第13話 歪の始まり

「私と付き合ったのだって、きっとね、逃げるためだったのよ。彼には、とても大切な女の子がいてね。彼、私といるときでも、いつもその子のことを見ていた。でも時々その子が、楽しそうに同級生の男の子と話しているのを見てしまって、とても暗い顔をしていたわ。その男の子は、彼女の恋人か何かだったのかしらね。二人の姿を頻繁にみるようになったころに、不意に彼は私の告白を受けてくれたの。ずっと渋っていたのにね」


 本当、笑っちゃう、と架夜さんは風になびいた髪を耳にかける。架夜さんと付き合っていたのが、そんな消極的な理由だとは思いもしなかった。


「念願だった彼の恋人になれて、それはそれは楽しかったけれど、彼は相変わらず、その女の子を見ていたわ。彼、一度好きになったものはとことん好きだから、仕方ないけれどね。でも私、それで構わなかったのよ。彼が誰を好きであろうと、私を隣においてくれるのなら」


 架夜さんほどの綺麗な人が、一人の人間にそれほど執着するとは意外だった。柊は確かに魅力的だが、それほどまでに架夜さんを引き付ける何かがあったのだろうか。


 架夜さんは、一応は初対面である私に淡々と語り続けた。微笑みが少しずつ、笑みに代わっていく。


「でも、一か月もたたないうちに、彼は言ったのよ。やっぱり、君じゃ駄目だった。だから、もう別れよう、って。忘れないわ、そういった時の彼の顔。そんな大切なことを言っているときにも、彼の目は私を見ていなかったんだもの」


 架夜さんは、笑顔を浮かべたまま、溜息をついた。その横顔は相変わらず、怖いくらい整っているが上手く感情が読めない。確かに、柊のその対応は少々失礼だ。架夜さんのプライドを、どんなに傷つけたことだろう。


「彼の大切な大切なあの子、可愛らしい、陽だまりみたいな子。いつも楽しそうに笑っていて、私だって嫌いじゃなかったわ。かわいい後輩だったのよ。でも、妬ましくないと言えば嘘になるわね。私が彼の幼馴染だったら、彼もあんな風に、あの綺麗な目で私を見てくれたのかしら」


 一瞬、息が止まったような気がした。高い場所から落ちた後の、すぐに息ができないあの感覚だ。そのくらいの衝撃だった。


「……幼馴染?」


「そうよ。彼とその女の子は、幼馴染なの。本当に、生まれたころから一緒にいたみたいね。彼は、妹のようなものだって言ってたけれど、私はそうは思わないわ」


 まさか、私が。一気に頭の中が混乱する。柊が私を大切にしてくれているのはわかる。でもそれが、架夜さんとの仲をこじれさせるほどだったとは思ってもみなかった。大体、架夜さんは勘違いをしている。私に恋人はいない。架夜さんは柊のことが好きだから、柊が私を見ているのを妬ましく思っただけだ。


「あの、本当に、妹みたいなものなんです。彼があなたと付き合ったのだって、そんな消極的な理由じゃなくて、あなたが、とても魅力的だったからですよ!」


 架夜さんは、呆気にとられたようにしばらく私を見ていたが、やがてとても可笑しそうに笑いだした。彼女にしては珍しい、感情が読める表情だ。感情の動きが見えると、少しだけ親しみを感じる。美しい外見に引け目を感じていただけで、中身は普通の女の子なのかもしれなかった。


「あなた、やっぱり面白いわ。それに優しいのね。慰めてくれるなんて」


 架夜さんは、脚を組みながら笑みと共に小さな溜息を零す。


「でもいいのよ、もう。私は彼女には敵わないわ」


「どうしてですか?」


 架夜さんの笑みが再び感情の読めないものへ変わる。


「だってきっと彼は、私が切り刻まれて血まみれになって惨殺されても、あんな風に泣いてはくれないわ。名前を叫んで、涙を流してなんかくれない」


 すっと、血の気が引いていく。


 冷たい、心臓が、凍り付くようだ。先ほどまで私を悩ませていたあの暑さは、とうに何処かへ行ってしまった。指先が小刻みに震える。声が、言葉が出てこない。


「……ああ、あなた、そういえばあの子にも似ているのね。素敵ね。その顔なら、彼に目をかけてもらえるのかもね」


「詩歌」


 少し離れたところから、名前が呼ばれたような気がした。だが、体が動かない。架夜さんの視線から逃れられない。


 架夜さんは、私のあの現場を見ていたというのか。ぐちゃぐちゃに切り刻まれた私の、あの姿を見ていたというのか。また一人、知り合いに見られていたことを知って耐えがたい苦痛が広がる。


