第16話 葬送の終わり
遺影の周りは、名前もわからない白い花で埋め尽くされていた。異様に広い式場なのに、見渡せばほとんどの席に人が座っている。クラスメイトや茶道部の部員、高校の教職員などでざっと五十人はいるが、それを除いても大勢いる。大人は、私の知らない人ばかりだった。父がいない以上、この人たちは全員母の知り合いや親戚ということになる。おそらく形式的に顔を出しているだけなのだろう。
最前列には、黒いスーツをきっちり着こなしたあの人が、座っている。当然のことながら、姉は来ていなかった。入院しているくらいなのだから、連れてこられるような状況でもないのだろう。だが、この光景を姉には見せてあげたかった。君の、一番目障りなドッペルゲンガーはもう消えたのだと、その目で確かめさせてあげたかった。
私が死んだことで、姉の症状はこれからどんどん良くなっていくだろう。もしかすると、普通に学校に通えるくらいにはなるかもしれない。一応、私と同じ高校を受けて、見事合格し、今も一応名前だけは在籍していることになっているので通い始めるのも手だ。姉は、学校に通っていない割に、私よりずっと頭が良かった。そこが、あの人に気に入られる一因でもあるのだろう。一方で私は、常に平均点くらいの、ごく普通の生徒だ。それは、あの人から見れば落ちこぼれだったに違いない。中学校までは、あの人に認めてもらいたくて、学年のトップ層に常に入るよう努力してきたが、どう足掻いたところであの人の目は私には向かないのだと悟った高校の合格発表の日の夕方、私は諦めてしまった。
あの人に認められるための努力はもうやめようと、あの時私は自分に誓ったのだ。そのかわり、私は私の好きな人に、好きでいてもらう努力をしようと、そう決めた。その対象は、友人であり、先輩であり、柊や柊のご両親だった。あの時から、少しだけ心が軽くなったような気がする。うっかり進学校に入学してしまったので、勉強の手を完全に休めることはできなかったが、自分の未来のためと思えば楽しくなった。早くあの家を出ていきたいという願望が強くなり、それまで興味も示さなかった料理を始めたりもした。下手でも少しずつ、自分のために挑戦していこう。これだけ追っても手に入らなかったあの人の愛は、もう要らない。自分に言い聞かせるようなニュアンスがなかったと言えば嘘になるが、それでもそう思えたことが本当に嬉しくて、これを機に家族への未練をすべて断ち切ろうと思い立った。
そして私は、あるとき、私の姿が映る家中の鏡をすべて割った。あんなに声をあげて笑ったのは、私の人生であの一度きりかもしれない。割れた破片でケガした手や足を、後日柊に怪しまれはしたが、料理で失敗しうっかり階段から落ちたと言えば誤魔化せた。
月に一度あの家に帰ったとき、鏡の残骸を見てあの人は何か思っただろうか。何も言ってこなかったところを見ると、きっと、そんなものに目を留める暇もないほどに、頭の中は姉と論文のことでいっぱいだったのだろう。仕方のないことだ。そして私も、それを悲しいことだとは思っても、寂しいとは思わなくなった。
寂しいという感情が、私は苦手だ。寂しいと思うことも、思われることも嫌いだ。「寂しい」の裏には、どこか傲慢さが隠れている。あなたが私の傍にいることは当然だと、高をくくったような前提の上で成り立っている感情だ。私には、傍にいることが当然、という存在はなかった。普通、それは家族なのだろうが、生憎私はそういう人たちを持ち合わせていない。柊が傍にいてくれるのは、大げさかもしれないが、私にとっては奇跡に近い。そんな奇跡が、今日まで続いたこと自体が幸運なのだと言い聞かせれば、柊が遠くへ行ってしまっても、「寂しい」とは思わずに済むような気がしていた。
だが、死んでみて初めて、「寂しい」と言われる側になると、本当にいたたまれない。「寂しい」といわれると、「死ね」よりも鋭く深く、心を抉られるような気がする。私が傍にいることは本当に当然だったのか、と思わず問い詰めたくなる。日常のほんの一片の景色のようなものだったくせに、今更なんだと言いたくなってしまうのだ。「寂しい」と口にする人は、みんな妙な独占欲の塊だ。私には、何もなかったのに。独り占めできる人がいないから、「寂しい」とも言えない。それがただただ、悲しかった。
