第7話 悲哀の始まり

 私の高校は、それなりに名の知られている付属高校で、生徒の数はかなり多い。朝のこの時間帯は、広い前庭のどこを見ても、制服姿の少年少女で一杯だった。清々しい日差しの下、おはよう、おはよう、と延々と交わされる挨拶は、やはり今日もいつもの調子で、何一つ変わらない。時折、私の事件のことを口にする生徒もいるが、クラスも部活も違えばほとんど接点などないので、何気ない噂話に終わる。


 人混みの中、半透明のまま、友人の姿を探してみるが見当たらない。もう教室にいるのだろうか。私はそのまま漂うように、教室を目指した。


 朝特有の賑やかさが、どの教室からも溢れている。私は長い廊下を漂いながら、明るい笑い声に耳を澄ませていた。誰かが笑っているだけで、少し心が軽くなる気がした。昨日からずっと、柊の暗い顔ばかり見ていたからだろうか。早いところ、柊にも笑顔を取り戻してもらいたいものだ。そんなことを思いながら、私は自分の教室の入り口に立った。


 しん、と静まり返ったその教室はまるで別世界だった。ホームルームの始まる五分前だというのに、ほとんどのクラスメイトが自席に着席して、行き場のない視線をさまよわせている。教室内に響く音は、友人の泣きじゃくる声ばかりだった。


 窓際の一番後ろの席には、真っ白な百合の花が飾られている。昨日まで、私が座っていた席だ。その机の前で、黒髪を二つに結った千夏ちなつが、泣き崩れている。そんな彼女の傍に、深華みかが寄り添うように立っていた。二人とも、私の大切な友人だ。


「何で、花菜ちゃんが……」


 泣きじゃくりながら、千夏は嘆く。トレードマークの渕のあるメガネは、無造作に床に置かれていた。ずっと泣いていたのだろうか、すっかり目が赤くなっている。


 そんな千夏をじっと見つめながら、深華は窓に寄りかかった。ストレートの長い髪が揺れる。深華は、泣いてこそいなかったが、伏目がちな瞳は憂いを帯びていた。


 実体なんてもう無いというのに、ひどく胸が痛んだ。私のいないこの二人の間に流れる空気も、床に落ちた涙も、日差しを浴びる百合の花も、すべてが悲しかった。やはり、目の前で悲しまれるのは一番辛い。それは昨日、身をもって知ったはずなのに、少しも慣れなかった。


「ごめん、ね……」


涙を流しながら、私は二人に手を伸ばす。半透明の私の手は、当然彼女たちに触れられるわけもなく、空を切った。


「勝手に、死んじゃってごめん」


 届かない声で何度も謝りながら、私は二人に寄り添う。泣かないで、とは言えなかった。勝手に死んでおいて、彼女たちの感情にとやかく言う資格はない。友人を泣かせてしまうだけのことを、私はしてしまったのだ。


 ホームルーム開始のチャイムとほぼ時を同じくして、教室前方のドアから担任教師が入室してきた。いつもは淡い色のワンピースなどを好んで着る夏条なつじょう先生が、今日はまるで喪服のような黒いスーツ姿だった。ふわふわとした明るい色の髪を質素に後ろでまとめ、神妙な面持ちで教壇まで歩み寄る。


柚原ゆずはらさん、御園みそのさん。座ってください」


 夏条先生は、担任というだけあって、私が千夏と深華と親しくしていたことをよく知っている。千夏の涙の意味も、いつにない深華の暗い表情の訳も、すぐに察しがついたのだろう。何に触れることもなく、ただ淡々と静かな声で着席を促した。最早、この教室では、下手な慰めの言葉など空回りするだけだった。


 深華は、無言で千夏の腕を掴むと、そのまま彼女を席へと連れて行った。泣き疲れたらしい千夏は、特に抗う様子もなく、そのまま自席に着く。そのまま深華もすぐに着席する。再び流れ出した重苦しい空気の中、夏条先生は淡々とホームルームを始める。


「号令を」






 体育館では、異例の全校朝礼が執り行われていた。私の事件を受けてのことだった。ステージの上では、教頭が簡単に事件の概要を説明し、校長が生徒たちに注意を呼び掛けている。


