第17話 疑念の始まり

 ホールの外は、係員や葬儀屋関係者などが時折行き来しているだけで、参列者の姿は見当たらなかった。ちょうど、昼食会の最中なのだろう。シーカと接触するにはいい機会なのかもしれない。ひとまず自動販売機を探して、私たちは良質な絨毯の敷かれた大きな階段を上った。ホールの上のフロアには、ちょっとした休憩所のような場所があり、そこで自動販売機を見つけることができた。柊は適当にお茶を買うと、二口ほど口に含んで、蓋を閉めてしまう。水分不足にならないか心配だ。


 ホールの雰囲気から逃れて、私も一息つくことができた。姉は、病院へ送り返されただろうか。調子のよいときは病室から出られることもあるそうだから、機を見て抜け出してきたのだろう。だが、この一件でしばらく出してもらえなくなることは間違いない。


「私にもお茶ちょうだい、柊くん」


 ぼんやりとしていたせいか、不意に背後から声が聞こえて驚いてしまう。振り返れば、何食わぬ顔でこちらを見つめる黒ワンピースの少女の姿があった。今日に限っては、その服装は場の雰囲気によく合っている。何の違和感もない。


「……お前、その姿で平気なのか。誰かに見られたらどうする」


「流石に式の最中は猫の姿だったけど、ホールの外では別に怪しまれないよ」


 シーカは得意げな表情で笑った。柊はそれでも危ぶんでいる様子だったが、それ以上は何も言わずペットボトルを手渡す。ペットボトルを受け取ったシーカは、難なく蓋を開け、おいしそうにお茶を飲み始めた。やはり、シーカへの憑依時に蓋もあけられないのは、彼女のせいではなく私のほうの問題らしい。薄々分かっていたことだが、もっと努力する必要がありそうだ。


「思ってたより、淡々としてる式だったね。むしろ式が終わってからのほうがいろいろとありすぎて困っちゃった」


「どこから見てたんだ」


「最初からかな? 柊くんは本当に花菜ちゃんが好きなのね」


 あのやり取りを見られていたのは、私も若干恥ずかしい。シーカの目があることをすっかり忘れていた。


「やっぱり、二人には幸せになってもらいたかったな」


 ぽつりと、彼女には似合わぬ憂いをのせてシーカは呟く。軽く伏せたその瞳には、今まで見たことのない強い感情が滲んでいた。それが憎悪なのか悲しみなのか、私にはわからないが、相手の心を揺らすほどに鋭い何かだということはわかる。


「私は、今も幸せだよ」


 シーカにそう笑いかけると、彼女は何とも切ない微笑で返してきた。シーカはそのままペットボトルの蓋を閉めると、柊に手渡す。喉が渇いていたのか、お茶は半分程度に減ってしまった。


「ああ、そうそう! あの男の子のことだけど!」


 神妙な面持ちから、急に思い出したようにシーカは切り出す。


「ほら、朝、柊くんと話してた、あのくせっ毛の男の子! 猫飼ってるって言ってた」


「上谷のことか?」


「やっぱり、何かあるの? 上谷くん」


 シーカは大きく頷いて、興奮したように告げる。一体、どんな秘密があるというのか。


「あの子、私の友だちの友だちなの!」


 身構えていただけに、少し笑ってしまった。随分遠い繋がりだ。


「私の友だちは、ずいぶん前からあの子の家に入り浸ってるみたい。あの子の家の人は、私たちのような存在に敏感らしいね。たまにいるんだ、そういう人。花菜ちゃんたちの言う、第六感ってやつかな。それが他の人たちよりも強い感じ」


「花菜やお前のことに気づくレベルで第六感があるのか?」


「そこまでは、どうかな。でも、あの子なら花菜ちゃんがここにいるよって言えば、信じてくれそうだよね」


 確かに、上谷君は人の話を否定しようとはしない。嘘を見抜くことはあっても、誰かの言葉を嘘だと言ったこともない。他の人に見えない存在を感じ取っている分、頭ごなしに人の話を否定するということはしたくないのだろう。そう考えると、彼のささやかな優しさの理由がわかってくる気がした。上手く伝えることができれば、柊の協力者になってくれるかもしれない。