「詩歌! 大丈夫か? 顔色が悪いぞ?」


 不意に肩を揺らされて、はっと自分を取り戻す。見上げると、そこには柊がひどく心配そうな顔をして立っていた。ああ、私はまた彼を、動揺させてしまっているのか。そんなことをぼんやりと思いながら、視線を伏せた。


「ああ、やっぱりその子、柊の知り合いなのね? 新しい恋人? 彼女のことは諦めちゃったの? まあ、仕方ないのかしら」


「仕方ない? 花菜が、殺されたことが、か?」


 かつてないほどの憎悪と怒りを抱えた目で。柊は架夜さんを睨み付ける。私が睨まれているわけでもないのに、委縮してしまうほどの気迫があった。だが、架夜さんは相変わらず微笑みを浮かべ、優雅な仕草で髪を耳にかけた。とても元恋人同士の間に流れる空気とは思えない。


「本当、痛ましいことね。ご愁傷さま。彼女のご冥福をお祈りするわ。でも、殺されちゃったことは仕方ないとしか言いようがないわね。だって、柊が何かをできた訳じゃないでしょう? もっとも、柊が手にかけたって言うなら話は別だけれど」


「俺が、花菜を、ね……」


「あれ? 図星? 世間ではストーカー殺人じゃないかって騒がれてるし、私は、柊はありかなあって踏んでたんだけどな。柊は、意外と独占欲強そうだしね。動機はいくらでも見つかりそうでしょう」


 一体、何を言い出すのだろう。嫌味のつもりだとしても、言いすぎだ。あの現場を、引き裂かれた私を抱きしめて泣き叫ぶ柊を見ているはずなのに、どうしてそんなことが言えるのだ。


「柊は、そんなこと――」


「そんな些細な感情を動機と呼べるのなら、犯人は君でもよさそうだけどな、架夜。昔から君は花菜を妬んでいたじゃないか」


 架夜さんを睨み付けたあの目のまま、柊はふっと微笑んで見せた。案外、この二人は似た者同士なのかもしれない。


「羨んでいた、といってほしいところね。柊がいけないのよ。柊があの子ばかり捜すから」


「確かにな。君がこんなやつだって知ってたら、花菜を一人で帰らせはしなかったのに。待ち伏せてでも、一緒に帰ればよかった」


 このままだと、本格的に口論が始まりかねない。何とかして止めなければ。


「柊」


 静かに、彼の名を呼びかける。柊の目が、架夜さんから私に向けられた。


「私、疲れちゃった。もう休みたいな」


 この場には不自然なくらいの笑みを彼に向けて、我儘を言う。これが、この場から彼を遠ざける一番良い方法のように思えた。私の我儘を、何でも叶えようとしてくれる柊ならば、きっと帰路についてくれるに違いない。


「そうだな。不快な思いをさせて悪かった。もう帰ろうか。それと、もうこの人には近づいたら駄目だ」


 本人を目の前にして、よくそこまではっきり言えるものだ。一応は、かつての恋人だというのに。少々架夜さんに申し訳ないが、柊に手を引かれるままに私は立ち上がる。


「その子が柊の何なのかくらい教えてくれてもいいんじゃない?」


 架夜さんは不敵な笑みを浮かべながら、私と柊を見つめる。やはり私は彼女の目が苦手だ。思わず顔を俯かせ、柊と繋いだ自分の手に視線を定める。目をそらしていても、しっかりと彼女の視線を感じる。架夜さんにとって、私の存在は面白いものではないだろう。敵意を向けられても仕方ないような気がした。