 私は体育館のキャットウォークから、その様子を眺めていた。体育館中がセーラー服とシャツの白で埋まっている。他クラスの生徒たちは一限目が潰れたのをいいことに、仮眠をとったり、携帯をいじったりして暇を潰しているようだった。


 ただ、クラスメート以外にも、私が所属していた茶道部の部員は校長の話に耳を傾けているようだった。部長だけは俯いていると思えば、高い位置で一つに結った長い髪を小さく揺らしながら、涙を流しているようだった。友人に限らず、部長までを悲しませてしまい、心苦しいことこの上ない。


 このまま学校にいても苦しいことばかりだが、外へ行く当てもない。何より、友人たちの嘆きから目を逸らしてはいけない気がした。今日は確か昼休みに、お茶会に向けてのミーティングがあったはずだ。せめてそれには参加をして、他の部員たちの様子も伺う必要がある。それに、昨日最後に立ち寄った場所は、茶道部の部室だった。何か思い出せるかもしれない。






 茶道部の部室は、中庭に面した日当たりのよい和室だ。それほど広い和室ではないが、部員数が六人と少ないため狭くはなかった。放課後の部活動だけではなく、試験前には、ここに集まって勉強したりしたものだ。香月かづき部長と水野みずの先輩が私たち後輩に、よく勉強を教えてくれた。柊が卒業してからは、一番親しくしている上級生だった。


 その二人が、昼休み開始の鐘がなるとほぼ同時に入室してきた。部長は脱いだ靴を揃えることもないままに、畳の上に泣き崩れた。水野先輩がそっと香月部長の肩に手を置く。


 真昼の日差しが障子に透けて、二人の姿を淡く照らしていた。普段、快活で部員たちの中では姉のような存在の部長が、こんなにも弱っている姿を見るのは正直言ってかなり辛い。普段穏やかに、一歩引いて私たちを見守ってくれている水野先輩まで、香月部長を支えながら今にも泣きだしそうな顔をしていた。


「……ごめん、水野君。涙が、止まらなくて」


「大丈夫。俺だって泣きたい気分だ」


 再び入り口のほうのドアが開かれると、残りの部員である二年生三人が入ってきた。千夏は相変わらず涙ぐんだ眼で、ハンカチを手にしている。そんな千夏の手を引くようにして、深華と、もう一人の部員である上谷かみや君が部長たちのほうへ歩み寄る。これで全員集まった。今年度は新入生が入らなかったため、二年生は深華と千夏、上谷君、昨日までは私もいて、三年生は香月部長と水野先輩の六人で構成されている。顧問は夏条先生が引き受けてくださっていた。


