第9話 不透明の始まり

 柊の大学周辺は、この街の主要な駅が近いこともあってかなり人通りが多い。大きなショッピングモールやレストランが立ち並ぶ中、私と柊は書店の中に併設されているカフェに入った。読書をしながら滞在する人が多いせいか、静かで落ち着いた雰囲気で、いかにも柊が好みそうだ。コーヒーや紅茶だけでなく、デザートやちょっとした軽食もあって、私たちにはちょうどいい。


「憑依のことについては、まあ、なんとなくわかった。眠らないと離脱できないっていうのは少し面倒だな」


 柊には、シーカから聞いた話を粗方話し終えた。私の下手な説明でも、何とか伝わったらしい。私は目の前のホットケーキを切り分け、一口口に運ぶ。蜂蜜の程よい甘さが、口一杯に広がっていく。言葉にできない幸福感だ。


「……花菜は、割と呑気だよな。死んでもそこは変わらないのか」


 柊は半ば呆れたように、私を見ていた。折角頼んだサンドイッチセットにも、柊はあまり手を付けていないようだ。


「柊もちゃんと食べなきゃだめだよ。ホットケーキが食べたいの? 取り換えっこする?」


「甘いものはそれほど好きじゃない」


「え?」


 一瞬、ホットケーキを切り分ける手を止めてしまう。私の前ではよく、甘いものを食べていたのに。わざわざ茶道部へ遊びに来るほどに、和菓子が好きだったのではなかったのか。


「じゃあ、サンドイッチ食べなよ」


「食欲がないんだよ」


「駄目だよ。生きてるんだから、食べないと」


 私に言われて、渋々柊はサンドイッチを口に運ぶ。本当はもっと栄養のありそうなものを食べたほうがいいだろうが、柊がこれしか選ばなかったのだから仕方ない。


「……それで? 学校のほうはどうだったんだ。何か思い出したのか?」


「残念ながら何も思い出せなかったよ。でも……みんな、悲しんでくれていた」


「まあ、そうだろうな」


「友だちを泣かせたのは、初めてかもしれない」


「幼馴染を泣かせたのも初めてだろう」


 昨夜の柊の涙を思い出す。それだけで、胸の奥がきゅっと痛んだ。


「そうだね。柊が泣いているのは初めて見たよ」


「花菜はよく泣いていたな」


「柊と違って、感情に素直なの」


 私は昔からどちらかといえば泣き虫なほうだ。映画でもちょっとしたことでも、すぐに涙が零れる。そんな私を柊はいつもからかって、その癖に涙が止まるまで傍にいてくれたものだ。


「寂しいって言えないくせに」


 柊は暗い目のまま、私を見据えた。一気に脈が早まる。柊のことは好きだが、その目は苦手だ。どうも居心地が悪くなってしまう。


「……寂しいって言葉、苦手なの。だから言わないだけ」


 まるで自分に言い聞かせるように、私は反論した。ほとんど意地を張っているだけだということには、私自身気付いていたが、あの家のせいで寂しい子だとか可哀想だとか、そんなことは言われたくなかった。


「どこが素直なんだか」


 柊は小さく笑って、コーヒーを口にした。やはり、柊には敵わない。私はそれ以上何も言えないまま、ホットケーキを切り分ける。


「柊は、私が殺されて可哀想って思う?」


「どうだろうな」


「今日、上谷くんが言ってたの。私は殺されちゃって可哀想だけど、残された上谷くんたちはもっと可哀想だ、って。覚えてる? 茶道部の上谷くん」


「覚えてるよ」


 柊は若干、声のトーンを落とす。上谷くんの話題がいけなかったのだろうか。柊と上谷くんはお互いに苦手意識を持っている嫌いはあったが、犬猿の仲というほどでもないはずだ。


「柊も可哀想なのかな」


「残念ながら、今の俺には花菜のことも自分のことも憐れむ余裕がないから、何とも言えないな」


 柊は再び小さく笑って、サンドイッチを口にした。憐れみではないというのなら、あの涙の訳は何だろう。


「じゃあ、柊は、今何を思ってるの?」


 何故だろう。昨日から少しずつ、柊が見えなくなっていく。暗い目の理由も、眠らなかった訳も、私にはわからない。私は柊のことなら、大体のことを把握しているつもりだったのに、次から次へと私の知らない一面が現れる。そのことに、不安を覚えないわけではなかった。


