第10話 嘘の始まり

 公園に近づくにつれ、人の気配が消えていく。橙色に染められた木々もまた、朝や昼間とは違った風情がある。だが、私の好きな時間帯ではない。柊や友人たちと別れ、一人きりの家に帰らなくてはいけないという現実を突きつけられるからだ。今日は帰れば母がいるのかもしれないが、それが余計にあの家に近づきたくない原因になっていた。私はゆっくりと歩きながら、そっと柊を見上げる。


「ねえ、柊。今日も柊の家に行ってもいい?」


「どうぞ」


「暇があったら、さっき言ってた本を読ませてね」


「ああ、いいよ。一緒に読もう」


 柊と一緒に本を読むのも、ずいぶんと久しぶりだ。参考書を広げて柊に教えてもらうことは日常茶飯事だが、最後に物語を二人で楽しんだのは、もう随分と昔のことだった。


 いつになく満ち足りた気分で公園の入り口のほうを見やると、見慣れた制服を目にした。白いセーラー服に、風になびくストレートの濃い茶色の髪。瞬時にそれらが目に焼き付く。


「深華?」


 彼女はコンビニの袋を片手に、急ぎ足でどこかへと向かっているようだった。彼女の進行方向には、昨日私が殺された現場がある。


「御園さんか? 茶道部の」


「そう! 行ってみようよ」


 柊は私の手を引いたまま、少しだけ歩くペースを上げて彼女を追った。彼女の長い髪は、幸い遠目でもよく分かった。次第に現場のほうへと近づいていく。時刻は午後五時を回ったところだ。私が死んでから、もうすぐ一日が経とうとしていた。


「辛くないか?」


「大丈夫。まだ歩けるよ」


「いや、そうじゃなくて」


「平気だよ。いい気分ってわけでもないけど」


 現場が今どうなっているのか、見てみたいという気持ちも少なからずある。どうやら交通規制などのテープはすでに外されており、報道陣などの姿も見受けられない。相変わらず人の気配のない路地だった。近所の人が近道として利用するか、迷い込みでもしない限り、ここを歩く人の姿は見かけない。だからこそ、私の死んだ場所はすぐに判別できた。


 深華は、花束やらお菓子の箱やらが並べられた場所の前でふいに立ち止まった。あのあたりで昨日、私は絶命したのだ。既に誰かがお供え物をしてくれたようだ。きっと近所の人たちだろう。


 そしてその花束の前には、先客がいた。少し癖のある黒髪の男子生徒だった。遠目に見てもわかる。あれはきっと上谷君だ。深華だけでなく、上谷君まで様子を見に来てくれるとは、想いもしなかった。


 柊はその二人から少し離れたところで立ち止まった。ここからでも、二人の様子はよくわかる。二人はまだ、こちらには気づいていないようだった。


「柊、あの人、上谷君だよ」


「そうらしいな」


 相変わらず柊は、上谷君の話題となると少しだけ不機嫌そうな顔をする。だがそれよりも今は、仲の悪い深華と上谷君が鉢合わせてしまったことに、第三者ながら若干の焦りを覚えていた。今日の二人は、いつもにもまして気が張っている。下手すれば、本当に喧嘩になりかねない。


「柊、行こう。あの二人だけじゃ心配だよ」


「少し様子を見よう。どうせこの位置じゃ、そのうち気づかれる」


「でも……」


 深華は、花束の前にかがみこんだ上谷君を、見下ろすようにして見つめていた。やがて無言のまま深華も屈みこみ、コンビニの袋の中からお菓子の箱と缶入りのミルクティーを取り出す。生前、私が好んで買っていたものだった。深華はそれらを花束のほうへ並べ、そのまま両手を合わせた。そして、祈るように頭を垂れる。長い髪の毛先が、コンクリートの地面に届いていた。


 そのまま一分ほどが経った頃だろうか、上谷君が供えられた花束に触れながら切り出した。


「奇遇ですね。お供え物が、同じ組み合わせとは」


「相変わらず、花菜の好みだけはよくわかってるみたいね」


「覚えておきたいと思うことを、忘れないでいるのはそんなに駄目なことですか」


「私に訊かないでよね」

 