だが、昨日の写真を見ていると、柊には「寂しい」と言われても、心を抉られることはないのだろうと思った。柊にとっては、私が柊の傍にいることは、きっと当然だった。視界の隅にあれだけ私をとどめておいてくれた人なのだ。私を柊の日常に繋ぎ止めておきたかったと言われても、納得はいく。むしろ私も、繋ぎ止めておいてほしかった。おかげで私はこんな不安定な幽霊だ。柊の傍で小さく笑って、私はすっと前を見据える。
クラスメイト達が、私の棺の前へ歩み寄って決まり通りの祈りを捧げた後、あの人に一礼して席に戻っていく。あの人もそのたび、会釈程度に頭を下げていた。クラスメイトの中には、涙してくれる人もいるのに、あの人は、涙一つ浮かべていないどころか心底退屈そうな表情をしていて、さっさと私が燃やされるのを待ち望んでいるようだった。
もう、あの人のことを考えるのはよそう。そう自分に言い聞かせて、私は柊の表情を伺う。暗い目で視線は伏せたまま、一見思い詰めたようにも見える表情で、じっと座っていた。式場に入ってからというもの、ずっとこの調子だ。少し不安になって、私はそっと柊の手に触れてみる。
「柊? 大丈夫? 気分悪いの?」
柊は視線だけで私を捉えると、儚い印象を与える笑みを浮かべた。泣き出しそうな、あの笑顔と似ているが、これは今にも消えてしまいそうな、とでも言ったほうがよさそうな微笑だ。柊がそんな弱弱しい表情を見せるとは思わなかった。手を握っていなければ、こちらのほうが不安になる。幽霊の私が思うのも妙な話だが、柊を繋ぎ止めておかなければ。そう思った。
やがて柊の番が来て、私たちは手を繋いだまま、棺のほうへ歩み寄った。ここからではよく見えないが、少なくとも血飛沫などは綺麗に拭き取られているようだ。そのくらいはしてもらわないと、とても人に見せられるようなものにはならない。
柊も手順通り祈り終えると、最前列のあの人を一瞥し丁寧に一礼する。あの人もそれに続いて会釈した。今日の柊は、あの人を睨むような視線で捉えることもない。その気力すら、彼には残されていないようだった。
柊が席に戻り、その後も淡々と参列者の祈りは続いていく。やがて、学校の関係者らがあの人に向かってお悔やみを述べ始める。発言者は校長だったが、その隣には担任の夏条先生が神妙な面持ちで立っていた。ふわふわとした綺麗な髪を、今日も質素に一つにまとめ、全身黒のワンピースで引き締まった印象を与えている。
その後も滞りなく式は続き、予定通りに終了した。この後は、休憩をかねての昼食会だ。喪服姿の参列者たちが、次々と席を立って食事会場へ向かっていく。次第に、人が少なくなっていく中、部長と水野先輩が心配そうに柊を見つめていたが、声をかけることなく出て行った。深華は柊を一瞥するにはしたが、千夏の手を引いたまま部長たちと共に出て行ってしまう。上谷くんだけが、通路から、席に座ったままの柊に話しかけた。
「昼食らしいですけど、いいんですか。行かなくて」
「そんな気分じゃない」
約二時間ぶりに聞いた柊の声は、酷く沈み込んでいた。いつもはちょっとした言い方の加減で、柊の感情が大体わかるのに、この声からは何も読み取れない。無気力というのが相応しいのだろうか。既に、限界などとっくに超えてしまったような調子だ。どうにか上谷くんに柊を連れだしてもらって、柊の気分を変えてもらいたいものだが、多分そう上手くもいかないだろう。
「そうですか。じゃあ、先輩の分のデザート、俺がいただいちゃいますね。先輩は、甘いものお嫌いでしょう」
茶道部で和菓子を食べる柊の姿を散々目撃しておいて、よく柊のついた嘘に気づけるものだ。彼には感心するしかない。
「デザート以外は、食べずにとっておいてあげますから、気が向いたら来たほうがいいと思いますよ。なんて、俺らしくないお節介ですかね。一応、橘さんの手前、カッコつけたくなっちゃいまして」
上谷くんは一度だけ私の棺のほうを振り返ると、会場を出て行った。彼にはどこまでわかっているのか、ますます気になる言動だ。