「柊、上谷くんに教えてあげたら? 私がここにいること」


「嫌だ」


 まさか即答されるとは思っていなかっただけに、僅かに戸惑ってしまう。シーカはそんな柊を見てくすくすと笑っていた。


「何で、俺がわざわざ上谷を花菜に会わせてやらないといけないんだ。あいつが自分で気づきでもしない限り、教える気は全くないね」


「大人げないなあ、柊くん」


 シーカにそういわれると、柊は面白くなさそうな顔をして、視線を背けてしまった。珍しくムキになる柊が、何だか微笑ましくて、私まで笑ってしまう。


「そうだね、私は、柊に見てもらえていれば、それでいいし。わざわざ教えてあげる必要もないね」


「そうだ。必要ない。上谷の助けなど借りなくても、何とかなる」


 今日初めての気の緩んだ空気に、私もシーカもしばらく笑い続けた。おかげでかなり気分が楽になったように思う。


「笑いすぎだ。そろそろホールに――――」


 そう言いかけながら、廊下へと一歩踏み出した足を、柊は不意に止める。何かを窺うような素振りだった。


「柊? どうしたの?」


「誰かいる。お前はこっちへ来い」


 柊は小声でそういうと、シーカの腕を掴み、壁側に寄せた。シーカは若干不満そうだ。


「そんなに警戒しなくても大丈夫だと思うんだけどなあ」


「俺が面倒なことになるだろ。万一、上谷だったら余計面倒だ」


「じゃあ、私が様子見てみるね」


 こういう時に幽霊は便利だ。気づかれずにあっさりと、相手の様子を調べることができる。私は休憩所から廊下へ出て、声のする方を見据えた。


 廊下の奥には、夏条先生と礼服姿の男性の姿があった。先生は、その男性の傍に寄り添って何やら声をかけている。詳しく聞き取ることはできないが、親密そうな雰囲気だ。その男性は先生よりも一回りほど年上に見えた。背の高い、凛とした感じの人だ。先生の旦那さんかとも思ったが、先生が既婚者だという噂は聞かない。学校関係者にも、見ない顔だった。


「誰だ?」


 シーカの腕をつかんだまま、壁を背にして柊が尋ねてくる。ひとまず、見たままのことを伝えた。


「夏条先生と、知らない男の人だよ」


「夏条先生? なら、別にいいか……」


 柊はシーカの腕を放すと、休憩室の壁を背にしたまま、廊下のほうへ軽く顔を出した。何だか、張り込み捜査みたいだ。柊と一緒だと、わくわくしてしまう。


 だが、柊は夏条先生とその男性の姿を見るなり、顔色を変えた。そして今度は私の腕をつかみ、壁のほうへと引き寄せる。柊にしてはかなり動揺しているようだった。


「花菜、あの人……」


 小声のまま、それでいてどこか焦ったように柊は切り出した。その言い方からして、夏条先生ではなく、あの男性のことを指しているのだろう。


「柊の知り合い?」


「馬鹿。覚えてないのか? 花菜のお父さんだろ」


「お父さん?」


 そういわれたところで、残念ながら顔も思い出せない人だ。私が幼いころに出て行ったきり、一度も会っていないのだから、仕方ないだろう。写真くらいはあるのかもしれないが、生憎自分の顔が嫌いな私は、家族写真をわざわざ見返すことなどしたことがない。記憶にないのも当然だった。


「何で、夏条先生といるんだ? 知り合いなのか?」


「そんなのわからないよ。本当に私のお父さん?」


「間違いない。小さいころ、いつも声をかけてもらっていたからよく覚えてる」


「花菜ちゃんのお父さん? 私も見たい――」


「頼むから、今は黙ってろ」


 そういって柊は片手でシーカの口を塞ぐと、慎重に二人の様子を伺っていた。シーカには申し訳ないが、私も気になるので、息を殺して、二人の会話に注意を向ける。耳をすませば、会話の内容も聞き取れそうだった。


「元気を出して、明人あきとさん。何か口にしないと、体に悪いですよ」


 教室で聞くのとはまるで違う、甘さを含んだ夏条先生の声。


「こんなことになるなんて、思わなかったんだ。あいつが、花菜に目をかけてやっていないことはわかっていたが……。まさか、こんな……」


「……明人さんのせいじゃないわ」


「いいや、あいつに任せた僕が悪かったんだろう。涙一つ見せないとはな……」


「確かに、冷たそうな人ね。花菜さんが可哀想」


「ああ、本当に可哀想でならない。どれだけ辛かったか……」


 涙ぐむような素振りを見せるが、残念ながら私の心には何一つ響かなかった。とりあえず、この二人が特に親しそうな間柄だという事実だけを得て、私は柊に視線を向ける。


「不倫、ってことになるのか。これは」


 柊がかなり戸惑ったように私を見る。混乱と呆れが混じったような柊のその表情は、初めて目にする気がした。


「夏条先生結婚してるの?」


「いや、花菜の両親は離婚してないだろ。別居状態ってだけで」


「そ、そうなの?」


 もう、とっくに別れているものだと思い込んでいた。これには驚きを隠せない。書類を出すだけだというのに、何を躊躇っているのだあの夫婦は。


「奈菜の病気のことがあるから、花菜と奈菜が成人するまでは届は出さないって決めたらしい。昔、親に聞いた」


「まあ、でも、事実上、離婚状態なんだから、構わないんじゃない?」


「夏条先生は、もう少しまともな人だと思ってたんだがな。一応は、自分の生徒の父親だろう」


「海外で出会ったのかもね。だとしたら、すごい偶然」


 それにしても、高校の担任教師である夏条先生の選んだ相手が私の父親とは、大した巡りあわせだ。夏条先生は、私を見る度、一体どんな心地でいたのだろう。見ていてそう気分の良いものでもなかったはずだ。