 そう言って深華は、膝を抱えるように俯いた。いつになく頼りなさげな姿だ。


「ここで、死んじゃったのね。花菜は」


「そうですね」


 上谷君は、供えられた花をぼんやりと見つめていた。とても遠い目をしていた。


「痛かったでしょう。切り裂かれるのは。殺されるって、どんな気分なんですかね」


「知らない、知らないわ! わからないもの、そんなこと。なんで、花菜なの……。なんで……?」


 軽く顔を上げた深華の目には、涙が滲んでいるようだった。夕日を反射して、煌めいている。悲しみというよりは、ひどく悔しがっているように見えた。負けず嫌いな深華らしい。


「……黒川先輩ですか?」


 唐突に、上谷君はこちらを見据えて問いかけてきた。彼は人の気配に割と敏感なほうだ。深華より先に気づくだろうとは思っていたが、これほど早いとは思っていなかった。


「こんにちは、上谷君。御園さん」


 柊も柊で余裕たっぷりに微笑んで見せる。柊は私の手を引いたまま、二人との距離を詰めた。


「こんにちは。黒川先輩もお参りですか? 彼女連れで」


 悪気はないのだろうが、若干嫌味のようにも聞こえる物言いだった。上谷君には、よくあることだ。


「残念、この子は妹だよ」


 息をするように、平然と嘘をつく。柊がこんなに上手に嘘をつける人だったとは思わなかった。また一つ、意外な一面を見た気がする。


「妹さんと恋人つなぎですか。ずいぶん仲がよろしいんですね?」


 深華も目に涙を浮かべたまま会話に参戦する。その瞳は、潤んでいても真っ直ぐに相手を射抜いていた。


「そうだよ。可愛いだろう?」


「妹自慢に来たなら、さっさと消えてください。不快です」


 きっぱりと深華は言い放つ。彼女はいつも柊に対して当たりが強いが、ここまでではない。やはり、かなり気が立っているのだろう。


「もちろん、花菜に会いに来たんだ。妹も来たいというから連れてきた。それだけのことだ」


そういって柊は深華の傍まで距離を詰める。深華はほとんど睨むように、私たちを見上げた。


「花菜が死んだっていうのに、その態度ですか。ずいぶん余裕ですね」


「これでも悲しんでるつもりだ。感情に疎い御園さんにはわからないだろうけど」


「……柊」


 流石に言い過ぎだ。私は小声で柊を諫める。柊は私を一瞥すると、軽く息をついてそれ以上は何も言わなかった。


「でも、俺も意外です。黒川先輩はもう少し動揺していると思ってました」


「俺は君たちと違って、花菜の死を知ったのが早かったからね。今はだいぶ落ち着いてる。それに、悪いことばかりじゃない」


 柊は私の手を握ったまま、そっと花束に手を伸ばした。甘い香りが、ふわりと漂う。


「これでもう花菜は、どこにも行かないわけだ。誰かに、奪われていくのを見なくて済む」


 わずかに微笑んで、そう呟いた柊の目は、朝見たときと、同じくらいの暗さだった。その不安定さに、背筋が凍る。はっと息の止まるような緊張を強いられる。


「とんだ独占欲ですね。言っておきますけど、それで花菜があなたのものになったわけでもありませんから」


「相変わらず、手厳しいな、御園さんは」


 ふっと微笑んで、柊は冗談めかして言った。明らかに深華の神経を逆撫でしている気がする。


「私、もう帰ります。この面子じゃ静かに祈ることもできませんから」


「一応礼儀として訊くけど、送っていこうか?」


「結構です」


 深華は立ち上がるなり、一度もこちらを振り返ることなく去っていった。確かにこのメンバーは、深華にとって最悪といってもいいくらいの顔ぶれだ。上谷君と言葉を交わしていた時点で、それなりに無理はしていただろうに、柊の登場でもう我慢ならなくなったのだろう。


