、柊はカーテンを閉める。ソファーのクッションの上では、黒猫姿のシーカがぐっすりと眠っていた。シーカは、柊の部屋に帰ってくるなり、すぐに横になってしまった。上谷くんとの会話がよほど堪えたと見える。彼女がこれだけ動揺してみせるということは、おそらく上谷くんの言ったことは彼女の正体の核心に迫ることなのだ。これは、柊と共有しておくべき情報なのだろうと思い、ひとまず私が見聞きしたことを柊に伝えたが、私が死んでからというもの、超常現象に巡り合ってばかりの彼は特段驚いた風でもなく、冷静に私の話を聞いてくれた。


 カーテンを閉め終えると、柊は私の隣に腰を下ろし軽く息をつく。普段話しているときは意識していなかったが、こうして横顔を見ると、柊の表情にはやはり疲労の色が滲んでいた。


「まあ、シーカの正体は何だって構わない。花菜をこのまま留めておいてくれるなら、それで満足だ」


「知りたいとは思わないの?」


「変にシーカを刺激して、花菜が見えなくなるのが怖い。今だって、上谷と話をしただけでこのざまなんだ。それなら、知らなくていい」


 確かにシーカの動揺の仕方は、傍目には異常と思えるほどだ。そっと、眠るシーカの背を撫でる。今は安らかに眠っているようだった。


「柊がそこまで私を留めておきたいと思ってくれるなんて、嬉しいな」


 淡々としているようで、柊は好奇心旺盛な面がある。知りたいと思ったことは、満足いくまで調べるのが彼の癖だった。宇宙のこと、文豪のこと、政治のこと。彼が興味を持つ分野は数えきれない。そして私は、彼の貪欲に知識を追い求める姿が好きだった。その真剣な横顔に、何度、目を奪われたかわからない。その柊が、知りたいと思うことよりも私の存在を優先しているのだ。


 そこまで考えて、不意にシーカの背を撫でる手を止める。嬉しい。そう口にしてしまったが、本当によかっただろうか。柊が私に依存するような状況は、決していいものとは言えないはずなのに。


「……でも、柊、私のために好きなものを諦めたりしないでね」


「何の話だ?」


「いや、何でもないよ」


 生前は、ただ喜ぶだけで済んだはずの言葉が、こんなにも怖い。柊に優先されるのは嬉しいことなのに、死んでしまった今となっては憂いがまた一つ増えていくばかりだ。私は、いつまで彼の傍にいられるのだろう。


「柊、事件に関係があるかはわからないけれどね、今度、夏条先生を一日付けてみようと思うの。私、やっぱり気になるんだ、先生と私のお父さんのこと」


「まあ、どこから糸口がつかめるかわからないからな。悪くない案だとは思う。悪趣味だけどな」


 柊は私をからかうように小さく笑うと、写真をテーブルの上に置いた。どうせ柊が大学に行っている間は、重力に慣れるため散歩を繰り返す他にすることがないのだ。一日くらい、幽霊の特性を生かして様子を見ても無駄にはならない。


「でも、それは明後日以降にしよう。明日は茶道部の事情聴取だ」


「私、行ってくるよ。みんなの話、聞いてくる」


 千夏は来るだろうか。ふと、雨に打たれていた彼女の姿を思い出して胸がきゅっと痛んだ。あれだけ混乱している彼女に、事件の話をさせるのは酷なような気がした。


「辛ければ、無理しなくていい」


「平気だよ。私、自分が殺されたことに関しては、辛いとか悲しいとか思ってないから。むしろ、殺してくれてありがとうって言いたいくらい」


 心配そうに私を見つめる柊の視線から逃れるように、敢えて明るく言い放った。


「どういたしまして」


 その言葉に、一瞬手を止めてしまう。笑うように滑らかに放たれたその言葉は、ありもしない寒気を呼び起こした。


「……って俺が言ったら驚く?」


 冗談なのか本気なのか、見極められない。私はまじまじと柊を見つめてしまった。柊の冗談はいつでもわかりづらいから、今回もきっとそうなのだろう。


「うん。……ちょっとびっくりしたよ」


 笑おうと思っても、とってつけたような作り笑いしかできなかった。なぜだろう。柊を疑う気持ちなど、微塵もないはずなのに。


「冗談だよ」


「……わかってるよ。相変わらず、わかりづらいなあ」


「本当に驚いてたな」


「そうだね。心臓が止まるかと思ったよ、もうないけど」


「生きてても死んでても、花菜は変わらないな」


 穏やかな顔でそう言って、柊はソファーの背にもたれかかった。不思議と、まだ緊張している自分がいる。


 今日もまた少し、柊のことが見えなくなった。日に日に私の知っている柊が霞んでいく。一体あといくつ、私の知らない柊の一面があるのだろう。それを知るのは楽しいことであるはずなのに、心に募っていくものは得体の知れない不安ばかりだった。

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