第9話 教育実習生 三笠京香
その人はごくごく自然にそこに立っていた。
放課後。いつもの部室。何も変わらない風景の中に溶け込むようにたっていた。
普段なら、そんなことがあると僕はドキッとしてしまう。事実、はな先輩やゆきさんが勝手に部室に入って来ていたら、ドアを開けた瞬間に僕の心臓が飛び上がる。
しかし、今回はそうはならなかった。それほど自然に風景になじんでいたのだ。
「やぁ、ごめんごめん。驚かせてしまったかな?」
そう言うと、手にしていたアルバムを棚に戻して、こちらに向き直った。
窓から差し込む秋の日差しで逆光になっていたが、少し歩み寄ってくれたおかげで顔が見えるようになった。でも、その顔に見覚えはない。
スラリと背が伸びた大人の女性。それが僕の第一印象。醸し出すオーラや雰囲気が高校生ではないと告げている。
背中まで伸びた黒髪をバレッタで留めている。服装はスーツではないものの、カジュアルでもない。都内のIT系企業で働いている人が好みそうなオフィスカジュアル的な服装をしている。
僕が観察している間に、その人は僕の目の前までやってきた。
「はじめまして。私は三笠京香。この学校の卒業生よ」
「あ、エッ、はい。ぼ、僕は柾木純也と言います。しゃ、写真部の1年生です」
「1年生か。道理で可愛らしい感じだと思ったわ」
三笠さんはそう言って、僕の鼻先を指で軽く突いた。突然のスキンシップに、瞬間湯沸かし器のように全身の血液が沸騰する。自分で顔が火照っているのがわかるほどだ。
「他の部員は? 遅いわね」
「あ、ぶ、部員は僕だけです」
「エェッ?! あなただけなの?」
「は、はい……」
「な、何てことなの」
三笠さんはかなりショックだったようで、よろよろと椅子に腰を落とした。
「私の時は部員は10人以上いたのよ」
「エッ?」
「私はここの卒業生で、写真部の元部長なのよ」
「エェッ?!」
今度は僕が驚く番だった。写真部の元部長。しかも、部員が10人以上いた頃の部員だとするなら、写真部がコンテストで入賞とかしていた頃の人に違いない。
だから、この部室の雰囲気に馴染んでいたのだ。青春真っ只中の3年間をここで過ごしたのだから、当然のことだと言える。
「代々、受け継いできた名門写真部が、まさかこんなに衰退してるなんて思わなかったわよ」
「あ、す、すみません……」
「別にあなたのせいじゃないわよ。むしろ、よく入部してくれたわ。ありがとう」
そう言うと僕の両手を力強く握りしめた。
「あ、あの三笠さんは、何でここにいらっしゃるんですか?」
「あぁ、私? まだ内緒よ」
いたずらっぽく笑って、人差し指を立てて唇に当てる。とても表情が豊かな人だ。
「じゃあ、私、そろそろ行くわね。また会いましょう」
「あ、はい、あの、お疲れ様でした」
結局、この日は三笠さんが何をしに来たのかわからないままだった。
翌日、全校朝礼の時、校長先生の紹介で壇上に登った教育実習生の中に三笠さんの姿があった。
「国語科の教育実習生として母校に帰ってまいりました。三笠京香です。1年生を担当します。よろしくお願いします」
凛と響く力づい声が体育館に響く。美人で大人の教育実習生の登場に男子生徒は沸き立ち、女子生徒たちは羨望のまなざしを向けた。
教育実習生は、他にも男性が2人いた。それぞれ2年生と3年生の担当だが、パッとしない風貌のせいもあって生徒の関心は薄い。自己紹介の段階では三笠さんの一人勝ちと言って良かった。
全校朝礼が終わって教室に戻ってからも、クラスの話題は三笠さんの話でもちきりだった。彼氏は居るのか?大学生活はどうなのか?そんな答えの出ない話題が延々と続いている。コミュ障の自分に決定的に欠けている部分なので羨ましくなる。
僕はいつものように空気になりながら、そんなクラスメイトの姿を見つめていた。
「柾木くん、柾木くんてば」