「お名前は、なんていうんですか? 俺らと同世代くらいですよね」


 不意に上谷君が、私のほうを見て尋ねてくる。私はこの場では空気に徹しようかと考えていただけに、多少戸惑ってしまう。


「僕は上谷といいます。お兄さんの高校の後輩です」


 まさか本名を名乗るわけにはいかないが、間が空いても不自然なので咄嗟に答えてしまう。


「シーカ……。詩歌です。兄が、お世話になっています」


「詩歌さん? 変わった名前ですね」


「よく言われます」


 よく知っている上谷君相手に、今更名乗るのは妙な感覚だ。多少、ぎこちない対応になってしまう。それを見かねたのか、柊も会話に参加してくれた。


「上谷、妹には手を出すなよ?」


 冗談めかして、柊は小さく笑った。その一方で、上谷くんは花束から落ちた花びらを弄びながら淡々と切り返す。


「ご安心を。僕は、幼馴染の殺された現場に、女性を連れ込むような不謹慎な真似はしないタイプなので」


 一瞬、場の空気が凍り付く。この発言には、流石の柊も戸惑いを隠せないようだった。上谷君は、気配だとか嘘には確かに敏感だが、ここまでとは思っていなかった。


「何を言いたいのか、よくわからないな」


「そうですね。聡明な先輩がそう仰るなら、隠しておきたいことなのでしょうから、これ以上は無粋ですし、やめておきます。それに、言われてみれば目元が似ている気がするので、盛大な勘違いかもしれませんしね」


 上谷君は、気づいている。少なくとも、私が柊の妹でないということは。柊は躊躇うこともなく、綺麗に嘘をついてみせたのに。


「こんなこと言ったら、先輩は笑うかもしれませんが、今日、茶道部に橘さんがいたような気がしたんです」


 これには最早、私も柊も絶句するしかない。勘がいい、なんてものではない。ここまでくると第六感の存在も、完全に否定できなくなってきた。そもそも、私自身幽霊なわけであるし、世の中にはシーカのような超自然現象的な存在もあるわけだから、第六感だけを否定するのも妙な話だ。


「橘さんのいつもの席に、橘さんがいてくれたような気がしてしまいました。こんなのは、生きている人間が都合よく考えているに過ぎないと、頭の中ではわかっています。でも、都合よく考えられるのも生きている僕らの特権ですね。だから笑われても撤回はしませんよ。……それに、茶道部にまで来てくれたんだから、きっと今頃は黒川先輩のそばにいるんでしょう。そんな気がしています」


「励ましているつもりか」


「思ったことを伝えただけです」


 そう言って軽く息をつくと、上谷君は立ち上がり、供えられた花束やお菓子の箱を見下ろした。夕焼けが、彼の影を長く伸ばしている。


「俺はもう行きます。先輩とはまたきっと、橘さんのお葬式でお会いするんでしょうね」


「そうなるかな」


「ではまた近いうちに。失礼します。黒川先輩、詩歌さん」


 彼は参考書の詰まった鞄を肩にかけると、街の大通りのほうへと歩き出した。上谷君には、いつか、気づかれてしまうかもしれない。漠然と、そんな予感がした。


「部室で、上谷と話したのか?」


 軽く息をついて、柊は視線だけで私を捉えた。柊にしては、かなり動揺しているようだ。


「話したよ。もちろん、私の声は聞こえていないようだったけど。……でも、上谷君、私の目の前に座ったんだよ。なんとなく、気配を察知してたのかな」


「あいつの言葉を信じるなら、そうなんだろうな。変わった奴だと思っていたが……」


「第六感っていうやつかな?」


「そういう類のものを、持ち合わせているのかもしれないな」


 昨日から、柊は超常現象に巻き込まれっぱなしだ。よくここまで落ち着いていられるものだと、感心してしまう。


「立てるか? ベンチで休もう」


 柊が先に立ち上がり、私の手を引いてくれる。既にほとんど日が沈みかけていた。公園内の人影もまばらだ。初夏の涼しい夜の気配が近づいている。


 私たちは、木々に囲まれた小さな広間のベンチへ移動した。さわさわと、葉がこすれる音が心地よい。そっとベンチに腰を下ろせば、どっと疲れが押し寄せた。


 思ったより、足が痛んでいる。それでも、憑依初日にしてはよくやった方ではないだろうか。


「その様子じゃ、案外すぐに眠れそうだな」


 柊はふっと笑って、私から手を放すと、羽織っていた上着を私にかけてくれた。温もりと葉の音に、心が安らいでいく。これならば、問題なく眠れるだろう。


「おやすみ、柊」


「ああ、おやすみ」


 とても幸せな心地だった。隣に柊がいるということが、こんなにも私に安らぎを与えるとは、生きているうちには気づけなかった。穏やかな気持ちで、心が満たされていく。そのまま、静かに私は目を閉じた。

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