第12話 葛藤の始まり

 不意に光を感じて、目を覚ます。どうやら昨夜、カーテンを閉め忘れたようで、窓からは朝日が降り注いでいた。今日もいい天気のようだ。


 柊は、結局私に寄り掛かったまま眠ってしまったらしい。シーカも、私の膝の上ですやすやと眠っている。もともと猫なのだから、よく眠るのにも納得がいく。どうやら私が一番早起きのようだ。時刻もまだ朝の六時半を回ったところであるし、急ぐ必要もない。私は柊を起こさないように注意しながら、顔だけ窓の外へ向けた。


 今日は何をしようか。また高校に行ってもよいが、今日は茶道部の集まりもないし、友人たちの嘆きを背負うのは昨日だけで十分なように思う。殺されるまでの経緯を思い出さなければならないが、校舎を見ても何も思い出さなかった以上、別の方法を考えなくてはならない。


 期限があるわけでもない、焦る必要もないだろう。今は、朝のこの穏やかなひと時を満喫していよう。朝起きたときに、誰かが傍にいるというのは、思いがけず幸せな気持ちになるものなのだと知った。最後に、誰かと一緒に眠ったのはいつだろう。母が寝かしつけてくれたことは一度もないので、必然的に柊や柊のご両親との記憶を辿ることになる。きっと小学校六年生の時に、キャンプに連れて行ってもらった時が最後だ。私が中学校に上がってからも、何度か旅行に連れて行ってもらっているが、一緒に眠ろうと言っても、柊のほうが私に遠慮をした。非常に常識的な判断ではあるのだが、兄のように慕っていた柊に一線を引かれたような気がして、あの時は少し寂しかったものだ。


 あの頃から、柊に対する感情は随分と変わった。恋かと問われれば、それは違う気がするが、昔のように兄のように慕っているという単純なものでもない。傍にいること当たり前だったので、こうしてきちんと考えてみたことはなかった。


 そんなことを思い巡らせていると、やがて柊が身じろぎをした。目が覚めたのだろうか。そろそろ七時になるので、起きるにはちょうどいいだろう。


 柊は少しだけ顔をあげて、微睡んだ目でこちらを見つめていた。まだ完全に目が覚めていないようだ。眠そうな表情の柊を見るのは、出会ってこの方初めてのことだった。いつも、どちらかといえば不愛想で、涼しげな表情をしているせいか、寝起きの柊は可愛らしく見える。流石の柊も、寝起きばかりは隙だらけだ。


「おはよう、柊。今日はちゃんと眠れたみたいで良かった」


 数秒間、柊は相変わらず私に寄り掛かったまま微睡んでいたが、不意にびくりと体を揺らす。あまりに急だったので、こちらも反応してしまった。その拍子に、膝の上でシーカが小さく鳴き声を上げる。どうやら起こしてしまったようだ。