「これを機に、私の両親が離婚すればいいけど。そうしたら、夏条先生も幸せになれそう」


 私の死が、また思わぬところで誰かの幸福を招いている。本当に、私は疫病神か何かだったのではないかと疑うくらいに、上手くいくことばかりだ。


 一方で、柊は何かを考え込んでいるようだった。シーカの口を押えたままだということを忘れていそうで、少々心配になる。シーカは逃れようと足掻いているが、上手くいかないようだった。


「柊、そろそろシーカを離してあげたら?」


「忘れてた。悪い」


 やっとのこと解放されたシーカは、多少恨めし気に柊を見つめ、大きく深呼吸をする。柊は相変わらず何かを考え込んだまま、シーカの視線などには気づいていない様子だった。


「あの人が、花菜ちゃんのお父さんかあ。背高いんだね」


 声を潜めて、シーカは私に笑いかける。確かに、見たところ父の背は高いが、残念ながら私の身長は平均より少し低いくらいだ。正直、もう少し背が高くなりたかったものだ。柊との身長差を縮めたかった。


「でも、花奈ちゃんのお父さんと先生が出会うなんて、すごい巡りあわせだね」


「巡り合わせ、か……」


 柊が訝し気に、その言葉を繰り返す。彼は、何を疑っているのだろうか。


「偶然に偶然が重なったと考えるのもな……。海外で偶然出会って、帰国した勤務先の高校に、恋人の娘がいるっていうのも出来すぎた話だと思って」


「先生は、わざと私の高校を選んだってこと? そんなタイミングよくいくかな」


 確かに先生は、私が入学したのと同じ年にあの高校に着任している。一年間ほかの高校で、非常勤講師として勤めてから、採用された形だった。


「動機のあるやつが多すぎて困るな。今はもう、全員疑わしく思えてくるよ」


「疑うって? まさか、先生が私を殺したとでも?」


「無くはないだろ。こんな現場を見た後じゃ、疑いたくもなる」


「先生は、そんなことしないよ、きっと。少なくとも、あんな非効率的な殺し方をするとは思えない」


「花奈の致命傷は、首と足の傷だろう。そこに関しては、効率的な狙い方だと思う。その後、遺体を損壊する辺りの猟奇的な部分は、どうなんだろうな。誰にでも、見せない素顔はあるだろうし、無い話でもない」


「先にお腹を刺したかもよ? 決めつけるのは、柊くんにしては早計すぎるんじゃない?」


 意外にも、シーカが意見をする。確かに傷のつけ方の順番など、犯人にしかわかりようがないのだから推測の域を出なかった。


「だとしたら、相当散々な殺され方してるんだな、花菜は。痛みで意識がなかったことを願うしかないよ」


 シーカが平然と血なまぐさい話をするのは妙な光景だ。だが、思えばあのぐちゃぐちゃの「私」の傍で、何事もなかったかのようににゃあにゃあ鳴いていたのだから、こういった話が苦手というわけでもないのだろう。シーカはまるで子供のようなところがあるから、残酷なことにも、ある程度、耐性がありそうだ。


「考えるべきことがまた増えたな」


「ごめんね。私が思い出せれば、すぐに終わる話なのに」


「もう、思い出そうとはしなくていい。シーカの言葉を聞いたら怖くなった。どの道、遺体のあの様子を見る限り、ろくな殺され方はしてないんだ。忘れてしまったなら、むしろ好都合だろう」


 確かに、私が記憶を取り戻したことで精神でも病んでしまったら、困るのは柊とシーカだ。実体のない私に唯一取り残されたものが、この精神体だというのに、わざわざ壊すような真似をするのも馬鹿らしい。


「そうだね。やめておくよ」


「それがいい。花菜は、何も思い出さなくていい」


「柊くんは、花菜ちゃんに、本当に思い出してほしくないんだね」


「含みのある言い方だな。はっきり言えばいい」


「言わないよ。花菜ちゃんのお葬式の席だもの。事件はもう散々起きたもん」


 思い返せば、今日は朝からある意味、災難続きだった。柊にとっては、特にそうだろう。上谷くんの登場から雲行きが怪しくなり、そこから奈菜の登場、夏条先生の不倫現場を目撃、と大嵐に見舞われたようなものだ。平穏な葬儀になるはずもないことはわかっていたが、ここまでいろいろあるとは私も思っていなかった。


