プロローグ 1

  窓から差し込む朝日に照らされ、部屋に舞う塵がキラキラと輝く。

  朝を告げる鳥の声で目覚めると、大きく溜息をつき、呟く。


「はぁ……またやっちゃったな……」


 昔、あの子によく言われたものだ。『集中するのはいい事だけど、力尽きてそのまま寝落ちするのやめて!風邪引いちゃうよ!』


 風に吹かれて揺れる、大空のように澄んだ蒼く長い髪を思い出す。


 ……あれ?あの子って……誰だ……?


 思い出そうとしても、何も思い出せない。


 濃い霧がかかっているかのように、何も見通せない。


 出口のない迷路に迷い込みそうになるが、頬を強く張ることで現実に引き戻す。


 絵には画家の心が如実にあらわれる。

 そんな苦しみや悲しみで、僕の描く絵を濁らせてしまう訳にはいかない。



 正面には描きかけの大きなキャンバス。 車椅子のロックを解除しキャンバスの前を離れ、朝日の差し込んだいつものアトリエから出る。

 センサーに手のひらを押し付け、電子ロックを解除すると自動で扉が開く。

 これは車椅子生活を送る上で不自由の無いようにというのもあるが、単純にアトリエに置かれた僕の絵や道具等を盗まれないように、というのが主な目的だ。


 恥ずかしながらこの僕、河野 碧こうのあおいは、科学が発展しデジタルが主流になったこの世界で、数少ないアナログの絵を描く画家だ。

 

 人類が新たな素粒子を発見したことで、急速に科学の発展が進み、自己増殖型ナノマシンが散布された今では、視界にAR表示を出すこと、月での基地建設や軌道エレベーターなど……数十年前まではSFの世界だったものが当たり前になっていた。

 しかし、その発展の裏でアナログの世界は衰退を続け、今では無くなってしまった文化や技術も沢山ある。人々はその急激な科学の発展、空想の世界が現実になっていくことに驚き、喜び、そして前時代に目を向けなくなった。

 

 急速な発展はいつしか緩やかになり、人々の盛り上がりも落ち着いた頃、人々はようやく気が付いた。発展の裏で多くの物を失っていた事に。

 そうしてアナログ絵などの辛うじて生き残った文化は積極的に守られるようになるのだが、まぁそれは別の話。


 ともかく、僕は画家だ。




  ……喉乾いたな……


 僕は車椅子の収納スペースからスケッチブックと鉛筆を取り出し、サラサラと絵を描く。簡単な絵。

 それが何かが分かればいい。

大事なのは僕自身が正確に対象をイメージすること。

そのものの質量、温度、質感。

これは普通に絵を描く時にも大事だが、今はさらに重要だ。命と言っても過言ではない。

 描き終わると鉛筆を戻し、空いた手をその絵に近づけていく。

 絵と手が触れ合ったその瞬間、ただの絵だったはずのそのコップはだんだんと実体化しはじめる。

 数秒たった時には、僕の手には水野は言ったコップが握られていた。

 ごくごくと水を飲み干し、空になったコップはとりあえず横の棚に置いておく。


冷蔵庫に行くことを面倒臭がってこの能力を使うと、コップが無駄に増えていくのが玉に瑕だなぁ……と思いつつ、アトリエの出口へと車椅子で移動する。


 僕は昔から、ハッキリとしたイメージを持って描いた物を絵から取り出すことができる。

要するに、「絵に描いた餅」から本物の餅を取り出すことができる能力。

 なぜ取り出すことが出来るのか、なんでそんな能力を手に入れたかは分からない。気が付いたら使えた、というか偶然出来てしまったのが最初だった気がする。


 もう、覚えていないけれど。


 この能力は、強力で強固なイメージが必要なので、コップに入った水なんかの簡単なものはサクッと出せるけれど、食事なんかはなかなか難しい。

必要な情報量が多く、ひとつでも欠けてしまうと味気ないものになってしまうからだ。なので、食事は普通にキッチンで作る。



 

