第3話 不可視の終わり

 柊は人気のない廊下を突き進み、誰も出入りしないような寂れた非常階段のドアを開けた。初夏の夜風が吹き込んでくる。彼はそのまま踊場へと足を進め、金属製の手すりに寄りかかった。非常口のドアが、軋んだ音を立てながら風を受けて閉まっていく。


 日は、すっかり沈んでいた。遠くに煌びやかな夜景が見える。こんな夜でも、いつもの通りに街は動いているのだ。


 手すりに寄りかかった柊はどこか危うげで、その目には一層濃い影が差した。風が、血の付いた柊のシャツの裾を揺らす。事情を知らない人が見たら、柊は自殺志願者にでも見えるかもしれない。


 柊は軽く身を乗り出して、頭を抱えるように俯いた。その姿を、上ってきたばかりの青白い月が照らす。美しい三日月だった。星もちらほらと見えている。幼い頃は、死んだら星になるなんて話をすっかり信じ込んでいたものだ。今の私は、星どころか自分の行く末もわからないというのに。


 これから、どうすればよいのだろう。幽霊のようなこの体のこともよくわからないのに、この先の見通しなどつくはずもなかった。この姿さえ消えてしまったら、私に残るものは本当の無だ。もう、考えたり悲しんだりすることもできない。その現実を突きつけられて、今更ながら涙が込み上げてきた。


 怖い、消えてしまうのがこんなにも怖い。私の人生なんていつ終わっても構わないとは思っていたけれど、いざとなるとやり残したことの多さに愕然とする。私はもう、柊や友人たちに干渉することができない。彼らの記憶に、もう二度と私の姿が刻まれることはない。私は思い出になってしまった。記憶を辿ることでしか、会えない存在になってしまった。受け入れるにはあまりにも寂しく、悲しい現実だ。孤独には慣れていたつもりだったが、幽霊の寂しさは生きているうちに経験したそれの何十倍だった。


 不意に俯いた柊が嗚咽を漏らす。いつも余裕綽々で、私を小馬鹿にしてばかりいた柊が、肩を震わせて泣いていた。


「……柊っ」


 思わず、私は柊の背中に身を寄せる。触れている感覚もなく、すり抜けてしまう。こんなことになる前に、私は柊に言わなければならないことがあったはずだった。どうしようもなく悲しくなって、私も柊と一緒に泣いた。二人同時に泣いたことなんて、この十七年間で初めてのことだ。柊は私の前で涙を見せたことはなかったし、私が泣いているときはなんだかんだ言いながら、柊が慰めてくれたものだ。その優しさを思い出すと余計に泣けてくる。幽霊の涙は、当然のことながら、柊のシャツにもコンクリートの地面にも、一粒も後を残さなかった。ただただ、柊の涙だけが、夏風に浚われていく。


 どれくらいの間そうしていただろう。泣き疲れて過呼吸気味の柊は、胸を押さえて再び俯いてしまった。柊の息遣いは本当に苦しそうで、力になってあげられないどころか、その元凶となっている自分に嫌気が差す。


 そんな時、夏風と柊の息遣いの間に、小さく猫が鳴く声を聴いた。柊は全く気付いていないようだったが、私は辺りを見渡し鳴き声の主を探してみる。


 非常口の緑のランプに照らされたドアの下、その猫はいた。毛並みの良い黒猫で、首元のリボンには見覚えがある。私が殺された現場で見たあの猫だ。どこかに追い出されたはずなのに、なぜこんなところにいるのだろう。このフロアの正確な階数はわからないが、手すりから見下ろす限り、少なくとも五階以上であることはわかる。この高さまで、わざわざ上ってきたというのか。


 私がまじまじと見つめていると、黒猫は場にそぐわない可愛らしい声で、再びにゃあと鳴いてみせた。この猫、本当に私が見えているのではないか。つい、都合のいい期待を抱いてしまう。


 柊は、相変わらず猫に目もくれず、血に塗れた左手を見つめていた。もうすっかりこびり付いてしまっていて、よく洗わなければ取れないだろう。


「……殺さなきゃ」


 彼のその一声は、初夏の夜の澄んだ空気に、不気味なほどよく通った。幽霊でありながら、一瞬寒気を感じるほどに。それは今までに聞いたことのない柊の声だった。私の死体を見つけてからというもの、柊の精神はずっと不安定だ。下手すれば、心を壊してしまうのではないかと危惧するほどに、ずっと虚ろな目をしている。


