第4話 非現実の始まり

 少女は整った顔に、晴れやかな笑みを浮かべる。黒髪に黒い瞳で、どことなく懐かしさを感じる顔立ちだった。


 私は数秒間、唖然としてその少女を見つめた。非常階段から誰かが昇ってくる足音も、非常口のドアの開閉音も聞いていない。彼女も、私と同じような幽霊とかそういった類のものなのだろうか。何より、親しげに名前を呼ばれたものの、私はこの少女に心当たりがない。


「名前を呼ばれたところで、覚えがないな」


 この異常事態の中、柊は冷静に受け答えていた。少しずつ普段通りの彼を取り戻しているようで安心する。


「まあ、十年も昔のことだものね。でもきっと、言ったら思い出すと思うの」


 少女は一歩、私たちと距離を詰めた。


「私はね、十年前にあなたたちに救ってもらった黒猫よ」


 平然と、あまりにも非現実的な話を彼女は切り出した。


「覚えていないかな? 車に轢かれた私を、花菜ちゃんが見つけて、柊くんのお家でしばらくお世話になっていたんだけど」


 そこまで言われてピンと来た。確かにまだ幼いころ、道路の片隅でうずくまる黒猫を見つけたことがあった。とても弱っていて、私は泣きじゃくりながら柊に助けを求めたものだ。すぐに柊は私と黒猫を、彼の家へ連れて行ってくれた。柊のお母さんが適切な対応を取ってくれたおかげで黒猫は一命をとりとめたのだ。その後、黒猫の里親が決まるまで、という条件で柊の家で預かってくれていたのだが、二週間ほどたったある日、何の前触れもなく黒猫はいなくなった。私と柊は街中を探して回ったが、遂に黒猫を見つけることは出来ず、野生に帰ったのだろう、と柊のお母さんが優しく言い聞かせてくれたのをよく覚えている。


「……シーカ? じゃあ、あなたは、シーカってこと?」


「思い出してくれたんだ! 嬉しい!」


 少女は一気に私との距離を詰め、私の手を取った。小さな白い手に両手をぎゅっと握られる。


詩歌しいか? いつの間に、名前なんて付けてたのか」


「私の名前は、シーカよ。シーカ」


 柊は半ば呆れたように溜息をついた。本来ならば、もっと動揺していてもよいはずなのだが、今はいたって冷静だ。確かに今日は、柊にはいろいろなことが起こり過ぎた。幼馴染の惨殺死体を目の前にし、その死んだはずの幼馴染が現れ、終いには昔助けた猫を名乗る少女が気軽に声をかけてきたのだから。もう、いちいち驚いたり疑ったりする気力が残っていないのかもしれない。


「花菜ちゃんが、つけてくれたんだよね。私、結構気に入ってるよ。この名前」


 シーカは白い歯を見せて快活に笑った。正体が猫だという割には、人懐っこい印象を与える人だ。


「それに、ほら、このリボンも。ずっと大切にしてきたの」


 そういって少女は首元のリボンをつまみ、端を裏返すと、そこには下手な刺繍で「シーカ」と縫ってあった。


「これ、もしかして私が……」


 曖昧ながら、幼いころ大人を真似して裁縫をした記憶がある。それがこの刺繍なのだろう。そんなものが、今も残っているなんて思わなかった。


「そうだよ。花菜ちゃんが作ってくれたの。私に名前なんてなかったから、嬉しかったんだよ」


「それで、家から失踪した黒猫とやらが、今更何の用だ?」


 疲れを滲ませた声で、柊はぶっきらぼうに言い放つ。精神的にも体力的にも限界を迎えている彼は、少し不機嫌だった。


「突然出て行ったのは、別れが惜しくなるからだよ。私にも、それなりにやることがあったから、いつまでも一緒にはいられなかったの」


 彼女の言い訳を、柊は冷たい視線であしらうだけだった。一層機嫌が悪くなった気がする。流石の彼女もそれを察したのか、私から手を離して事情を説明し始めた。


「私がここに現れたのは、二人に恩返しをするためなの。私はね、いわゆる化け猫の仲間で、ちょっとした超常現象くらいなら起こせるんだよ。だから何か、二人にしてあげられることはないかなって、機会を窺ってたの。そうしたら、今日、花菜ちゃんが……」


 シーカは言葉を濁し、視線を伏せた。


「……いくら私でもね、死んだ人を呼び戻すことはできない。だからひとまず花菜ちゃんを留めておいて、対処法を考えてたの。そうしたら、柊くんがあんまりにも悲しそうだったから、柊くんが花菜ちゃんの姿を見られるようにしたんだ。触れられて、前みたいにお喋りもできるようにね。あのままじゃ、柊くん壊れちゃいそうだったから」


