第11話 憐憫の始まり

 軽い。


 体中の重さも痛みも、嘘のように消えている。数時間ぶりに、重力から解放されて、なんだかとても清々しかった。すぐさま瞼を開けて、周囲の様子を確認する。日はもう完全に沈み、あたりには夕闇が満ちていた。


 目の前のベンチには、柊の姿と、彼に寄りかかるようにして眠るシーカの姿があった。シーカの寝顔は本当に可愛らしく、人形のように整っていた。


「花菜」


 こちらに気が付いたのか、柊は再びふっと笑って見せた。夕闇のおかげで、彼の瞳の暗さが目立たないせいか、その微笑は限りなく昨日までの柊のものに近かった。私もすぐに笑い返して、シーカとは反対側の柊の隣に座る。


「どこも調子は悪くないか?」


「平気だよ。すっごい解放感」


「そうか。花菜が楽なら、ずっとその姿でいればいいのに」


「それじゃあ、柊以外の人に干渉できないでしょ?」


「他の人たちと、関わる必要があるのか? また、傷つけられるかもしれないのに」


 柊は、私を心配してくれているのだろう。シーカに憑依しているときにもう一度殺されたら、今度こそ終わりだ。シーカが絶命すればきっと、幽霊としての私も消えてしまう。そうなると、柊は一人残されることになる。彼がそれを恐れているのはよくわかった。


「大丈夫。次は、気を付けるからね。いきなり柊を一人ぼっちにはしないよ」


 そんなとき、シーカが僅かに身じろぎした。どうやらお目覚めのようだ。


「シーカ? 起きたの?」


 シーカは柊から体を離して、軽く目をこすった。まだ少し、眠そうな目をしている。だが、私と柊の姿を認めるなり、華やかな笑顔を見せた。


「うん! おはよう、花菜ちゃん。柊くん」


「おはよう。大丈夫? 疲れてない?」


 先ほど私が柊に訊かれたように、私もシーカの身を案じてしまう。シーカは屈託のない笑顔を見せた。


「十分休めたよ。憑依はどうだった?」


「久しぶりの重力にちょっと戸惑ったくらいで、あとは何も」


「ちょっと? 倒れかけてたくせに」


 柊は呆れたように言い放った。これには苦笑いするしかない。


「それはちょっと重症かもね。でも大丈夫。何度か憑依すれば、慣れるまでの時間は減っていくはずだよ!」


 また次の憑依の時も、あの重苦しさを味わうのかと思うと、気が重いが、贅沢ばかりも言っていられない。早く慣れるよう努力しなければ。


「それで、これからどうするの? それぞれのおうちに帰るの?」


「今日も柊の家にお邪魔するよ」


「ふうん……。じゃあ、私も行ってもいい?」


「なんでお前まで来る必要があるんだ」


 溜息交じりに、柊はシーカを見つめた。確かに、その姿のままで来られるといささか問題ではある。


「一応、ね。昨日の柊君見てたら、ちょっと心配になっちゃって」


「それは、誰に対する心配なんだろうな?」


「分かってるくせにね。とにかく、花菜ちゃんが行くなら私も行くよ。もちろん、黒猫に戻るから安心してね」


「家の中に猫を持ち込むのも、なかなか骨が折れるんだが」


「じゃあ、その鞄の中に入れてよ。ちゃんと静かにしているから」


 柊の溜息を了承の意と受け取ったのか、シーカはにっこりと笑い、私たちの背後に回り込んだ。


「じゃあ、猫に戻るからね。あんまりこっち見ないでね」


 まもなくして、にゃあという鳴き声とともに、足元に黒いリボンを付けた黒猫がすり寄ってきた。私に触れられるということは、間違いなくシーカだ。屈みこんで、そっと頭を撫でる。手にすり寄る感触が、少しくすぐったかった。