「花菜?」


「おはよう、柊」


 どうやらかなり寝ぼけているようだ。だが、状況を理解したのか、一瞬で柊の目がいつもの怜悧な瞳に戻り、すぐに私から離れた。


「ごめん、重かっただろう」


 不愛想にそれだけを言って、私から視線を逸らしてしまう。柊はやはり、基本的には生真面目だ。思わず笑ってしまった。


「重くないよ。むしろ、幸せな気分」


「……それなら、よかった」


 柊は曖昧に微笑み、微睡むシーカの背を撫でた。それに応えるように、シーカはにゃあと鳴いて、こちらを見上げる。どうやらシーカも元気そうだ。


「今日もいい天気だね、シーカ。後でお散歩しようね」


 私もシーカの頭を撫でながら、窓の外を見やる。今日は、どこへ行こうか。一緒に歩いてくれる人がいるだけで、ありきたりの場所さえも私の目には鮮やかに映るだろう。






 シーカは澄み渡った青空を見上げ、ベンチに座り込んだ。私もその隣に腰を下ろす。日の光に、木々の葉の緑が透けて綺麗だ。


「それで、どこで練習する? 最終的には、柊くんの大学に辿り着ければいいんだよね?」


「そうだね」


 柊とも話し合って、今日は憑依後にある程度体を自由に動かせるようにする練習をすることになった。昨日の調子では、事件の手がかりを追うどころではない。せめて支えなしでも人並みに歩けるようにならなければ。柊も練習に付き添うと言ってきかなかったが、何とか大学へ行ってもらった。今日の授業は午前中だけらしく、昼に柊の大学で待ち合わせをして落ち合おうという話になっていた。柊のことだ。私が少しでも時間に遅れたら、ひどく心配して探し回るに違いない。念のため、待ち合わせの十分前くらいには到着したかった。


「じゃあ、公園の散歩コースを一周して、そのあと大学へ向かおうかな」


 散歩コースはゆっくり歩いても一時間かかるかどうかという短さだ。十二時に待ち合わせをしており、今は九時を過ぎたあたりだから、時間が余るかもしれないが始めはこのくらいがいいだろう。調子が良ければ、遠回りをして大学に行ってもいいのだ。


「大丈夫? 無理はしないでね?」


「心配しないで。転んだりしないように気を付けるから」


「私の体のことは別に構わないけど、疲れるのは花菜ちゃんなんだからね?」


「私は大丈夫だよ」


 最近、この台詞を言うことが多い気がする。それだけ柊もシーカも私を心配してくれている証拠だ。早く二人を安心させられるように、しっかりしなければいけない。


「お金、ポケットに入れてあるからね」


 別れ際、人の姿になったシーカに柊は紙幣二枚と、いくつか小銭を渡しておいてくれた。小銭は万が一の時に、公衆電話から柊に連絡するためだ。とはいえ、私はどのあたりに公衆電話があるのかよく知らない。駅に行けば一つくらいあるだろうが、果たして公園や街中にあるのかは疑問だ。そのあたりにも注意を払って、散策することにしよう。






 痛む足を庇いながら、大学敷地内のベンチにへばりつくように座り込む。ここは大学の隅にある植物園のような場所だ。幸いにもベンチは木陰になっていて、少しひんやりとしている。私は大きく深呼吸をして、何とか落ち着きを取り戻そうとした。


 この国の初夏を甘く見ていた。幽霊のときは、清々しい朝だ、などと呑気に楽しんでいたが、それもこの気温のことを想像していなかったからだ。まだ午前中だというのに、すでに昨日の正午過ぎより気温が高い。生きている人にとっては、汗をかくような気温ではないのだろうが、憑依後の私にはハードルが高すぎた。途中見かけた自動販売機でペットボトル入りのお茶を買ったが、蓋を開ける余力もなく、やっとのことでここまで辿りついた。幸いにも、植物園に人影はなく、私はベンチに横たわる勢いで疲れを癒していた。一刻も早く水分補給をしたほうが良いのはわかっているのだが、体を起こしてキャップを開けることすら億劫だ。


 公園での散歩は非常にのどかで、危うく自分が死んでいることさえ忘れるほどの穏やかな時間だったが、コースを一周するころには足が千切れそうなくらい痛んでいた。実際、私の遺体も骨が見える程度には千切れていたわけなのだが、こんなに痛かっただろうか。痛みでも蘇らないというのなら、自分が死んだときの記憶を追うのは無理があるのかもしれない。


どうしたものか、と頭を悩ませながら、ベンチの上で寝返りを打つ。


「お昼寝?」


 不意に顔に落ちる影。頭上から、澄み切った可憐な声が降ってきた。


 二日ぶりに心臓が止まるかと思った。突然に声をかけられたこともそうなのだが、何より、こちらを覗き込むようにして見つめる彼女がここにいることに驚いたのだ。


 架夜かよさんだ。高校時代の柊の恋人。綺麗な顔をした、みんなの憧れの先輩。


 彼女がこの大学にいることは知っていたが、まさかこんな場所で出会うなんて。夏らしい爽やかな青のワンピースに、薄手のカーディガンを羽織っている。高校時代に長かった髪は、今は肩のあたりで丁寧に整えられていた。彼女の噂は未だに高校でも絶えていないが、実際にその姿を目にするのは半年ぶりくらいだろうか。高校時代よりまた一層、綺麗になった気がする。