 波乱の一日も、もうすぐ終わる。数時間後に私が灰に還されれば、ひとまず私の人生に、終止符が打たれるのだ。それを待ち遠しく思いながらも、灰になった私を見つめる柊の横顔を想像しては、胸がぎゅっと締め付けられるように痛かった。あの暗い目を見るたびに、傷が抉られていくような感覚だ。柊をそんなにも苦しめているのは、私だ。彼が背負ってしまった闇は、恐らくもう消えることはないのだと思うと、絶望がまた一つ、私の心を蝕んでいった。






 今日もまた、誰かにとっては何気ない一日が終わっていく。鮮やかな夕焼けが、通学路を染めていた。小さな箱に収められた私を片手間に抱えて、誰かと通話をするあの人の後ろ姿を見る。大方、奈菜に関することなのだろう。彼女は無事に病院へ戻ったのか、容体はどうか、と絶えることなく、質問を繰り返しているに違いない。あの箱は、片手で持つには重たそうだ。


 柊はもう、そんなあの人の姿を見ても、何も言わなかった。私を憐れむこともしなかった。彼の目は、暗く深く、やがて訪れる夜の色をしていた。星のない、暗い夜だ。話しかけても、彼は曖昧に微笑むだけで、言葉が返ってくることはない。今は、どんな慰めの言葉も、場に合わない呑気な話も、彼には届かないのだろう。今の私にできることは、ただ隣にいることだけだ。正直、悲しみに沈む彼の隣は居心地の良いものではないが、ここで離れてはいけない気がした。彼を繋いでいる糸を切りかねない。


 黒猫姿のシーカは柊の状況を察したのか、一声にゃあと鳴くなり、どこかへ歩いて行ってしまった。今日に限っては、こっそり柊の部屋へ上がり込むのは難しいと判断したのだろう。今夜もどこからか、私たちの姿を見守ってくれるのだろうか。また明日の朝には、何事もなかったかのようにふらっと現れるに違いない。私は彼女の姿を見えなくなるまで見送ると、そっと柊の手に触れた。


「お家に帰ろう、柊。もうすぐ夜が来るよ」


 彼の手を引くようにして、ドアへ向かう。柊は何も言わず、抗うこともなく、後に続く。心配そうに柊に声をかける柊のご両親さえも見えないふりをして、私たちは二階へ上がった。廊下には、夕日が差し込んでいた。ひっそりとした、もの静かな夕暮れだ。


 柊の部屋の前まで来ると、彼はドアノブに手を伸ばし、私の手を引いて入室した。彼は、そのまま何も言わずに私の手を放すと、礼服姿のままソファーに倒れこむ。皺になってしまいそうだが、そんなことを指摘できるような空気でもなく、私はそっとソファーの前に座り込んだ。


 横になった柊が視線だけでこちらを見つめている。ひどく疲れているようだ。私が微笑むと、柊は少しだけほっとしたような様子を見せる。


「今日はベッドで休んだら? そのほうが疲れもとれるよ」


 こんな時でも、柊は頑なに首を横に振る。いくら私が平気だと言っても、それでは彼の気が済まないのだろう。


「花菜」


 ぽつり、と私の名が零れ落ちた。柊は眠たいのか、焦点の定まらない目をしていた。


「どうしたの? 柊」


「早く、花菜のいるほうへ行きたい」


「私はここにいるよ」


 柊は力なくふっと微笑むと、目を閉じてしまった。どうやら眠ってしまったようだが、眠っているときさえも、その表情はどこか苦し気だ。


 窓から差し込む夕日が、次第に薄れていく。窓からわずかに見える空が、紺色に染まっていった。今日は何だか私も疲れてしまった。上谷君のこと、夏条先生のこと、奈菜のこと、考えるべきことはたくさんあるが、今は私も休みたかった。私は床に座り込んだまま、ソファーに寄りかかるようにして柊を見た。


 柊もいつか、灰になってしまうのだろうか。こうして触れている感覚があるのに、いつかこの手から擦り抜けていくのだと思うと不思議だった。できればそんな日は来ないでほしいと、幽霊の私が願うのもおかしな話だったが、彼の終わりの日を思うと目の前が暗くなるようだ。先に死ねて、よかったのかもしれない。いつかこの姿さえも消えてしまったら、もう失うことに怯えなくてもいいのだから。私は臆病者だ、と小さく笑って、ソファーの端に頭を乗せた。存在を確かめるように、眠る彼の手を握って瞼を閉じる。


 この手があれば、私は大丈夫だ。どこまででも歩いて行ける。

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