第5話 想望の終わり
現場付近にはいまだに赤色灯が点滅していた。黒いテレビカメラを構えた報道陣たちの姿も見える。早速、夜十時ごろのワイドショーか何かに放映されるのだろうか。仕事が早い。
柊は横顔に赤い光を受けながら、そんな人込みを見据えていた。とても冷めた目だった。普段は何とも思わない沈黙が、今日に限ってはやけに重い。
次第に私たちの家が近づいてくる。私の家には相変わらず電気が点いていなかったが、柊の家は玄関のドアからも光があふれ、その前で右往左往する人影が見えた。あの細身のシルエットは、柊のお母さんだろうか。私の事件のことを耳にして、柊のことを案じていたに違いない。
「犯人の顔は?」
「え?」
「わかることがあるなら、早めに伝えておかないと」
柊の言っていることはもっともだったが、私は何も答えられそうになかった。犯人の顔どころか、どのように殺されたのかもよく分からないのだ。
「わからない。何も、覚えてない。どうやって殺されたのかも、痛かったのかも、よくわからない」
「……あの傷が、痛くないわけない。見てないのか?」
「ぐちゃぐちゃで、よくわからなかった」
夕暮れのあの光景を思い出したのか、柊は黙り込む。その沈黙を誤魔化すように、無理やり作った笑みを顔に貼り付けた。
「いいよ、無理に笑わなくても」
お互いに、これ以上表情を作るのは苦し過ぎたようだ。重い沈黙を携え、並んで歩き続ける。
「……柊!」
柊の家の前の人影が、こちらに気づいたようで駆け出してきた。あのエプロン姿は間違いなく、柊のお母さんだ。今日も晩御飯を作って、柊を待っていたのだろう。
「柊、私、とりあえず家に戻ってみるね。柊もゆっくり休まないといけないだろうし」
「……そうか。まあ、そうだよな」
「今日は、いろいろごめんね。それじゃあ」
私は柊に軽く手を振って、自分の家の方へ歩き出した。私とすれ違うようにして、柊のお母さんが彼の傍へと駆け寄る。親子の会話を盗み聞くのも忍びないので、私は足早に自分の家を目指した。帰っても誰もいないことは分かりきっているが、私も少し落ち着きたかったのだ。
案の定、私の家はいつも通りひっそりと静まりかえっていた。幽霊の私は電気をつけることもできないので、月明かりを頼りにリビングを揺蕩う。備え付けの電話には、着信や留守番電話メッセージがあることを示すランプが点灯していたが、当然聞くことも叶わない。帰ってきたところで、今の私には何もできないことに気づかされる。
この家には、思い出も、思い起こすほどに楽しかった記憶も、何もない。そういう大切なものをくれたのは、全部、この庭の向こうのあの家だった。
暗いリビングのソファーに小さくうずくまる。こんな惨めな気持ちになるのなら、シーカに傍にいてもらえばよかった。話でもしている方がずっと気が紛れる。こんな暗闇の中では、悪いことばかり考えてしまってよくない。消えたくなりそうだ。
同じ暗いことならば、せめて実のあることを考えよう。そう思い立って、私は自分が殺された理由について考えてみることにした。何か思い当たる節があれば、捜査の進展に貢献できるかもしれない。
そうはいっても、一女子高生である私に、惨殺されるほど深い殺意に心当たりはなかった。すると、通り魔のような類の無差別殺人だろうか。
自分で考えておきながら、後者の仮説に微妙な違和感を覚える。とても曖昧な記憶だったが、あの小道で誰かに呼び止められて相手に気を許した気がするのだ。その記憶が正しいのならば、私の知り合いの犯行とみるべきなのだろうが、やはり心当たりはない。私が気づいていないだけで、誰かから深く憎まれていた可能性もあるのだろうか。
ふと、玄関の方で鍵が開けられる音がした。あの人が帰ってきたのだ。彼女は今、一体どんな表情をしているのだろうと思うと、訳もなく緊張した。そもそも対面すること自体が半年ぶりなのだ。普通に会ったとしても、多少の気まずさは感じるだろう。
靴を脱ぎながら、携帯で誰かと電話をしているようだった。話し振りからして、仕事の関係のようにも思えるが、奈菜の話題も頻繁に上がった。声を聞く限り、多少の疲労の色は窺えたが、悲しみや動揺などの感情は感じられない。つまり、あの人はいつも通りだったのだ。当然、私の事件のことは知っているはずだった。
廊下に電気が点き、スリッパをはいた足音が近づいてくる。私はたまらず、ベランダのガラス窓へと走り出した。体はガラスを突き抜けて、芝生だけが敷き詰められた殺風景な庭へと飛び出す。青白い月が庭をよく照らしていた。