「お疲れさまです」


 深華が上級生二人を眺めながら、形式的に呟く。水野先輩が香月部長の肩を支えながら、それに答えた。


「ああ、お疲れさま。みんな、座りなよ。お昼は食べた?」


「……とても、そんな気分じゃなくて」


 水野先輩の言葉に従って、深華が千夏の手を引いたまま畳の上に正座をする。上谷くんもそのすぐ横に座った。


「そうだね。俺も食べてないよ。でも、部員全員がこれじゃ駄目だ。和菓子でも、開けようか」


「じゃあ、俺が用意します」


 そう言うなり、上谷君は立ち上がり和菓子やお茶を保管してる棚のほうへ歩み寄った。


「すまないね」


 水野先輩は小さく微笑んだが、すぐに暗い表情に戻ってしまう。この雰囲気では、とてもお茶会の話などできそうにもない。


「夏条先生は、顔を出したかったようですが、対応に追われているそうでこちらには来られないそうです」


 深華が淡々と報告をする。夏条先生も運が悪い。まだ三十代に差し掛かってもいない若さなのに、このような事件に巻き込まれるとは。


「そうだろう。仕方ないよ」


「ごめんなさい。こんなときこそ、私がしっかりしなくちゃいけないのに」


 香月部長が嗚咽を漏らしながら、深華たちに告げる。深華はそんな香月部長を一瞥して、すぐに視線を逸らしてしまった。


「部長や千夏のほうが、まともな反応なんです。謝ることじゃ、ないと思います」


 深華は軽く俯いてしまった。相変わらず、その目は沈んだままだ。


「お茶をたてるのも何なので、普通の緑茶にしました」


 お盆を両手で持ちながら、上谷君が戻ってくる。だが、一歩入るなり、ふと足を止めてしまった。


「どうした?」


 穏やかな声でそう尋ねながら、水野先輩が上谷君を見上げる。上谷君は少し呆然としたようにお盆の上を見上げながら、やがてどこか自嘲気味に笑った。


「……すみません。お茶、六つ用意しちゃいました」


「構わないよ。橘さんの席に置いてあげるといい」


「そうします」


 そう言うと上谷君は、深華の隣、障子の前の私の定位置に緑茶とお茶菓子を置いてくれた。そのまま、他のみんなの前にもお茶を置いていく。


 空気に徹しようと思ったのに、こんなことをされては、また泣けてくるではないか。私は視界が滲むのを感じながら、そっと定位置に座った。


「香月も柚原さんも、とりあえず落ち着いて。みんなで食べよう」


「そうね。食べましょう。私たちが倒れたりしたら、それこそ迷惑になるわね。ほら、千夏ちゃんも一緒に食べましょう。千夏ちゃんの好きな羊羹よ」


「千夏」


 香月部長や深華に促されながら、ようやく千夏もお茶を飲む姿勢を見せた。重苦しい雰囲気のまま、水野先輩が切り出す。


「いただきます」


 その声に続くようにして、皆それぞれのペースでお茶を口に運んだ。水野先輩の言う通り、お茶を飲み、羊羹を一口二口食べるうちに、香月部長も千夏もいくらか落ち着いたようだった。私も、目の前に置かれた、花形の可愛らしい羊羹を目で楽しむ。私は正直、羊羹があまり好きではなかったが、部活に入って初めて食べたこの花形の羊羹だけは何だか妙に気に入って、食べるのを楽しみにしていたものだ。数ある和菓子の中からわざわざこれを選んでくれたのは、上谷君の心遣いなのだろうか。彼は凛としていて、どちらかといえば冷たい印象を受けるが、本当はとても優しい人物だ。


「お通夜や、お葬式の日程はいつになる?」


緑茶を片手に、水野先輩が軽く俯いて言った。


「まだ、私たちも聞かされていません。ただ、その……花菜の場合は、事件の被害者なのでいろいろと調べることがあるそうです。一般的な日程よりは少し遅れるのではないかと思います」


 私の体は、今も病院に安置されているのだろうか。今はどんな状態だろう。葬式の時くらいまでには、ある程度綺麗にしてもらえるのだろうか。あんなぐちゃぐちゃな状態が、最後に友人たちの目に焼き付けられるくらいならば、いっそ来てもらわないほうがましだ。昨日までの私の姿を、記憶にとどめていてほしい。


「何か、わかっていることはないの? 犯人について、とか」


 香月部長がスカートの裾を握りなめながら、誰ともなしに尋ねる。千夏は再び手にしていたハンカチを目元に当てた。


「そればかりは、私にはわかりかねます」


「通り魔、とも、ストーカー殺人とも言われてますけどね。惨殺というくらいですから、かなりの傷だったんでしょうね」


 深華に続いて上谷君も情報を提供する。確かに、昨日の私の遺体の状態を見る限りは惨殺というに相応しいのだろう。不意に千夏はハンカチを顔に当てたまま肩を震わせて嗚咽を漏らした。深華がそれを労わるようにそっと彼女の肩に触れる。そしてそのまま睨むように上谷君のほうを見た。


「憶測とか噂で物を言うのはどうなの。相変わらず、デリカシーの無い奴」


「犯人についてはともかくとして、橘さんの状態については事実でしょう。そうやって泣きわめいて慰めあっているだけで事が進むなら、是非とも僕もそうさせてもらいますけどね」


「二人とも、頼むから今日くらいは争わないでくれ。みんな気が張ってるんだ」


 水野先輩が二人を諫める。深華と上谷君は日ごろからあまり仲のよい方ではなかった。このように露骨に言い争いすることも、珍しくはない。大抵、そんな口論は冗談めかしたものですぐに終わるのだが、この重苦しい空気ではそうもいかないようだ。