 若干複雑な表情で、柊はシーカを摘み上げると、そっと鞄の中に入れた。シーカは教科書の間に上手く潜り込んだようだ。約束通り、鳴くこともなくおとなしくしている。


 柊は斜めがけの鞄を背負うと、早々に歩き出した。私もそのすぐ後を追う。なんだか妙な一行だ。


「楽しそうだな」


「すごく、非日常だなって思って」


「そうだな」


 柊はわずかに微笑んで、そのまま真っ直ぐに家を目指した。ここから柊の家までは、五分とかからない。シーカもそれほど息苦しい思いをせずに済むだろう。








 昨夜よりも全力で夕食を断り、ご両親の制止を振り切って部屋に駆け込んだ柊は、ドアに寄りかかりながら後ろ手に部屋の鍵を閉めた。流石に、シーカのいる状態で急にご両親が入って来てもまずい。


 柊はすぐに鞄を開け、シーカを解放した。彼女は鳴き声一つ上げずに、優雅に私の傍まで歩み寄ってくる。見たところ、呼吸が乱れているということもなさそうで、むしろ柊のほうが気疲れしているように見える。ドアに寄りかかったまま、床に座り込んでしまった。


「柊、お疲れさま。ソファーで休んだほうがいいよ」


「花菜とシーカが使えばいい。俺はシャワーでも浴びてくる」


「そう? じゃあ、二人で遊んでるね。おいで、シーカ」


 私はシーカを引き連れて、ソファーの方へと移動した。ソファーに座ると、自然と目の前の黒い液晶画面が気になってしまう。何か、進展はあっただろうか。


「ねえ、柊。テレビ見ても――」


 そういいながらドアの方を見やると、すでに柊の姿はなかった。早々に洗面所へ行ってしまったのだろう。幸いにも、ドアはしっかりと閉まっているようで、音が漏れることは考えにくい。


 シーカはテーブルの上に飛び乗ると、小さな前足をリモコンの電源ボタンの上に乗せる。そのまま私の意見を伺うように、こちらを振り返った。


「……見てみようか、ニュース」


 シーカは小さくにゃあと鳴くと、そのまま前足に体重をかけて電源ボタンを押した。時刻は午後七時を過ぎたあたりで、バラエティ番組が映し出された。シーカは適当に数字のボタンを押して、チャンネルを変えていく。やはり、この時間に報道番組はほとんどない。一局だけ三十分ほどの短いニュースを放映しているが、果たして私の事件の話題に触れるかは微妙な線だ。


「それでいいよ。ありがとう、シーカ」


 シーカはもう一度にゃあと鳴くと、私の膝の上に飛び乗ってきた。ふわふわとした艶のある毛並みを、そっと指で梳く。家に一人だったこともあって、ペットを飼いたいという願望は常に持ち続けていたが、学生の身では世話をすることができない。自分の身の回りのことも危ういくらいなのに、ペットの世話なんてできるわけがなかった。だからこそ、膝の上で丸まるシーカを余計に愛おしく思う。あの家にも、こんな風に一緒にテレビを見られるような何かがいたなら、私の心は何か変わっていたのだろうか。


 そのままぼんやりと世の中の動きを聞き流していると、番組の中盤に差し掛かったあたりで、特集として私の事件が取り上げられた。この時間帯のニュースで特集を組まれるということは、それなりに世間の関心も高いのだろう。殺されたのが未成年、しかも惨殺、となれば憐れんだりあれこれ想像するには丁度いい話題なのだろうか。


 事件の捜査事態にそれほど進展は無いようで、次々と、近所の人たちや街を行く人々のインタビュー映像が流れる。可哀想、可哀想とただただ連呼される。私は、そんなに可哀想だったか。人から憐れまれるような生き方をして、死んでなお不憫に思われるのか。無関心よりも、憐れみがいかに優しいかは知っている。だが、時々どうしようもなくやるせないような気持ちになってならない。私は私なりに、一人で生活する術を覚えて、友人と会って、柊の隣で笑って、それで幸せだったのに、そう感じたことさえも否定されているようで悲しくなる。私は、幸せだった。人より恵まれているものは少なかったけれど、これといった後悔もない。毎日を、一生懸命生き抜いたと、胸を張って言えるはずなのに。