クラスメイト達の様子に集中していたせいもあって、はじめは自分が呼ばれていることに気がつかなかった。見ると机の向こうにクラス委員長の丸中さんが立っていた。
「柾木くん、どうしたの?珍しくボーッとしちゃって」
「あ、いや、ちょ、ちょっと考え事をしていて……」
「そう、それならいいんだけど。具合が悪いとかなら遠慮なく言ってね」
「あ、ありがとう。そ、それで、ま、丸中さん、ぼ、僕に何か用?」
「あぁ、また丸中さんて呼ぶ。委員長でいいって言ったでしょ」
丸中さんはそう言うと頬を膨らませて抗議してきた。
「あ、そっか、ご、ごめんなさい」
「あはは。別に謝らなくてもいいけどね」
今度は少し意地悪そうに笑う。どうやら僕は委員長に翻弄されているようだ。この手のいじり方には、どう反応していいのかよくわからない。気の利いた返しができるなら、きっと話も弾むのだろう。
リアクションに困った僕を見かねたのか、委員長は話題を本題に切り替えてくれた。
「そうそう、ブチちゃんがね、ついに貰い手が決まったんだよ」
丸中さんはそう言うと、一枚の紙を取り出して僕に見せてくれた。そこには、満面の笑みで2匹の子猫に頬ずりしている丸中さんの姿が印刷されていた。この前、丸中さんにプレゼントしたお気に入りの1枚だ。それを彼女がチラシにして配布したのだ。
鼻の頭に大きな斑点があるブチの子猫。お世辞にも可愛いとは言えないのだが、このチラシを見ていると愛嬌があるように見えてくる。委員長の笑顔の効果が大きいのかもしれない。
「これでやっと2匹とも幸せになれるよ、良かったねぇ」
「そ、そうだね。い、委員長のチラシのおかげだね」
「柾木くんの写真のおかげだよ。2匹ともちゃんと良い所を引き出せてるもんね。写真素人の私でもわかるんだから、柾木くんはすごいんだよ。自信を持ってもいいと思うよ」
「あ、いや、そんな……」
委員長のド直球の褒め言葉に僕はどうしていいかわからず、ただ顔を赤らめてうつむくしかできなかった。
「2人で何、話してんの?」
僕たちの様子を見ていたのだろうか。クラスメイトの加山君が話に入ってきた。
「なかなか珍しいツーショットだと思ってさ。その紙、何?」
「あぁ、これ? 柾木くんが取ってくれた写真をチラシにしたんだよ。子猫の引き取り手を探していたんだよね」
「へぇ、柾木って写真なんか撮ってるんだ」
「何言ってんの、加山君。柾木くんは写真部なんだよ」
「エエッ、そうなの? 全然、知らんかった」
「もっとクラスメイトに興味を持ちなよ」
「ごめん、でも、柾木ってあまり人と話さないじゃん。俺だけのせいじゃないって」
「柾木くんも、もっとクラスメイトと話さないとダメだよ」
「え、あ、うん。ごめんなさい」
「ちょっと、そのチラシ借りてもいいか?」
そう言うと加山君は委員長の手からチラシをひったくって行った。そして教壇に上ると大きな声で叫んだ。
「おーい、見てくれよ。このチラシの写真、柾木が撮ったんだって。すごくない?」
クラスの注目が僕の写真に集まる。何とも言えない気恥ずかしさに包まれ、僕は加山君を直視することができなかった。
「すごいじゃん」
「委員長、超かわいくね」
そんな声がクラス中で上がった。みんなが僕の写真を好意的に受け取ってくれているのがわかる。
「柾木は写真部なんだって。だから、こんなにイイ写真が撮れるんだよ。普段、無口だけどさ」
加山君はまるで僕の代わりに自己紹介をしてくれているようだった。
「うん、悪くない写真だね」
加山君の手からチラシを取り上げたのは三笠さんだった。
「私も元写真部の部長として色々と言いたいことはあるけど、もう授業の時間だから席に戻ってもらえるかな」
三笠さんの後ろには年配の国語科教師が立っている。三笠さんの一挙手一投足を採点するつもりなのだろう。何かメモをしながら立っていた。
「改めて自己紹介します。三笠京香です。京香先生と読んでください。自分の名前が京香なので、大学では泉鏡花について研究しています。よろしくお願いします」