 扉をくぐると、誰もいないリビング。中央に置かれたテーブルと3つのイス。少し埃を被ってしまっている。


 後で掃除しておこう。


 そのままリビングを通り過ぎ、キッチンへと入っていく。


 コントロールパネル。

 ナノマシンが集まってウィンドウを形作るイメージを作り、頭の中で指示を出す。

  すると、目の前に青く光る粒子が集まって1枚の板になった。この板が所謂ウィンドウ。

このウィンドウには電子機器のスイッチ等が表示されていて、遠隔操作する事ができる。

その中からエアコンと照明のスイッチをONにし、トースターで食パンを焼く。

その間に戸棚からコーヒー豆を取り出して、ミルで挽く。

マグカップに一式をセットし、完全保温が売りのちょっと高めのポットを使ってお湯を注ぎ、コーヒーを抽出する。

 丁度いっぱいになった所でトーストも出来上がり、コーヒーの苦味を楽しみながらトーストをかじり、ぼーっと窓の外を眺めるのが僕のいつもの朝食の時間。

 




 ここ数年、僕は一人で暮らしてきた。ずっと絵を描いてきた。何かに駆り立てられているかのように。

 僕が描くのはいつも決まって、妖精、精霊と呼ばれる類のもの。今描いているものもそう。森の中の小さな泉の畔で、青い妖精が飛んでいる絵。

 僕が衝動に任せて描いた絵をいつも買い取ってくれる美術商は、素晴らしい!なんて毎回言ってくれるけど、正直あの美術商は何を言っても嘘くさくて信用出来ないところがある。

けれど、わざわざ自分の名前でネット検索をする、所謂エゴサーチをする気にもなれない。


 うん。考えてもムダだ。やめよう。

 それに、1枚1枚で半年遊んで生活できるくらいの値段を付けてくれるので、文句も無いしね。


 そうこうするうちに朝食も食べ終わったので、使い終わった食器を食洗機に入れて、アトリエへ……いや、トイレに行っておこう。

 

 用を足し手を洗い、ふと鏡を見る。


 頬は若干こけていて、目の下に薄いけどクマが……いや、顔色が悪いだけか。いつもの事だ。

 前髪が長く伸びていて目にかかりそうだ。母親譲りのアッシュブラウンの髪色も、暗くくすんでいるような気がする。茶色の瞳も、濁ってしまっている。


「……ひどい顔だな……」


 何日かぶりに発した声はやや掠かすれていて、少しのどが変な感じ。後でのど飴でも舐めておこう。


「ステータス」


 今度はイメージではなく、コマンドを発声してナノマシンに伝える。

 ウィンドウが出現し、そこには心拍数や血圧、数値化した身体能力や簡易的な健康診断の結果が表示される。

 顔色が悪いので風邪でも引いているのかな、と思ったがそんなことは無く、健康診断の欄には『栄養不足』とだけ書かれていた。


 僕は苦笑いしてステータスを閉じる。


 これは、今度通販でサプリメントでも買うかな。例のニッコリした感じのダンボールがどんどんたまってしまうけれど、この身体では満足に外出もできやしないからね。


 

 トイレを出て今度こそアトリエに戻ろうとした時、玄関のインターホンが鳴った。


 あの胡散臭い美術商か?でも彼は僕が絵の完成を連絡しないと来ないはず。


 ならば宅配便?

 

 いや、今は何も頼んでいない。


 とりあえずコントロールパネルを呼び出し、インターホンのカメラを確認する。

 

 そこに映っていたのは、黒いトレンチコートを着た、白髪の目つきの少しきつい初老の男。帽子を取り、顔がきちんと見えるようにしている。


 ……なんで……この人が……


 映っていたのは、もう会うことはないと思っていた人で。


 僕はスピーカーを付けて、その男に問いかける。


「……なんの御用でしょうか。《神聖省》のギルさん」


 少し前まで広がっていた青空に、暗い雲が流れ始めた。

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