第8話 憑依の始まり

 正午過ぎの公園は、朝とはまた違った趣がある。のどかに散歩を楽しむご老人や、手をつないで歩く親子連れなど、普段はあまり見ない年齢層の人たちに出会える。後者に関しては、眩しすぎてあまり長くは見ていられなかったが。


 そんな中で一見一人で佇んでいるように見えるシーカはかなり目立つだろう。顔立ちだけでなく、服装もレースをあしらった黒いワンピースで、浮いていることは否めない。


「いい公園だね、ここ。私も時々散歩に来るよ」


木陰のベンチに二人で並んで座る。風がシーカの髪を穏やかに揺らしていた。


「それは、黒猫の姿で?」


「そうだよ。友だちの猫と一緒にね」


 想像するだけでも微笑ましい光景だ。こんな晴れの日には日向ぼっこでもするのだろうか。


「さて、何から話そうか?」


 無邪気に笑う彼女は、こんな血なまぐさい事件にはそぐわなかった。彼女を巻き込んでしまうのは心苦しいが、茶道部で密かに固めた決意を口にする。


「……シーカ、私ね、私を殺した犯人を見つけようと思うの」


「犯人が憎い?」


「違うの。柊や友達がみんな、私の死を悲しんでくれていたから……。みんなの気が晴れるなら、私は犯人捜しをしたい。このままのうのうと幽霊で居るのは気が引けるもの」


 しばしの沈黙の後、シーカは、面白そうにくすくすと笑った。


「花菜ちゃんって、本当に真面目だね。いいと思うよ。じゃあ、じゃんじゃん私に憑依して犯人探しに活用してね」


「ありがとう」


「早速、乗り移ってみる?」


 今日のお昼、学食でいい? と聞くときと同じような軽さで彼女は言う。憑依してみたい気持ちはあるが、不安が多すぎる。


「……私が乗り移っている間、シーカはどうなるの?」


「私? 私の意識は、眠っちゃうから、こうやってお喋りしたり、意思疎通はできないよ」


「私がシーカから離れたいと思ったときは?」


「そのときは、花菜ちゃんが眠ってくれればいいよ。花菜ちゃんが眠るのを離脱の合図にしようか」


「わかった。あとは、何か諸注意とかは?」


 相変わらず、真面目だとでも言いたげに彼女は頬を緩めながら、少し考えるような素振りを見せる。


「そうだなあ。私たちは普通の生き物より治癒力は高いけど、ご存知の通り死なないわけじゃないから、再び殺されないように気を付けてね。それと、たった一日とは言え実体なしにさまよっていた花菜ちゃんには、憑依直後はいろいろ不具合があるかもしれないけど、まあ、それは慣れだね!」


 非常に不安なことをさらりと言ってのけたことが気になるが、まあ、習うより慣れろだ。ここは覚悟を決めて、憑依してみよう。


「私に憑いた後は、どこへ行くつもりなの? よければその近くまで行ってから依代になろうか?」


 親切にもシーカはそう提案してくれる。このあとどうするかはあまり考えていなかったが、ただ柊に会いたいと思った。公園の時計を見上げれば、今は午後一時半を回ったところだ。柊とはここで待ち合わせていたが、こちらから迎えに行くにはちょうど良い時間である。


「柊のところに、行こうかな。ちょっと心配だし」


柊の名前が出た途端、シーカは少し不安げな顔をする。


「柊くんのところか……。そうだね、行った方がいいよね。昨日は一睡もしてなかったし」


「え?」


 思わず、耳を疑った。私には、確かによく眠れたと言っていたのに。


「私、昨日の夜は柊くんの部屋のベランダにいたけど、柊くん、一度も眠らなかったよ。ずっと、花菜ちゃんを見ていたみたい」


「……柊が?」


「あの様子で、もし花菜ちゃんの姿が見えていなかったら、柊くんどうなってたんだろうって思う程度には、暗い目をしていたね。私が思っているよりずっと、柊くんは花菜ちゃんが大切みたい。早く会いに行ってあげようか」