上谷くんが出て行ったことで、いよいよこのホールの中には柊と私の遺体だけが残された。こうなると、かける言葉にも迷ってしまう。食事に誘ったところで、断られることは目に見えていた。
柊は不意に立ち上がると、通路にでて、ゆっくりと棺のほうに歩き出した。慌てて私も後を追う。柊の暗い目は、今や私の棺だけを見つめていた。
柊は棺のすぐそばまで近寄り、目を閉じた「私」を見下ろした。棺のふたは開けられており、私は白いワンピース姿だった。ワンピースの裾からわずかに見えた太ももには縫合されたような跡がある。骨まで見えていたのに、綺麗にしてくれたものだ。この服の下は恐らく、この足ほど上手く誤魔化せてはいないだろう。臓物類は元の場所に戻せたかもしれないが、あれだけ切り裂かれた皮膚は、縫ったところでどうしようもない気がした。
柊はそっと「私」の頬に手を伸ばす。その仕草一つひとつが本当に丁寧で、大切にされていたのだなと、客観的に実感する。
「冷たいな」
柊は「私」を見下ろしたまま、ぽつりと呟いた。おそらくその原因は、血が通っていないことの他にも、棺にさりげなく入れられた保冷材のせいもあるのだろう。初夏とはいえ、こうでもしないと状態は保てないようだ。
「花菜」
柊は小さく微笑んで、「私」に向かって私の名を呼ぶ。今は、返事をしてはいけないような気がした。彼の言ったことを信じるならば、彼の愛情の一割は、私の姿に向けられていたものなのだ。彼は今、その一割の愛情とお別れをしているのだろう。ずいぶん丁寧なお別れだ。九割の愛情を向けられた私自身は、彼にどんなお別れをしてもらえるのだろう。そんな日が来ないことを願うが、ぼんやりと想像してしまう。願うなら、最後には、彼の言葉がほしかった。彼の声で、私の存在を認めてほしいと思った。
「花菜、綺麗にしてもらえてよかったな。白は、花菜に本当によく似合う。綺麗だよ、花菜」
聞いてる私が照れてしまうが、幸いにも柊の注意はこちらに向いていない。私は戸惑いを誤魔化すように、軽く視線を彷徨わせた。
不意に柊は、「私」の前髪を掻き上げると、露わになった額にそっと口づけた。親愛の印なのだろう。幼いころは、眠る前に柊がよくそうしてくれていたものだ。昔と同じように、柊が傍にいてくれるという安心感が、心の中に満ちていく。安らかに、眠れるような気がした。
「おやすみ、花菜」
そう言って笑った柊の目が、あまりにも切なそうで、私はたまらず柊の腕にしがみ付いた。まだ、私がいる。不完全な姿だけれども、柊が愛情の九割を向けてくれた対象はまだ、ここにいるのだと、ただ伝えたいと思った。言葉だってかまわないのに、どうしてかは分からないが、こうすることしかできなかった。
「……勝手なことしてごめん、花菜」
「ありがとう。私を送り出してくれて。安らかに眠れそうだよ」
「それは困るな。花菜自身には、まだ眠ってもらうわけにはいかない」
柊は「私」の前髪をもとに戻しながら、小さく笑う。髪の毛だけは、生前と大して変わらないように見えた。残念ながら、柊からもらった髪留めは外されてしまっている。捜査の関係などで、どこかに保管されているのかもしれない。
「独り言?」
「え?」
柊が怪訝そうに私を見つめる。私のほうが驚いている。私と同じ声で、私以外の何かが、柊に話しかけた。一瞬、棺の中を見てしまうが、遺体が喋りだすわけもない。
「私じゃないよ」
「こっちだよ。こっち」
背後から、私の声がする。怪奇現象よりも身がすくむ。この声を、当然ながら私はよく知っていた。抗いようもなく、肩が震えだす。
「独り言、なの? それとも死体に話しかけてる感じかな。だとしたら柊くん、私と一緒に来たほうがいいかもね?」
私と同じ顔、同じ声。身長までもぴたりと同じ。病院服姿で、点滴を無理に引き抜いたようにできた左手の傷から、赤が流れ出している。青白い肌をしていて、それは棺の中の私の肌ととてもよく似ていた。事情を知らない人が彼女を見れば、私が生き返ったとでも思うかもしれない。
「ねえ、本当に死んでる? それが気になってさあ、抜け出してきちゃった。嘘だったら、ほんと萎えるもん」