気が付くと涙が頬を伝っていた。私は、一体何を期待していたのだろう。自分の愚かさに、思わず声をあげて笑った。
もしかするとあの人が悲しんでくれるかもしれないなんて、何て馬鹿な考えなのだろう。身に染みて分かっていたはずじゃないか。あの人にとって大切なのは奈菜だけで、私はむしろ目障りな存在なのだ。私がいるから奈菜の病気がひどくなるのだと、そう言って奈菜の手を引いてこの家を出て行った張本人は、あの人じゃないか。
そうか、これでよかったのだ。明日の朝からは、きっとあの人も姉も、今までよりずっと幸せに生きていける。本当によかった。もっと迷惑をかける前に、絶命できてよかった。
可笑しくて、声をあげて泣きながら私は庭に崩れ落ちた。馬鹿らしくて、本当に可笑しくてたまらないのに、なぜか心が酷く痛む。どう頑張っても、涙が止まらなかった。私は、一体何だったのだろう。十七年間、のうのうと生き続けたことが大きな罪のように感じた。こんな私は殺されて当然なのだ。もっとバラバラにして、原形をとどめないくらいに壊してくれなければ、償いきれない。せめて顔にもう少し、ナイフを入れるべきだったのだ。奈菜を惑わせた、奈菜と同じこの顔が、一番許されてはいけない部位なのだから。
「……何を騒いでるんだ?」
小さな塀の向こう側から、身を乗り出すようにして、柊は私に声をかけた。彼がいつからそこにいたのか分からないほど、私は夢中で泣いていたようだ。
「何か思い出したのか?」
私はただただ首を横に振り続けた。疲れている柊に心配をかけてしまったことで、余計に消えてしまいたくなる。
ふと、彼の視線が私の背後に向けられる。庭に漏れる明かりから察するに、あの人は今リビングにいるのだろう。きっと仕事の電話でもしながら、警察へ訪問する準備をしているに違いない。
「……あの人か?」
柊は、多少の嫌悪感を込めて問いただす。柊はいつもそうだ。彼は私の母に対して、あまり良い印象を持っていないようだった。
私は、一度だけ頷いて、何とか涙を止めようと心がける。だが、まだ呼吸が落ち着かず、しゃくりあげるような形になった。
「……死んでまで、あの人に泣かされるとは、花菜も散々だな」
「柊! ちゃんと説明して! ……花菜ちゃんは? 花菜ちゃんはどうなったの?」
彼の言葉を遮るように、ベランダから柊のお母さんが靴も履かずに飛び出してくる。その奥には、柊のお父さんの影も見える。二人ともひどく、柊のことを案じているように見えた。
だが柊は二人のほうには振り向かずに、小さく溜息をつくと、低い声音で言い放った。
「放っておいてくれよ。今はもう、何も言いたくない」
「柊……」
「今日は夕食いらないから」
不愛想にそう言うと、柊は小さく私に目配せをした。どういう意味か測りかねていると、歩き出した柊がこちらを振り返り、小さく手招きした。どうやらついてこいという合図らしい。何も言わずに黙々と歩き続ける柊に続いて、私も家の中へと上がる。柔らかい照明に照らされた食卓には、湯気の立つ料理が用意されていて、絵にかいたようなその温かさが羨ましくてならなかった。
「柊、ご飯は食べたほうが……」
後ろ姿に声をかけると、無言のまま不意に手を引かれた。柊の指先は少し震えていた。長いこと夜風にあてられていたせいか、心因的なものかは分からない。いずれにせよ、彼には一刻も早い休息が必要だ。
柊はいつもより少しだけ荒々しく自分の部屋のドアを開け、私を中へ招いた。柊の部屋には何度も遊びに来たことがあるので、馴染みがあり過ごしやすいが、こんな状態の柊を目の前にすると、少しハラハラしてしまう。
彼は私から手を放すと、閉じたドアに背を預け、そのままずるずると力なく床に座り込んだ。もうとっくに、精神も体力も限界を超えているのだろう。ますます申し訳なさが募り、私は必死に次の言葉を探した。
「あの、柊……。ごめんね。また、迷惑かけちゃったね」
「……いいや、俺も配慮が足りなかったよ。あの人が帰ってくることくらい、予想できたはずなのに」
「大丈夫、少し、混乱してただけだから。もうつらくないよ」
柊はドアに背中を預けたまま俯いていた。その姿勢のまま、彼はくすりと笑う。
「あんな泣き方しておいて、少し混乱しただけ、か。笑わせるね」