 勝手ながらこれが私から柊君への恩返し、とシーカははにかんだ。柊は表情一つ変えずにその話を聞いていたが、やがてぽつりと言葉を紡ぐ。


「それはずいぶん割に合わない恩返しだな。俺はお前にそんな大層なことをしてやった覚えはないぞ」


「そんなことないよ。あのとき柊くんが匿ってくれなかったら、間違いなく私は死んでいたもの」


 真剣な眼差しを向ける少女に、柊は再び溜息をついた。そうして、そのまま私の姿を見据える。その眼は確かに、私を捉えており、その事実に私は救われていた。


「……礼をいうよ。ありがとう、シーカ」


 ぶっきらぼうな言い方だったが、彼なりに誠実に述べたのだろう。シーカもそれをわかっているようで、僅かに頬を赤く染め恥ずかしそうにしていた。本当に、猫にしては素直で可愛らしい子だ。


「どういたしまして、柊くん」


 シーカはやがて私に視線を移すと、どことなく貼り切ったような調子で告げる。


「それでね、花菜ちゃんには何してあげられるかなって考えてたんだけど……」


シーカは大きな黒い瞳を瞬かせて、自信たっぷりに言った。


「私、花菜ちゃんの依代になるよ」


「……依代?」


「そう、依代。もちろん、柊くんのケースみたいに霊としての花菜ちゃんを誰かに見せることは可能だけど、姿を見せたい相手なんて、あげていったらキリがないでしょう。私、そんなに力強くないからあんまり大勢には見せてあげられないの。だから、姿は変わってしまうけれど、私はみんなに見えるから、私に憑けば、みんなに干渉できるかなって」


 突拍子もない提案を理解するには数秒かかった。誰かに憑依するなんて、いよいよ幽霊らしくなってきたものだ。


 ふと、疑問に思う。シーカにそんな負担を強いてまで干渉したいと思う相手が、まだいるのだろうか。もちろん友人たちには会いたいが、シーカに憑いても、「花菜」としては会えないのだ。それではほとんど意味がない。


 ただひとつだけ、シーカに憑くメリットがあるとすれば。


 私は柊を見上げた。視線を感じたのか、柊も私を見下ろす。少し怪訝そうな表情で、彼は私を見ていた。


「ねえ、シーカ。今の状況では、私の姿は柊にしか見えないんだよね?」


「そうだよ。少なくとも、普通の人にはね」


「……それなら、私、シーカに憑くよ。そうすれば、人前でも、柊と話せるもんね」


 優しい柊のことだ。幽霊の私が傍にいれば、人目を憚らずに私を気にしてくれるのだろう。きっと、会話などもしてくれる。だがそれは傍から見れば、柊がおかしくなったようにしか見えないのではなかろうか。柊の家族や友人が、柊の心の状態を疑うのはまず間違いない。未来ある柊に、迷惑はかけたくなかった。


「……花菜、俺のことは別にいい」


「よくないよ。全然よくない。私のせいで、柊がおかしい人だと思われるのが嫌なの。私は、柊が築き上げてきたものを壊したくない」


 多少大げさかもしれないが、これが本音だ。柊の両親も友人も、とても良い人たちだから情緒不安定にみえる柊を見捨てたりすることは決してないだろう。でも周りの目は違う。きっと、何の容赦もなく柊の居場所を奪ってしまう。それだけは、どうしても嫌だった。


「私は、みんなが奈菜を見るような目で、柊が見られるのは耐えられない」


 珍しく私が奈菜のことを口にしたせいか、戸惑いに柊の瞳が揺らめいた。そのまま柊は黙り込んでしまう。


「それじゃあ、私が花菜ちゃんの依代になるってことでいいかな」


 訪れた沈黙を切り裂くように、明るい声でシーカは言った。私はしっかりと頷いて肯定の意を示す。


「よーし、私頑張るからね! 二人の役に立てるように」


 意気込むシーカをよそに、柊は再び暗い顔をしていた。もう、疲れ果ててしまったのだろう。柊は生きているのだから、もう休まなければ体を壊してしまう。


「ありがとう、シーカ。夜も遅いし、今日のところは、これで」


 その言葉にシーカは柊の状態を察したようで、気遣うように小さく笑った。


「そうだね。依代の件は、明日からということで」


 こんな会話の間にも、柊の瞳の影は増している気がした。もう、限界を超しているのかもしれない。倒れでもしないか心配だ。


「じゃあ、また明日」


 シーカは軽やかな身のこなしで、手すりの上に立ち上がった。そういうところだけは妙に猫らしい。


「うん。また明日ね」


 シーカは私たちに小さく手を振ると、階段を駆け下り、やがてその靴音は猫の小さな足音へと変わっていった。


「柊、私たちも帰ろう」


 なるべくいつもの調子を装って、柊に笑いかける。そんな私を見つめた柊の瞳が、一瞬酷く苦しそうだったことに気づいてしまった。彼は今、何を思っているのだろう。この瞳の影は、疲れていることだけが原因ではないのだろうか。


「……そうだな。帰ろう」


 夏の夜風を受けながら、ふらりと彼は歩き出した。私もすぐにその後を追う。静かな夜に、柊の足音だけがこだましていた。

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