 起き上がろうにも、こうも覗き込まれているとかなわない。架夜さんはふっと笑って、頬にかかった髪を耳にかけた。一つひとつの仕草が洗練されている。この調子なら、きっと大学でも人気者だろう。


「……とても青ざめた顔をしているわ。あなた、大丈夫?」


「平気です。少し、疲れてしまっただけで」


 私は両手を使ってどうにか起き上がった。顔色が悪いのは、間違いなく彼女の登場によるものだ。私も例外なく、美人で頭脳明晰な架夜さんに憧れを抱く後輩の一人だったが、好きかといわれると微妙な線だ。非の打ちどころのない架夜さんだが、その話し方や視線が、妙に後を引いてしまう。


 一方、架夜さんは私の目の前に回り込んで、どこか鋭さを持つ独特の怜悧な目で、こちらをじっと見つめていた。この目が苦手なのだ。土足で心の中を踏み荒らされているような気分になる。軽く身をすくめて、彼女の言葉を待った。


「そうね。今日は急に暑くなったもの。その色の服では、大変でしょう。とてもよく似合っているけれどね」


 確かに黒は暑い。だが、今は架夜さんの登場のおかげで、いくらか涼しさを感じるほどだ。架夜さんは、やたら親切に話しかけてくれるが、いったい私が何歳に見えているのだろう。中学生くらいだろうか。


「隣、座ってもいいかしら?」


「……どうぞ」


「ありがとう」


 人一人分の距離を置いて、架夜さんはふわりとベンチに腰を下ろす。日の光に葉が透けて、緑色の影が揺らめいていた。心地よい風が吹きぬけていく。 


 私にとっては、妙に気まずい静けさが訪れる。架夜さんは、長い睫毛を伏せて爽やかな風を楽しんでいるようだった。何を考えているのかわからないのも、周りの人たちは神秘的だと褒め称えたが、私の目にはただ不気味に映るだけだった。感情が、何も読み取れない。それは、彼女のことを良く知らないせいもあるのかもしれないが、それにしても隣に座っておいて黙り込むなんて、居心地が悪くて仕方ない。足が痛んでも構わないから、さっさとこの場から逃げ出そう。幸いにも口実はある。柊を捜しに行くのだ。


 そう断ろうと、口を開きかけたとき不意に架夜さんは言った。


「あなたの目、私の好きな人に、とても良く似ているわ。綺麗な目。深い深い黒色で、どこか不思議な光が揺らめいていて。一瞬でその視線に貫かれるのに、穏やかな優しい目をしているのね。綺麗」


 そう言えば昨日、上谷君もシーカの目と柊の目が似ていると言った。言われてみれば、納得する部分はあった。きっと人型になるときに、シーカは私や柊を参考にしたのだろう。


「好きな人、ですか」


 架夜さんの言葉やこの目の特徴からして、好きな人とは、ほぼ間違いなく柊のことを指しているのだろう。二人が付き合っていたのは、ほんの一か月間にも満たない期間。別れたのはもう、一年以上前だ。架夜さんは、柊に別れを切り出されてもなお思い続けているのか。言い寄ってくる人間は、大勢いそうなものなのに。


「そう、好きな人。昔の恋人。でもね、結局手に入らなかった。あの人の心も、恋人という立場も」


「……少なくとも一時期は、心は手に入ったのではないのですか」


 初対面でここまで踏み込まれると、普通は躊躇しそうなものだが、架夜さんは私を見てくすくすと笑って見せた。笑顔だけは、素直に可愛いと思えるから不思議だ。


「あなた、面白い人ね。そうね、常識的に考えればそうなのでしょうけど、彼は、少し変わっているから」


 架夜さんは微笑みを浮かべたまま続ける。

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