わずかに責めるような物言いに、たじろいでしまった。柊にしては珍しい言い方なだけに、反応に困る。
「あの人、仕事の電話でもしてた?」
「……うん。それと多分、奈菜のことを」
「俺、あの人のそういうところ嫌いだよ」
きっぱりと、何の躊躇いもなしに柊は言う。その声音には、明らかな嫌悪感が滲み出ていた。やはり柊は相当、私の母のことが嫌いらしい。普段の彼ならば、ここまではっきりとは言わないが、今はコントロールができないのだろう。それほどに彼は疲弊しているということだ。
柊は床から立ち上がり、適当にソファーの上のクッションを正すと、私に座るよう促した。ついでに目の前のテレビもつけてくれる。時刻はちょうど午後九時を回ったところで、画面上には話題の俳優が出演している連続ドラマが映し出されていた。気を紛らわせるにはちょうど良いのかもしれない。
背後では、柊がベッドメイクをしているようだった。早々に眠るつもりなのだろう。今の柊には、きっとそれが一番いい。
ドラマはもう後半に入っているようで、内容はほとんど分からなかった。ただ、こうしていると、先週あの家でぼんやりと画面を眺めていたときと何も変わらないように思えて、ほんの少しだけ安心する。
ベッドメイクを終えたのか、柊はこちらへ歩み寄ると、わずかな間を開けて私の隣に座った。
こうして並んでテレビを見ていると、本当に何もなかったような気がしてしまう。実際、今の状態では、柊は私のことを認識できるわけで、触れられるし言葉を交わせるのだから、今朝までと大した差はないのだろう。ただ私が、生きているか死んでいるかの違いだ。それだけなのだ。実感がわかないのも無理はない。
やがて、ドラマの本編が終わり、クロージングの音楽に合わせて、次回予告が流れる。
来週の今頃には、事態はどのくらい動いているだろう。私の遺体の調査がすんだら、お通夜やら、お葬式やらが催されるはずだ。自分の葬式に参列する気分は、どんなものだろうか。
ドラマに続いて、報道番組が始まった。聞き慣れた、短めのオープニングの曲が流れる。お決まりの挨拶が終わるなりすぐに、画面が切り替わった。
「速報です」
画面には、見慣れた通学路の風景が映し出されていた。速報という文字とともに画面の右上に表示されたテロップには、「十七歳女子高生惨殺」と書かれている。赤色灯が揺らめく中で、警察車両や他の報道陣の姿を背景に、記者の姿が映し出される。現場は今も、騒然としているようだった。
唐突に、画面が消える。黒い液晶画面に、私と柊の姿が映りこんだ。先ほどまで虚ろながらも穏やかだった柊の目には、鋭さが増していた。
「花菜、もう休んだほうがいいだろう。一応整えておいたから、ベッドで横になるといい。俺は、ソファーで寝る」
問いただしたい箇所がいくつもあるが、とりあえず一番の問題点を指摘しなければならない。
「柊は疲れてるんだから、ソファーでなんか寝ちゃだめだよ」
「いいから休め。明日は、シーカにも会うんだろう。ここは素直に善意を受け取れ」
柊は私に、事件に関するニュースを見せたくないのだろうか。彼のことだから、見たいといえば見せてくれるのだろうが、これも彼なりの優しさだと受け取って、私はおとなしく、ベッドのほうへ向かった。小奇麗なシーツの上に横になる。私は幽霊だというのに、横になると疲れがどっと押し寄せてきて、目を閉じればすぐに眠れそうだ。精神を休ませるという意味でも、睡眠は必要なのかもしれない。
柊は、机の上のスタンドの電気をつけると、代わりに部屋の電気を消した。部屋の中は薄暗く照らされている。
「柊はまだ眠らないの?」
「少し、本でも読んでから眠るよ」
本棚から分厚い本を取り出す柊の後ろ姿を眺めているうちに、微睡んできた。柊は読書が好きで、会うたびにいつも違う本を手にしている。
幼いころは、柊がよく私に絵本を読み聞かせてくれたものだ。懐かしい日々を思い起こす。家では一人ぼっちでも、日が暮れるまで柊が一緒に遊んでくれていたから寂しくはなかった。
自分が死んだ日だというのに、柊や柊のご両親と過ごした日々を思うと不思議と幸せな気持ちになる。羊を数えるように、楽しかった思い出を巡れば、すぐに意識は夢へと溶け込んでいった。
できることなら、柊と二人、叶いそうにもない夢や空想を語り合う日々がいつまでも続けばよかったのに。
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