「馬鹿みたいだね」


 どんなに私が幸せだと思ったって、切り裂かれて血や内臓をぶちまけて死んだら、私は可哀想なんだ。もう、それでもいい気がした。薄幸少女の方が、同情しやすいんだろう。私の存在を正当化しやすいんだろう。どうぞ、好きなように、私を憐れむことで芽生える自己充足感と自分の優しさに酔ってくれ。死んでようやく、誰かの役に立てた気がする。


 不意に、液晶画面が黒色に変わり、部屋に静寂が訪れる。いつの間にかシーカは私の膝の上を離れ、再びリモコンを操作していたようだった。どうやら、電源を消したらしい。私に、気を遣ってくれたのだろうか。


 シーカは、今度は私の方に飛び乗って、鼻先を私の顔に寄せた。ふと、私の頬に伝う涙の存在に気付く。いつから、泣いていたのだろう。無自覚に涙するなんて、まるで姉のようで少々不快だが、未だにぽつりぽつりと涙は零れ落ちていた。


 死にたくなかったと、もっと生きていたかったと、そう、言いたかった。だが、強がりでもなんでもなく、私は死んでようやく、生きていたころには味わえなかった安寧を手にしている。本当に安らかな気持ちだ。きっと、私は心のどこかで、死にたいと思っていたのだろう。希死念慮は、恐らく誰だって抱いているだろうけれど、私の場合その願いは、潜在意識を侵食していたのかもしれない。思えば、鋏や包丁を見るたび、あの広い家の中で一人、血だまりの中、刃物を片手に絶命している自分の姿を想像していた。高い天井を見るたびに、私の体重に耐えられそうな、縄を掛けるような留め具はないかと探していた。風邪薬を飲むたびに、いったい何錠飲めば、喉の炎症だけでなく、命の灯まで消せるだろうと考えていた。お風呂のお湯を張りすぎたときには、息が苦しくなるまで浴槽に潜って、自分には溺死するだけの度胸は無いなと嘆いていた。


「こんなこと考えてるから、あんな殺され方しちゃうんだね。当然だよね。生きたいって思っている人が死んでいくのに、私は死にたいって思いながら生きてたんだから」


 つくづく自分が馬鹿らしくて、笑えてしまう。それでも、涙は頬を伝っていた。


「生きたいって思いながら、生きてみたかったなあ」


 この涙の訳は、まったくわからない。今の思考の、一体どの部分に、涙する場所があったというのだ。私も案外、奈菜のことを馬鹿にできないかもしれない。双子というだけあって、感情のコントロールができないところは、本当によく似ている。


「……花菜?」


 どうやら柊が、シャワーを浴びて帰ってきたらしい。だが、顔を上げる気にはなれなかった。こんな醜い顔を、柊に見せたくない。


「花菜! どうしたんだ、何があった」


 柊は慌てて私のもとへ駆け寄ってくる。私は顔を見せまいと、必死に俯いて両手で涙を拭う。


「……何でもないよ。何でもない。本当に、なんてことないの」


「泣いてるのに、何でもないわけがないだろ。何があったんだ?」


 私はただただ、首を横に振ることしかできなかった。涙の理由なんて、私が知りたい。この感情は説明がつかない。


「シーカ、何があったんだ」


 シーカは弱弱しく鳴くと、そっと私の肩を降り、再びリモコンの方へ移動した。そうして前足で、リモコンを柊の方へ差し出す。


「ニュースを見たのか?」


 何も言えない私の代わりに、シーカが一声にゃあと鳴いて返事をした。柊は溜息をついて、私の隣に座り直す。


「何か進展があったのか? 犯人の手がかりが分かったとか?」


 私は首を横に振ることしかできなかった。不甲斐ない。私が思い出せば、それで事件は片付いたも同然なのに。


「なら、良かった」


 ぽつりと柊は呟いて、真っ白なタオルで生乾きの髪を拭いた。こうして近くで見てみると、目の下に僅かに隈ができている。一日眠らないでいたせいだ。そのわりに、柊は眠たそうな素振りなどを一つも見せない。