「夏条先生が、もしかすると私たちも警察に事情を聴かれるかもしれないと言っていました。その場合は、なるべく協力するように、とも」


「そうよね。多分、花菜ちゃんと最後に会っていたのは私たちだもの。協力できることなら、なんだってするわ」


 みんなが事件のことを案じてくれている以上、私も思い出す努力をしなくてはいけないだろう。自分の存在にそれほど執着が無かったせいか、犯人探しなどどうでもよいとも思っていたが、様子を見る限りそうはいかないようだ。最も犯人に近いのは、間違いなく被害者である私だ。証拠がなくても、犯人のことを思い出せさえすれば、柊は重点的にその人について探ってくれるだろうし、さりげなく警察に情報提供をすることも可能だ。幽霊の私にも、一つ目標ができた。


「黒川先輩も、落ち込んでいらっしゃることでしょうね」


 不意に柊の話題が出て、わずかに戸惑う。柊は化学部に所属していたが、何かとこの茶道部に立ち寄っていた。多分、落ち着いた雰囲気の和室と、中庭の見えるこの環境が好きだったのではないかと思う。


 柊は、成績優秀な上にスポーツなども難なくこなし、幼馴染の私が言うのも何だが、顔立ちも整っているため、学内ではかなり目立つ方だった。女子の間では、たびたび話題に上がる憧れの先輩といった存在だろうか。実際、上級生の二人や千夏は柊を好ましく思っていたようで、とても親しくしていた。深華と上谷くんだけは、どうも柊のことが苦手なようで、あまり積極的には関わる様子はなかったが、毛嫌いしている風でもなかった。そのせいか、柊は正規の部員でもないのに、今も茶道部の中で存在感を残していた。


「落ち込む程度なら、いいですけどね。俺は、なんとなくこういうときは黒川先輩みたいなタイプが一番危ない気がします」


「上谷、少し苛立ち過ぎやしないか。この場にいない人のことを悪く言うのはやめろ」


「すみません」


 上谷君は不本意そうに謝罪の言葉を口にした。確かに今日の彼の言葉には、いつもにも増して棘がある。普段、基本的に穏やかに見守るタイプの水野先輩に、もう二度も止めに入らせているのだから。


「まあ、黒川先輩が病んでも花菜の後追いしても別に構いませんけど、これから私たちはどうするんですか。私としては、できれば今まで通り週三日の部活があった方が、心が安らぐのですが」


 深華も上谷君のことを馬鹿にできない。表情にこそ出ていないが、かなり気が張っているようだ。


「……部活のことに関しては、私も同意見よ。今は、あまり、一人で居たくない気分だわ」


「それに関しては誰も異論はないんじゃないか?」


「あの」


 ここまでずっと沈黙を保っていた千夏が、軽くハンカチから顔を離して、俯いたまま呟いた。


「私……できれば、少し休みたい、です。頭の中が、もう、ぐちゃぐちゃで……。私、どうしたらいいかわからなくて……。花菜ちゃんが、いないなんて、そんなこと……まだ、信じられなくて」


 言葉を紡ぎながらも、千夏の目には、再び涙が溜まっていた。千夏や深華とは中学時代からの付き合いなので、特に親しくしていたからか、私の死が千夏に与えた影響は思ったより大きかったようだ。千夏は深華とは正反対で、昔から自分の感情には素直な方だった。思いやり深い性格もあって、普段から涙もろい方ではあるが、ここまで泣かれるとは私も思っていなかった。朝からずっと泣いているのではないだろうか。すっかり目が腫れてしまって、痛々しい。千夏の目を見ていると、申し訳ない気持ちで一杯になってしまう。