教壇に立つ姿も絵になる。教育実習生と言わなければ、きっと経験豊富な先生だと思うだろう。
「京香先生は彼氏は居ますか?」
「大学はどこの学校ですか?」
生徒たちから質問の声が上がる。授業でこんなに活発に質問の声が上がることはない。
「質問に答えてあげたいけど、その時間はまた別の機会に。さぁ、授業をはじめます」
京香先生は質問のあしらい方も落ち着いていてベテラン教師の余裕を感じさせていた。
「前回までは『徒然草』をやっていたと聞いています。では、教科書を開いてください」
こうして京香先生の人生ではじめての授業がはじまった。
京香先生の授業は教育実習生の授業としては及第点と言えた。落ち着いた声のトーン。適切な速さで話す口調。わかりやすい説明。特に大きなミスはなく授業が進んで行った。
しかし、僕たちの方が京香先生に求めるハードルを上げ過ぎていた。退屈な学校生活に舞い降りた完璧な大人の女性。そんな彼女に求めていたのは普通の授業などではなかった。苦手な国語を克服してくれるような、成績が急激に上昇するような、そんな魔法の授業を期待していたのだ。
だから授業が進むにつれ、何かが違うといった違和感のようなものがさざ波のようにクラスに広がっていった。やがてそれは京香先生にも伝わるまでになり、彼女から自信が消えた。つまらないところでつかえ、間違いを生徒に指摘される。授業の後半は無残なまでにボロボロだった。
大学でほんの数年、教職者をしてのイロハを学んだだけの彼女に魔法のような授業などできるはずはない。期待がしぼんだクラスを再びやる気にさせる術さえ持ち合わせていなかった。
チャイムに救われるように「今日はここまでにします」と言った彼女の声は、授業の開始の言葉とは打って変わって消え入りそうなほどに小さかった。
放課後。僕はカメラをもって屋上に向かっていた。うちの学校では終日、屋上は開放されている。グラウンドが十分に広くないためらしい。その分、安全面には配慮されていて、高いフェンスに囲まれている。生徒の中には『鳥かご』と揶揄する者さえいるほどだ。
僕は時々、屋上から撮影をする。風景を取ろうとするとフェンスが写り込むので向いていない。でも、雲や空を撮る時には電線が写り込まないので最適なのだ。いつもなら放課後の屋上は貸し切りになる。たまに音出しの場所を求める吹奏楽部員の姿があるだけだ。
しかし、この日は先客がいた。京香先生だ。フェンスにもたれかかるようにして立つ姿は、自信にあふれていた全校朝礼の時とは別人のように見える。気のせいか体型も一回り小さく感じる。
今は一人にさせておいた方がいい。コミュ障の僕でさえわかる簡単な判断だ。僕は京香先生に気づかれないようにUターンして階段を降りていった。
翌日からも、京香先生の授業は精彩を欠いていた。指導担当の先生からも厳しく言われているのだろう。その表情は暗く陰り、かつて見せていた輝きはどこからも感じられなかった。
皮肉なことに、最初に評価が低かった他の教育実習の先生は着実に生徒との距離を縮め、昼休みにはグラウンドで生徒と一緒にサッカーやバレーボールに興じる姿を見かける。今や、その立場は完全に逆転していた。
教育実習最終日。この日も京香先生は輝きを放つことなく授業を終えた。今では堂々と居眠りする者さえ現れるほどに、京香先生の授業は退屈で冗長な物になっていた。いつもなら実習の最終日には寄せ書きなどを贈るんだけど、誰もそんなことを言いだすことはなかった。
僕は何とかしたいと思っていた。京香先生が写真部の先輩だからではない。一人で屋上にたたずむ姿が自分に被って見えたのだ。だからと言って、何をどうしたらいいのかわからない。
僕は意を決して、委員長に相談することにした。
「あ、あの、い、委員長。ちょ、ちょっといいかな」
「わ、びっくりした。柾木くん、どうしたの? 珍しいね」