裸足でここまで歩いてきたらしく、彼女の両足は傷だらけでところどころ血が滲んでいた。そんな痛みなどまるで感じていないという風に、傷をいたわる様子もなく、彼女は私の棺の傍に歩み寄る。
「ふーん、これは、ほんとに死んでるっぽいね。良かったあ。これで私も一安心ってとこかな」
彼女は私には見せたこともないような満面の笑みで、「私」を見下ろすと、柊に視線を移す。
「ずいぶん、沈み込んでるね? 柊くん。そんなに、これが死んだのが悲しい?」
「黙れ。馴れ馴れしく呼ぶな。今すぐ病院へ戻れ」
柊が鋭く睨むように、彼女に対しての怒りを露わにする。柊と私の姉が二人きりになることなど、今までほとんどなかったが、鉢合わせたときはいつでもこんな調子だったのだろうか。いきなり不穏な空気だ。
「私、これの代わりになってあげてもいいよ? 顔おんなじだし、柊くんにとってはいい話なんじゃない?」
「お前と花菜が同じ? ふざけるなよ」
「ふざけてなんかないよ。だってこれ、私のドッペルゲンガーだもの」
くすくすと笑って奈菜は「私」を見下ろしていた。本当に機嫌がよさそうだ。今日は、かなり精神が安定している。彼女の場合、狂気寄りで安定するのが正常なのだ。つくづく姉とは思いたくない。
「……用が済んだなら、早く戻れ。お前がいなくなったとなれば、一騒動だぞ」
奈菜は意味ありげにくすくすと笑うと、ドアのほうを見据えた。
「早速ばれたみたい。一騒動だね」
「奈菜?」
ホールの入り口のほうから、彼女の名を叫ぶ声が聞こえた。そこには黒のスーツを着こなした、女性の姿がある。この上なく、最悪なメンバーが揃ってしまった。
「奈菜! 奈菜、どうしてここに? ああ、ケガをしているじゃない。靴も履かずに歩いてきたの?」
「平気だよ、このくらい」
「何を言ってるの! こんなところにきて、症状が悪化したらどうするつもり?」
「むしろ清々しい気分だよ。今日はいつになく、調子がいい」
私の聞いたこともないような声で、見たこともないような表情で、あの人は奈菜を心配していた。それは傍から見れば、紛れもなく子を案じる母の姿だった。叱責するようなその言い方も、彼女を思ってのことなのだとよくわかる。思えば私は、あの人に怒られたことがない。あの人の私に対する感情は、ほぼ無関心に等しかった。私には期待も失望もしなかったのだろう。案外、私は親孝行ものなのかもしれない。先立つ不孝は、この家ではきっと大歓迎だ。
「今すぐ病院に戻りましょう。傷を見てあげる。先生には、私から言っておくから病室でおとなしくしてなさい。夕方には行くから」
「大した傷じゃないよ。心配しすぎなんだって」
「心配するわよ。親なんだから」
「あー、わかったわかった。行くからさー」
奈菜はしぶしぶといった様子で棺から離れると、柊に髪飾りを手渡した。睨むように彼女を見つめる柊の目と、晴れやかに笑む彼女の目が合う。
「じゃあ、また今度ね。柊くん」
それだけを言い残して、奈菜はあの人に連れられて去っていった。怒涛のひと時だった。二人が出て行った後もなお、何だか居心地が悪いままだ。
「柊、あの、気にしないで」
「流石に気にするよ。相変わらずだな、あいつは」
「今日は機嫌いいよ。やっぱり、私が死んだからだね」
「あいつが死ねば良かったのに、とは思わないわけだ?」
「思わないよ。奈菜が死んだら、あの人が悲しむでしょう」
柊は軽く溜息をついた。そのまま、視線を私のほうへ向ける。
「花菜は、つくづく報われないよな」
「……そんなこともないよ。ねえ、気分転換にでも行こう? なんか、息が詰まっちゃった」
姉のあの独特な雰囲気が、今もこの場を支配しているようで、良い気分ではない。呼吸をしているわけでもないのに、ひどく、息苦しく思った。
「ご飯は食べなくていいの? きっと美味しいもの出るよ」
「そんな気分じゃない」
「じゃあ、せめて、水分補給しようよ」
私は柊の手を引いて、半ば強引に通路を歩き出す。柊は諦めたようだった。もう一度溜息をついて、そのまま素直についてきてくれる。いつもとは、立場が逆だった。誰かの手を引くというのも、案外悪くないものだ。
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