第2話 平穏の終わり
私の日常は、極めて平凡なものだった。強いて言うならば、友人たちよりも少しばかり寂しい生活ではあったかもしれない。私は、両親や双子の姉と離れて一人で暮らしていたのだ。
物心がつく頃には、両親はすでに不仲であり、父は早々に仕事の都合で海を渡ってしまった。母も、父を追うことはしなかった。その後、二、三年は私と双子の姉の
もともと大学の研究室に勤めていた母は、その一件以来、仕事に没頭するようになり、今では大学の准教授にまで上り詰めた。その過程で私や姉と過ごす時間を殆ど失ったことは、嘆いても仕方ない。おかげで不自由なく暮らせているわけであるし、何も文句は言えなかった。
せめて私と奈菜が、仲の良い普通の姉妹であったのなら、私の寂しさも多少は軽減されていたのかもしれない。だが、奈菜は生まれつき情緒が不安定で、奈菜と同じ顔の私の存在を認めようとはしなかった。彼女曰く、私は彼女のドッペルゲンガーなのだそうだ。当然、そんな状態の姉を支えながらの家庭生活は円満であるはずがなかった。今思えば、奈菜の病気も、両親の不仲の一因なのかもしれない。
奈菜の精神は、七、八年前くらいから急激に不安定になり、今では母の勤める大学の附属病院に入院しているらしかった。
奈菜の病気のこともあって、母も今では大学内の社宅のような場所で寝泊まりしていた。一か月に一度くらいは、着替えなどを取りに家に帰ってくるようだが、私と鉢合わせたことは殆どない。大抵、母は平日の昼間にやってきて、申し訳程度の置手紙と向こう一か月分の生活費を置いて去っていく。最近では、ここ半年くらい顔を合わせていなかった。
そんなわけで、実質的に私は家に一人で住んでいたのだ。
無論、未成年の私がここまでやってこられたのも、お隣さんである柊のご両親の存在が大きい。柊とは生まれた時から一緒にいるといっても過言ではない程の、長い付き合いだ。その分、柊のご両親と接する機会も多かった。柊のご両親は私の家の家庭事情を理解してくれているようで、何かと理由をつけては私を家に招いてくれた。柊が大学生になった今でも、家に招かれることは珍しくなかった。一昨日だって、柊のお母さんが作ったアップルパイをご馳走になったのだ。
柊の家は、いつ行っても温かかった。家中が、陽だまりのような優しさで満ちている。柊に多少の反抗期はあったものの、彼と両親の関係は良好で、まさに私の家とは正反対なのだ。
そんな身の上の私だったが、学校に行けば友人もおり、放課後には茶道部の活動に勤しむなど、それなりに学校生活は謳歌していた。運動はまるで駄目だが、筆記試験では大体いつも平均点以上を確保している。このままいけば、エスカレーター式に柊と同じ大学へ進むことができるはずだったのだ。
でも、もうそれも叶わない。
目の前には、白いベッドの上で顔に布をかけられた私の姿がある。普通の病室よりも、広く思えるその部屋には、先ほどから白衣やら警察服の人たちが忙しなく行き来していた。
そのベッドの傍らで、柊は私を見つめていた。白かったシャツには、変色した大量の血痕が付着している。傍目に見れば、柊が怪我人なのではないかと思ってしまう程だ。
柊はこの部屋に来てからというもの、ずっと私の手を握っていた。そうして時折、消え入りそうな声で私の名を呼んでいる。彼がこんなにも不安定な一面を見せるとは思いもよらなかった。情緒不安定な姉を見ているときのような、いたたまれない感覚に陥る。
時刻はもう、午後七時半を過ぎていた。私が絶命してから約二時間経ったことになる。本来ならば、柊の家では晩御飯の時間だ。見ている限り柊が家に連絡を取っているような素振りはなかったので、ご両親は心配しているのではなかろうか。もちろん、あれだけの騒ぎならば、この件は柊のご両親の耳にも入っているだろうが、だからこそ余計に柊の帰りを待ちわびているはずだった。
「……柊、早く帰りなよ」
俯く彼の隣に立って、そっと声をかける。当然、聞こえるはずもないのに言わずにはいられない。
「……花菜」
ぽつり、彼は呟く。いつになく切なそうに私の名前を呼ぶその姿は、普段の柊からは想像もつかない。
「花菜……」
まるで壊れたように、柊は私の名前ばかりを繰り返す。柊の指が、血のこびりついた私の髪に触れた。すっかり緩んでしまった髪留めが、かろうじて髪に引っかかっている。いつか、柊にもらった大切な髪留めだった。
ふと、看護師らしき女性が柊に声をかけ、退室を促しているようだった。確かに、先程よりも人数が増えたような気がする。私のことを本格的に調べ始めるのだろう。
柊は渋っていたようだったが、名残惜しそうに私を一瞥して立ち上がった。そのまま看護師に導かれて病室を出ていく。慌てて、私も彼らの後を追った。
人気のない廊下に出た柊は、看護師らしき女性に付き添われながらも、警察に事情を聞かれていた。
「今日は、もう……何も、話したくありません」
疲れの滲んだ柊の声は、よく注意しなければ聞き取れないほどに小さかった。殆ど囁き声といってもよさそうだ。
看護師らしき女性も、柊の肩を持つ。警察は、柊に軽く会釈をすると病室へと戻っていった。それを見届けるなり、柊は心配そうな看護師の手助けを断り、暗い影のかかった目でふらりと歩き出した。
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