背後からいきなり声をかけたので、委員長を驚かせてしまった。そして委員長の声が予想外に大きくなったので、注目を集めてしまった。
「あ、あの京香先生のことなんだけど……」
「うん。どうしたの?」
「な、何か、お、贈り物とかしないのかなって……」
「あぁ、それね。クラスの女子の何人かとも話したんだけどね。先生もツライ思い出だから寄せ書きとか欲しくないんじゃないかってさ」
「そ、そんなことないよ」
「柾木くんがそんなことを言いだすなんて珍しいね」
「あ、いや、別に……」
「いいよ。柾木くんに協力するよ。何かアイデアがあるんでしょう」
僕は自分のアイデアを委員長に告げた。
放課後。誰もいない屋上に京香先生の姿はあった。今日もフェンスからグラウンドを見下ろしては、元気なく立っている。
「あ、あの、きょ、京香先生」
僕の声に驚いた表情で振り返る京香先生。はじめて部室であった時とは別人のようにおどおどしている。
「何だ、君か。どうしたの?」
「あ、エッと、あの、教育実習、お疲れ様でした」
「フフッ、何それ、嫌み?」
「い、いや、そんなことないです」
「私は先生なんて向いてないのかな……」
弱々しい声が響く。
「そ、そんなことないです」
「でも、授業だって散々だったでしょう?」
「そ、それはそうですけど……」
「フッ、そこは正直に言うのね」
「す、すみません」
「指導担当の先生にも言われたわ。向いてないのかもしれないってね」
「そ、そうなんですか?」
「生徒の気持ちを掴めないまま、2週間が終わっちゃったしね」
多分、僕が何を言っても効果はない。どれだけ気の利いたセリフを言っても、今の彼女には響かない。そんな気がした。
だから、おもむろに包みを取り出して京香先生に差しだした。
「何これ?」
不審そうに包みを受け取った京香先生は、恐るおそる包みを開けた。中身はポケットアルバムだった。
「君、これって?」
「ク、クラスの全員のスナップです。う、裏には、み、みんなからのメッセージが書いてあります」
「エッ?」
「ク、クラスの、み、みんなの本心です。よ、読んでください」
ゆっくりポケットアルバムをめくる京香先生。はじめは驚きの表情で、次第にやわらかな笑みを浮かべた表情になった。
クラスのみんなのメッセージは、温かい励ましだけでなく、厳しいコメントもあった。でも、それらは全部、京香先生のためを思った優しさに包まれたものばかりだ。
「あ、ありがとう。本当にありがとう。これがあれば、きっといい先生になれるわね」
そう言って頭を下げた京香先生。その顔は涙で濡れていた。
それを合図に、大声をあげて加山君たちが屋上になだれ込んできた。
「よっしゃぁ、よくやったぜ。柾木」
そう言って、僕に三脚付きのカメラを手渡してくれた。
「京香先生、表紙に飾る集合写真をみんなで撮るぜ。クラス全員、集まってるからよ」
委員長がテキパキと指示をしてクラス全員を整列させている。加山君は京香先生の手を引いて真ん中へと誘導する。
僕は急いでカメラをセッティングして、タイマーをセットした。
「じゃ、じゃあ、撮りますよ」
「柾木、聞こえねえよ。大きな声で」
「は、はい。と、撮りますよ。10秒前」
僕は急いで列の方に向かった。加山君が僕を手招きし、京香先生の隣に入れてくれた。
「京香先生、お疲れ様でした」
クラス全員の声を合図にしたかのようにシャッターが切られた。僕はこの日はじめて、写真で真ん中に写ることができたのだった。
シャッターが切れた瞬間、京香先生が僕の肩に手を回して、力強く握ってくれた。「いい先生になるからね」そんな決意表明にも感じられる。僕はその手の感触を一生忘れないだろう。そしていつの日か、先生になった京香先生と再会したい。そう思ったのだった。
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