「ただ大切な存在だ、とだけ伝えておこう。もう二度とこの子に近づかないでくれ」


「それは約束できないわ。偶然出会ってしまうこともあるでしょう。私は、もう少しお話してみたかったわね。今日は私の話ばかりしてしまったもの」


 不意に架夜さんが立ち上がり、こちらとの距離を急に詰める。後退る間もないままに、架夜さんは端正な笑みを浮かべて私の目を捉えた。


「また会いましょうね?」


 ふわりと、風が通り抜ける。彼女は柊を一瞥すると、背を向けて植物園の中のほうへと去っていった。まだ少し、緊張している。


 見上げると柊はいつになく鋭い視線で、架夜さんの後姿を見送っていた。柊がそこまであからさまな敵意を向けるのも珍しい。数秒の沈黙の後に、柊の目が私を捉える。


「あいつに、何か言われたか?」


「私を傷つけるようなことは何も……。ただ、架夜さんは、柊のことが本当に好きなんだっていうことは伝わったよ」


「よく言うよ」


 吐き捨てるように、柊は言う。その表情には嫌悪の色が滲み出ていた。


「それでも、架夜さんの話を聞く限りでは、柊の対応はちょっと冷たすぎるんじゃないかって思ったよ。付き合っている間も、そんな態度だったの?」


 架夜さんの話を聞く限りでは、架夜さんのほうが恨みを持ってもよさそうなものなのに。もしかすると、多少は憎悪も抱いているのかもしれないが、それでも柊への恋情のほうが勝っているような気がする。架夜さんの心情は、そう簡単に推し量れるものでもなさそうだ。


「今よりは多少マシだったかな。まあ、あの時は自棄になってたから、よく覚えてないんだけど」


「それって、私が、上谷くんとよく話すようになったからってこと?」


 自惚れているのは承知の上で、架夜さんが教えてくれたことを口にする。柊は呆れたように溜息をついた後、軽く笑うように私を見下ろした。


「架夜は、何でも喋るようだな。それで、そうだよ、って言ったら、花菜はどうする?」


「勘違いも甚だしいね、って言ってあげるよ」


「手厳しいな」


「柊が、架夜さんの想いを踏み躙るからだよ」


「花菜に怒られるとは思ってもみなかったな」


 柊は苦笑しながら、私から視線を逸らす。


「でも、本当に苦手なんだよ。あの人は。一瞬でも、綺麗だなんて思った自分を殴りたいね」


「架夜さんは綺麗だよ」


「見た目だけだ。掴みどころのない人だよ」


 柊はもう一度溜息をつくと、私の右手から未開封のペットボトル入りのお茶を取った。折角買ったのに、結局飲まずじまいだった。もう、すっかり温くなってしまっている。


「開けられなかったのか?」


「タイミングを逃しちゃって」


 変な言い訳だと、自分で言いながら思う。架夜さんの登場さえなければ、今頃のどの渇きを潤していたかもしれないのに。


 柊は一度私の手を放すと、ペットボトルの蓋を開け、私に手渡した。何だか甘やかされてしまったが、ありがたく受け取ってお茶を口に含む。温かったが、のどの渇きを潤すには十分だ。


「散歩は大丈夫だったのか? 見たところ、昨日よりはマシなようだけど」


「かなり疲れたよ。今日は暑くなったもんね。口実じゃなくて、もう本当に休みたいよ」


 実際こうして立っている間にも、足は痛んでいる。全身になんとも言い難い倦怠感もあった。これなら今すぐにでも眠れそうだ。


「じゃあ、今日はもう家に帰るか。花菜も家に来るんだろう?」


「お邪魔じゃなければ」


「じゃあ、今日は家でおとなしくしてるか。俺も、あいつのせいで気分悪い」


 柊はもう一度私の手を取ると、ゆっくりと歩き始めた。何だか今日も新しい発見ばかりだ。日を追うごとに、柊の新しい一面が見えてくる。それだけ柊は、私に見せる面を選択して振る舞っていたのだろう。またしても、少し柊が見えなくなった気がする。それなのに、不思議だ。柊のことを慕うこの気持ちは、死んでからも少しも変わらない。

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