第6話 幽霊の始まり

 ふっと、唐突に意識が覚醒する。何の前触れもなく、目が覚めた。実体がないせいか、目覚めは非常にすっきりとしている。締め切ったカーテンの隙間からは、朝日が差し込み、窓越しに鳥の鳴き声が聞こえてきた。紛れもなく朝だ。ほんの少しの間だけ眠っていたような気がするのに、時計を確認してみれば、たっぷり八時間近く眠っていた。体を起こし、柊が眠っているであろうソファーのほうを見やる。


 まだ大学へ行くにはずいぶん早い時間のはずだが、柊は既に昨夜と同じように机の前に座っていた。血に塗れたシャツもそのままだ。朝になっても、相変わらず暗い目をしていて、顔に滲む疲れはむしろ昨日よりも顕著になったような気がした。


「……目が覚めた? 花菜」


 暗い目のまま、ふっと笑う柊の表情に胸騒ぎがした。少なくとも、私が生きているうちに、そんな顔をして笑う柊は見たことがない。


「早いね、柊。……よく眠れた?」


 この様子では、かなり睡眠不足なのでは、と不安になる。私が殺されたせいで、柊には何かとストレスを与えてしまった。心地よい睡眠でなかったかもしれない。


「ああ。花菜が寝た後、すぐに眠ったからな」


「……そう? なら、いいんだけど」


 私はベッドに腰かけるようにして、柊の方へ向き直った。やはり、柊の顔色はよくなかった。かなり心配だったが、自分が元凶である以上、更に口に出すのも憚られる。


 やがて、彼は椅子から立ち上がると軽く伸びをして見せた。やはり、シャツについた血痕が目に付く。


「……流石に着替えたら? そんな恰好で外に出たら職務質問されるよ」


「別にこの部屋から出なくても構わない」


「それは駄目だよ。大学に行かなくちゃ」


 柊としても、そんな気分ではないのかもしれないが、大学で友人などに会えば少しは気も紛れるだろう。私に出来ないことを、柊にしてあげられる人たちが大勢いるはずなのだ。


「……花菜も大学に来るのか?」


「私は、高校に行ってみようかな。何か思い出せたら捜査に貢献できるかもしれないし」


「まるで人ごとのように言うんだな」


「いまいち実感がわかなくて」


 こんな綺麗な朝を見ていると、昨日のことなんてすべて嘘だったように思えてくるから不思議だ。これからまた制服に着替えて、いつも通り眠い目をこすりながら、また柊とあの通学路を歩けるような気がしてしまう。


 そんなこと、もう、あるはずもないのに。


着替えを片手に部屋を出ていく柊を見送りながら、これから始まる一日に思いを馳せた。




 私の死を柊以外に悲しんでくれる人があるとするならば、やはり友人たちだろうか。鞄の中に分厚い教科書類を詰め込む柊を眺めながら、一人考える。私には親友と呼べるような友人が二人もいるし、部活の先輩方とも仲が良い。今頃彼女たちは、どうしているだろう。悲しんでほしいとは思わないが、友人たちにまで私の母と同じような対応をされると流石の私も空しくなる。生きていた意味、なんていう哲学的なことを考え始めかねない。


「本当にいくのか、高校」


 荷物の整理を終えたらしい柊が不意に尋ねた。暗い目は相変わらずだ。大学へ行くことを勧めたのは私だが、妙に心配になってきた。


「行くよ。それよりも柊、朝ご飯を食べないと」


「いらない」


「だって、昨日の夜ご飯も食べてないのに」


「……いらないって言ってるだろ」


 少し苛立ったような柊の声に、思わず何も言えなくなる。昨日から、柊は少し変だ。そんな言い方、私が生きていた時には絶対にしなかったのに。


「……ごめんね」


 幾通りもの意味をのせて、私は何度目かになるその言葉を呟いた。私に心配されるなんて、それこそ腹立たしいだろう。ただ、半日以上も何も口にしていなければ、お腹が空くだろうと思っての発言だった。