 シーカは、私の手を取って私を元気づけるように笑った。私も、彼女につられてそっと微笑む。ここで、くよくよと考えていても仕方がない。今は、柊に会いに行こう。


「それじゃあ、さっさと憑依しちゃいますか!」


「どうすればいいの?」


「私と両手をつないで、目を瞑っていてくれればそれでいいよ」


 私はもう一歩の手をシーカに差出し、そっと目を瞑った。憑依するのはどんな心地だろう。妙な緊張が走る。


「じゃあ、おやすみ。花菜ちゃん。またあとでね」


不意に訪れた眩暈のような感覚に、私は意識が遠のいていくのを感じた。





 重い。


 不意に覚醒した意識の中、第一に思うことはそれだった。体中が、ただただ重い。起き上がることはおろか、目を開けることさえ上手くいかない。これが、シーカの言っていた憑依後の不具合の一つだろうか。たった一日とはいえ、重力から解放されて漂っていた代償がこれか。


 何とか瞼を開けると、途端に初夏の日差しが目に刺さり、痛みにも似た眩しさを感じて、再び瞼を閉じてしまった。光は、こんなにも強いものだったか。何度かそれを繰り返すうちに、どうにか目だけは開けることができた。まだ少し霞んだ視界で、公園の時計を見上げてみると、シーカと話をしてから五分と経っていない。柊との待ち合わせにはまだ余裕があるが、こんな調子では大学までなんてとても辿り着けそうにない。


 細い両腕を使って、ベンチに横になる姿勢から上半身を起こそうと試みる。それだけでも、腕が小刻みに震えていた。シーカの体は、どちらかといえば虚弱な方だろう。とてもじゃないが、重いものをたくさん運べるような印象はない。


 やっとのことで、上半身を起こしたときには、既に息が上がっていた。胸が痛む。短距離走を全力で走った後の様な、不快な感覚だ。思わず両手で、ぎゅっと胸のあたりを押さえる。まだ初夏だというのに、首筋に汗が伝う感覚があった。こんなことではいけない。唇を噛みしめて、大通りへと続く道を見据えた。


 そこから更に数分かけて、何とか立ち上がり木々の幹に手を着きながら、大通りの方へと進み始めた。時間が経つにつれて重力に慣れてきたようで、動かせる範囲が広がっていったが、その分体力の消耗も激しかった。まだ初夏だというのに、軽い熱中症のような症状を呈してしまう。


 ふと、目の前が大きく揺らぎ視界が眩んだ。持ちこたえられず、地面にへたり込んでしまう。この調子では先が思いやられる。リハビリが必要かもしれない。

 そんな中、影が近づいてきたかと思うと肩を抱き起される。顔をあげると、怪訝そうな顔をする柊と目が合った。


「柊! 私だよ、花菜だよ」


「憑依したのか?」


 私は頷いて、土埃を払い何とか立ち上がる。柊はまだ腑に落ちていないような表情だった。


「なんか、戸惑うものだな」


「そうだね、私も今、重力に戸惑っていたところだよ」


 柊は肘についていたらしい土埃の残りを払ってくれた。擦りむいてはいないようだ。


「それでふらふらとしていたんだな。歩けるのか」


「柊もいるから、多分大丈夫だよ」


「シーカ自身は今どこに?」


「眠っているみたい。その辺の話もちゃんとするから、甘いものでも食べに行こうよ」


 今朝のあの様子では、柊はどうせお昼も食べていないのだろう。容易に想像がついた。無理にでも何か食べてもらわなければならない。


「……じゃあ、適当に店を探すか」


 そう言って歩き出した柊は、彼なりにゆっくりと歩いてくれているのだろうが、追い付くので精一杯だった。先ほどよりも、ずっと調子は良かったが生きていたときの感覚を完全に取り戻すには至っていない。軸がぐらぐらと揺れてしまう。


「危なっかしいな」


 数歩先で柊は歩みを止めて、私を待っていてくれた。やがて柊の傍まで辿り着くと、何気なく手を握られる。指先に、幽霊のときには感じない温かさが伝わった。

柊はそのまま、ゆっくりと歩き出した。彼と並んで歩くことは毎日のようにあっても、手を繋いで歩くのは久しぶりだった。彼の手の温かさは、ずっと変わらない。


 おぼつかない足取りでも、柊の手が導いてくれる。私に残る最後の感覚が、どうかこの温もりでありますようにと、誰ともなしに祈った。

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