「……柊?」


 私の死が、ここまで柊を動揺させるとは思ってもみなかった。とても不安だ。常に光の下で生きてきた彼に、そんな物騒なことは言ってほしくない。


「柊、お願い、落ち着いて。そんな怖いこと、言わないで」


 彼には届かない声で、必死に言い聞かせる。確かに私は誰かに殺されたのだろう。優しい彼が、その犯人を憎く思うのもわかる。だがそんな感情を引きずったまま、柊が衝動的に何か事を起こしたりするのは耐えられない。彼はいつだって冷静沈着で、十分によく考えた上で行動してきたのだ。頼むから復讐だとか、そんな恐ろしいことは考えるのもやめて欲しい。


「柊、私は大丈夫だから。もう、気にしないで」


 一瞬、彼の肩が震えた。私はそっと彼の背中に身を寄せる。


「柊……大丈夫、大丈夫だから」


 その瞬間、唐突に彼はこちらを振り返った。あまりにも突然なことだったので、僅かに身じろいでしまう。


「……柊?」


 柊の表情は、驚きに満ちていた。もしかすると、あの黒猫に気づいたのだろうか。確かに先ほどまで見かけなかったのに、急にドアの前に座っていたら多少動揺するだろう。私は非常口のほうへ視線を送る。


 だが、既に、緑色のランプの下には何もなかった。


「……え?」


 ほんの数十秒前まで、確かにそこにいたのに。移動する気配も感じなかった。度重なる黒猫の不可解な行動に、いよいよ超常現象を疑いたくなる。


 しかし、それ以上の衝撃が柊の口から告げられた。


「……花菜?」


 今までのような、虚ろな呟きではない。まるで呼びかけるかのようなその言い方に、私は耳を疑った。気のせいか、柊と目が合っているような気がする。


「……花菜、花菜なのか? 花菜!」


 刹那、柊に強く抱きしめられる。頭が真っ白になった。おかしい。先ほどまで私の手は、確かにすり抜けていたはずなのに。どうして柊は私を抱きしめられるのだろう。


「花菜……花菜っ」


 再び泣き出しそうな勢いで柊は私の名を呼んだ。その声に答えたいが、この状況についていけない。


「……なんで、泣いているんだ? どこか痛むのか?」


 痛み。そういえば、幽霊になってからというもの、物理的な痛みは全く感じなかった。心が痛むことは、何度もあったが。


「……痛くないよ。大丈夫、私は、大丈夫だよ」


柊の手が、私の頬に添えられる。柊の大きな手の感触が伝わった。状況は全く呑み込めないが、数時間ぶりに緊張が解けていく。


「……なら、いい。良かった」


 柊もどこか安心したように、息をついた。あまりにも突拍子のない出来事で、理解が追い付かないが、一つだけ確実にわかることは、私は死んでしまったということだ。柊に変に誤解されて、私が生きている、とでも思い込まれると厄介だ。慌てて私は口を開く。


「柊、あのね、私――」


そう言いかけたところで、再び抱きしめられてしまう。


「……少しだけ、このままで」


 それだけ言って柊は腕の力を強めた。抗いようがないのでじっとしているが、正直、かなり緊張してしまう。心臓があれば脈が速まっているところだ。柊に抱きしめられたことなんて、過去にほんの一、二回程度、しかもそれもアクシデントまがいのものばかりだった。今朝の私からは想像もできない展開だ。


「……脈、ないんだな」


「そう、みたいだね」


 少なくとも、心臓の拍動は感じない。呼吸も、しようと思えば空気を吸えるし吐けるようだが、生きていたころのように無意識にはできなかった。する必要もないので当然なのかもしれないが。


「……幽霊、みたいなものなのか?」


「多分ね。でも、どうしてこうなったのか、私にもよくわからなくて。……私、ずっと、柊と一緒にいたんだよ。柊が私を見つけたときから」


「……あの路地裏から?」


「気づかなかった?」


 やはり、柊は突然に私のことが認識できるようになったようだ。不可解なことばかりだ。


「……私がいても、気味悪くないの?」


「悪くないよ」


 柊は軽く息をついて、私から手を離す。彼の表情には、相変わらず疲労の色が浮かんでいたが、その眼には微かに光が戻っている。少しは、落ち着いた証拠なのかもしれない。


「私、これからどうすればいいんだろう」


 その質問に対して、柊は何も答えなかった。いくら優秀な彼でも、こんな非現実的なことは流石に扱いに困るのだろう。生きていても、死んでいても、私は彼を困らせてばかりだ。


「ここで私の登場ってわけだね?」


 聞きなれない、少女の声。どこか幼さの残る、独特なトーンの可愛らしい声だった。


 柊が私の背後を見て、眉をひそめている。私もその視線の先を辿るべく、軽く振り返った。


 そこには、黒服の見慣れない少女の姿があった。


 少女の首元には、黒いリボンが結ばれている。


「お久しぶり、だね。柊くん、花菜ちゃん」

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