 不意に、私は気づく。空腹感というものが、よく思い出せない。食べることも必要なくなったこの体なら、当たり前のことなのかもしれないが、昨日まで当たり前のように私にあった感覚が、早くも遠ざかっていることに、小さな恐怖を抱いた。私は確かに死んでしまったのだと、改めて思い知らされる。


 二階にある柊の部屋を出て階段を降りていくと、リビングから柊のご両親が駆け寄ってきた。昨夜、ニュースでも流れていたくらいなのだから、ご両親も事件のことは既によく知っているだろう。


「柊、今日は大学を休んだら? そんな状態じゃ……」


「そうだ、柊。無理はするな。落ち着くまで、家にいたほうがいい」


 柊のお母さんの目は、よく見ると赤く腫れていた。柊のお父さんも、ひどく痛ましそうに柊を見ている。二人とも、あの人より遥かに私の死を嘆いてくれている。二人にはお世話になりっぱなしで、何も恩返しができなかった。


「……落ち着く? 何言ってんだよ。花菜が、死んだんだぞ」


 暗い目のまま、笑うように彼はそう言った。ご両親の顔に、明らかな動揺が走る。私も思わず耳を疑った。柊がここまではっきりと、ご両親の言葉を否定するのは珍しい。


 柊はそのままご両親に背を向けると、さっさと家を出てしまった。私は後ろめたさを感じながらも、慌てて柊の後を追う。ドアの先には、清々しい朝が広がっていた。通学や通勤には、まだ少し早い時間だからか人通りも少ない。


 一方で、私が殺された現場のほうは、警察車両やら取材に訪れた報道陣やらで、既に騒がしかった。柊はそちらを一瞥すると、いつもとは違う道へ足を向かわせる。


 少し遠回りになるが、柊の歩いている方向は公園の中を通って、大学や高校へ向かう道だった。時間に余裕があるときは、散歩がてらによく二人で歩いたものだ。木々の多いその公園は、季節ごとに違った顔を見せた。今は、初夏のみずみずしい緑で彩られている。


 公園の時計を確認してみれば、いつも私たちが待ち合わせる時間より三十分以上早く、散歩をしながら向かうにはちょうど良かった。柊のことだから、私にあの現場を見せないように気を遣ってくれたのだろう。


「こうやってお散歩してると、お花見行ったときのこと思い出すね」


 なるべく事件には触れずに、努めて明るく振る舞って見せた。柊に、少しでも穏やかな顔をしてほしかった。暗い目の柊を見ているのは、やはり辛いものがある。


「少し散り始めていて、綺麗だったよね。穴場も見つけたし」


 あの日は、少し遠出をして、街のはずれにある丘まで行ったのだ。人気スポットとは違って、花見客はそれほど多くなく、ゆったりと桜を鑑賞することができた。柊は、桜の写真を何枚も撮っていた。桜を撮る柊は思いのほか楽しそうで、私も嬉しくなったものだ。


 街の喧騒が、近づいてくる。この公園を抜ければ、分かれ道だ。一方は高校へ向かう道で、もう一方は大学へ向かうものだった。私の高校は柊の大学の付属高校だが、大学の敷地は敷地は広く、柊のいる学部までは高校から歩いて二十分近くかかる。いざとなれば、行けない距離でもないが、離れてしまうことに、不意に強い不安を感じた。


「花菜」


 柊は私の名を呼ぶと、二人の間の距離を詰め、そっと私の手を取った。柊の暗い目が揺らいでいた。焦りともとれる感情が、見え隠れしている。


「大丈夫だよ、柊」


 何が大丈夫なのか私にも分からないが、ただ柊を安心させてあげたかった。そうでも言わなければ、柊は私の手を離せないだろう。それほどに、今の柊は不安定で、弱っていた。


「……俺は、今日二時には終わるから。ここで、また待ち合わせよう」


「わかった。また、あとでね」


 柊は私を一瞥すると、繋いでいた手を放し、背を向けて歩き出した。私は暫くその後ろ姿を見送っていたが、やがて通学路を歩き出す。手には、柊の手の感触がほのかに残っているような気がした。

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