「内緒」


 柊は意味ありげに笑うと、手元のコーヒーを飲み干した。もうこれ以上、追及させない気なのだろう。私に、隠したいことでもあるのだろうか。


 私も、ホットケーキの最後のひとかけらを口に運んだ。直に日が傾く。窓の向こうの影が、やがて長くなるのだろう。私は言葉にならない欝々とした感情を心の隅に抱きながら、蜂蜜入りのホットミルクを飲み干した。






「本、見なくてよかったの?」


 軽い食事を終えた私たちは、街の大通りに出ていた。相変わらず、私の手は柊が引いてくれている。折角、書店のカフェにやってきたのだ。本が好きな柊のことだから、少し書店を見ていくものだと思ったのに、食事を終えると早々に書店を後にしてしまった。


「今は何だか、昔読んだ本を読み返したい気分なんだ」


 橙色に滲み始めた空の下で、ぽつりと柊は言う。その横顔が、いつになく寂しげで、何も言えなくなってしまう。代わりに、ぎゅっと柊の手を握る手に力を込めた。


「花菜も読む?」


 繋いだ手の中で、柊の指がシーカの白く細い指に絡んだ。私はふっと微笑んで、柊を見上げる。


「読みたいな。面白かったの、教えて」


 視線が合った先で、柊の瞳が軽く揺らめいた。数秒間の沈黙が訪れる。大通りの人ごみの中、私たちは二人、時間が止まったかのように立ち止まっていた。


「柊?」


 柊は、私から目を逸らして、泣き出しそうな表情で笑った。暗い目をして笑うよりは幾分良いが、私が見たかったのはその笑顔ではない。


「ごめん。笑った顔が、少しだけ、花菜に似てたから」


 その返しは意外だった。シーカは本当に整った顔立ちをしていて、私と似ている部分なんて一つもないと言うのに。


「姿はシーカのものでも、私が憑依しているせいかな」


「いや、顔立ちも少し似ている。鼻とか、口元とか」


「私、こんな美人じゃないよ」


 自分の顔を綺麗だと思ったことなど、ただの一度もなかった。むしろ、鏡を見ていると、憎悪にも似た暗い感情で心が満たされていく。奈菜と同じ、私の顔。この顔さえなければ、私と奈菜は仲の良い姉妹になって、家族は壊れなかっただろうか。


「そうかな。嫌いじゃなかったけどな、花奈の姿」


「そう、ありがとうとは言わないよ。柊の好きなものなら、何でも好きになりたいけど、それだけは無理。私は大嫌いだもの。私の姿も私のことも。死んだってそれは変わらない」


 私は柊の手を握ったまま、夕日のほうへ一歩歩き出す。柊もそれに続いた。


「花菜」


「ねえ、私は今どこにあるかな。私、体はぐちゃぐちゃだったけど、顔にはそんなに傷なかったよね。あの顔こそ、壊してほしかったのになあ」


「花菜っ」


 窘めるように私の名を呼ぶ柊の目を、私は上目遣いに覗き込む。


「ねえ、柊、お願い。私の顔、今からでも壊してきてよ」


 半分冗談みたいな、猟奇的なお願いだ。だが、柊は茶化すことも軽蔑もせずに、ただ私の目をじっと見ていた。


「……俺は、花菜の好きなものを好きでいようとは思わないけど、花菜の嫌いなものは大嫌いだし、できることなら壊す努力をする。でも、花菜と同じように、こればかりは駄目だ。これ以上、花菜を傷つけたくない」


「柊は、私の姿と中身、どっちが大切だったの?」


「姿一割、中身九割ってところかな」


「そう。じゃあ、今は九割分しか私のこと大切じゃないんだね」


「はっきり言えば、そうなるかもな」


「柊って変わった人だね。私はこの姿になって、生まれて初めて胸を張って歩けているのに」


 足が痛んでも、体中が重くても、柊の隣を堂々と歩けたことが本当に嬉しかった。中身は家族を不幸にした元凶だということに変わりはなくても、今は奈菜にも誰にもあの人にも咎められずに済むのだ。強大な武器を手にした気分だった。


「ますます嫌いになったよ。奈菜のこと」


 吐き捨てるように柊はそう言うと、私の手を強く握りなおした。


「……公園に戻ろう。眠らないといけないだろう」


 日没まで、二時間くらいはあるだろうか。気分が落ち着けば眠ることもそれほど難しくなさそうだ。再び先を歩き出す柊の背中を見つめながら、昂った感情を抑える努力をする。この話題だけは、いつも完全に柊と意見が食い違い、言い争ってしまう。柊はきっと私のことをそれなりに大切に思っていてくれて、私は私のことが大嫌いなのだから、仕方のないことではあるのだが、死んでもなお、柊と分かり合えないことがあるとは思いもしなかった。

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