「無理しないで、千夏ちゃん。今日、ここに来るのもつらかったのね。気づいてあげられなくて、ごめんね」


「そんな、部長が謝るようなことじゃなくて……。ただ、どうしようもなく、悲しいんです。悲しくて、寂しくて、どうしようもないんです」


「千夏、今日はもう帰った方がいいよ。無理しないで」


 千夏はただただうなずいて、再びハンカチを顔に当てた。上谷君だけが、その様子をどこか冷ややかに見つめている。


「今後の方針も決まったことだし、今日はもう解散しようか。みんな、ちゃんと休むんだよ」


「後片付け、俺がしときます。先輩方は教室も遠いですし、あとは任せてください」


「ありがとう、上谷」


 深華と千夏が、先に部室を出ていく。香月部長と水野先輩もそれに続いた。急に広くなった和室には、上谷君だけが一人取り残される。


 上谷君はお盆の上に、湯飲みとお茶菓子が入っていた小皿を乗せていく。非常に手際が良かった。しかし、私の目の前の温くなった緑茶とお茶菓子に手を伸ばしかけて、不意に動きを止めてしまう。やがてお盆を置くと、私と向かい合うように座り直した。


「橘さんのお菓子、俺がいただいちゃってもいいですかね」


 一瞬、私の姿が見えているのかと驚いたが、どうもそういう訳ではないらしい。独り言だろうか。届かないと知りながらも、私は答えを返す。


「どうぞ。もったいないもん。食べてくれた方がいいよ」


「いただきます」


 そう呟いて、上谷君は花形の羊羹を口に運んだ。ゆっくりと味わうようにして、飲み込んでいく。しばらく甘い余韻に浸るように、小皿を眺めていたが、やがてぽつりと言葉を零した。


「何で、死んじゃったんですか。橘さん」


 意外だった。上谷くんがそんなことを言うほど、私を親しく思っていてくれたと思わなかったのだ。


「まあ、いいですけど。和菓子の取り分も増えるし、間違えてお湯かけられることももうないし」


「その節は、本当にごめん」


 いつだったか、私は茶釜を倒してしまい、謝って上谷君の足にお湯をかけてしまったことがあった。幸い火傷するほどの熱さにはなっていなかったようで、大事には至らなかったが、あの時はひやりとしたものだ。


「この羊羹を調達する理由も、もうなくなりましたしね。これからは、安いので済むので、部費が浮きます」


 わざわざ私のために、この羊羹を用意してくれていたというのか。不意に胸が熱くなる。確かに和菓子の調達係は上谷君だが、私の好みを心に留めおいてくれていたことに驚きを隠せない。死んでから気づいたことが多すぎて、本当に不甲斐なかった。


「この場にいたらきっと、橘さんは謝ってばかりいるんでしょうね。まあ、橘さんは鈍いから殺意にも気づけなかったとかそんな理由なら、是非とも部員全員に土下座でもして謝ってほしいですが、こればかりはどうしようもありませんね。殺されちゃって、可哀想ですね、橘さんは」


 不意に上谷君の表情が翳る。そうしてふと寂しげに笑った。


「残された俺らは、もっと可哀想なんですけどね」


 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。上谷くんは私の分の緑茶も飲み干すと、空いた湯飲みと小皿をお盆に乗せて、奥の棚の方へ行ってしまった。


 私は両目に溜まった涙をぬぐって、気分を落ち着かせようと試みた。みんなの嘆きをすべて背負うのは苦しかったが、それでも目を逸らさずにいてよかったと思う。案外、私は温かい想いの中で生きていたようだ。


 不意に、障子に猫のようなシルエットが映し出されていることに気が付いた。その陰は、にゃあと一声鳴いてみせる。聞き覚えのある声だ。ちょうど上谷君は部室から出ていくところだったので、私は障子のほうへ近づいた。


「シーカ?」


 そっと問いかけると、猫のシルエットが見る見るうちに少女のシルエットへと変わる。


「もう、あの子は出て行った?」


 鈴のような可憐な声で、シーカは障子越しに尋ねる。私は今一度、ドアのほうを確認してみた。もう、この部屋には誰もいない。


「もう大丈夫」


「じゃあ、開けるね」


 その声とともに障子が開けられる。その先で、黒髪の美少女が微笑んでいた。私もそっと笑い返す。


「やあ、半日ぶりだね」


「こんにちは、シーカ。幽霊生活は快適だよ」


「そう? ならよかった! 色々と話したいことがあるんだけど、場所を変えない?」

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