「どうして泣いていたのかは、教えてくれないんだな」


 視線だけを私に向け、どこか軽く責めるような調子で柊は言う。説明できるものなら、思う存分吐き出したいが、何分私にもわからないのだ。


「わからない。自然と、泣けてきたんだよ」


 こういったところで、誤魔化しているようにしか聞こえないのだろう。それはよくわかっていた。この話題を続けたところで、柊も私も気分が重くなるだけだ。私は両手で涙の名残を拭い、いつも通りの笑顔を柊に向けてみせる。


「私、柊のおすすめの本が読みたいな。一緒に読もうよ」


「……そうだな」


 柊は真っ白なタオルを、椅子の背もたれにかけると本棚の前に立つ。


「どんな話がいい?」


「なるべく、明るいお話。できれば、誰も死なないお話がいいな」


「それは難しい注文だな。おとぎ話だって、何人かいなくなるのに」


「シーカもおいで。一緒に読もう」


 テーブルの上で私たちの様子を窺っていたシーカは、少し躊躇いながらも、私の膝の上に戻ってきた。その小さな頭をそっと撫でる。


「ごめんね、シーカ。私はもう、大丈夫だからね」


 シーカは丸い二つの目で、じっと私を見上げる。人間の姿だったら、きっと案じるように私を見ているのだろう。


「随分な可愛がりようだな」


 本を片手に、柊も私の隣へ戻ってくる。三人一緒にいると、不思議なくらいに落ち着く気がした。私の、大好きな人たちだからだろうか。


「本当は、猫飼いたかったの」


「花菜は自分の身の回りのことすら危ういのに?」


「もう少ししっかりしたら、飼おうと思ってたんだから」


 本を片手に、他愛もない話をする。この時間が、今の私には何より居心地が良かった。こんな毎日なら、幽霊も悪くない。そう思えるくらいには、私は今を楽しんでいた。



 柊が選んでくれたのは、海外の文豪の文学で、私が大好きなお話だった。小さいころはよく意味が分からなかったものの、柊が何度も読み聞かせてくれたおかげで、物語の世界が私の頭の中に広がっていったのだ。目を閉じれば、本当に異国の地にいるような、そんな高揚感がある。


 かれこれもう、一時間以上読み進めたときだろうか。本を支えていてくれた柊の手が不意に揺らいだかと思うと、隣に座っていた柊が私に寄りかかってきた。とうとう限界が来たのか、眠ってしまったようだ。安らかな息遣いを聞いて、安心する。良かった。今日はちゃんと、眠ってくれた。これで明日は、私の大好きなあの笑顔が見られるだろう。


 一方でシーカはそんな柊の様子を認めるなり、私の膝の上で立ち上がって何やら訴えるようににゃあにゃあ鳴き出した。丸い二つ目が、なんだか柊を睨んでいるようにも見えるから、思わず笑ってしまう。


「シーカ、重たくないよ。私は大丈夫だから、このまま眠らせてあげよう? きっとすごく疲れているんだよ」


 シーカは納得いかないような目をして、もう一声鳴いて見せたが、諦めたのか私の膝の上で丸まった。私はぽんぽんと軽くシーカの背中を撫でる。


「シーカもおやすみ。今日は私が散々歩き回ったから、疲れているでしょう。また明日も、よろしくね」


 小さく丸まったまま、くぐもった鳴き声でシーカはにゃあと返した。私はシーカの背にそっと手を置いたまま、寄りかかる柊に顔を寄せ、自然と目を閉じた。明日は、どんな一日になるだろう。

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