第6話 おじいちゃんのカメラ

 僕のコミュ障は、かなりの筋金入りで幼稚園の頃にはもう、その傾向が出はじめていたらしい。

 みんなでお遊戯をするより1人で人形遊びをしていた。みんなで歌をうたうより1人で絵を描く方が好きだった。


「純くん、こっちでみんなとお遊戯しましょう」

「やだ」


「純くん、みんなで歌をうたいますよ」

「歌いたくない」


 きっとそんなやり取りが卒園まで繰り返されたことだろう。

 その頃の僕は絵を描くことが大好きだったらしい。母親は今でもその当時の僕の作品を大切に保管している。


 小学校入学すると僕のコミュ障はますますひどくなった。とにかく人に興味がない。だから話題を振ることもなければ、人の輪に加わることもない。

 ただ空気になるスキルを身につけていなかったのでイジメの対象になった。


「また絵を描いてるのかよ!」

「いつ見ても下手くそな絵だなぁ」


 いじめっ子たちは僕が1人で絵を描くことさえ許してくれなかった。誰にも迷惑をかけてないのに理不尽に僕の時間を奪い去る。そんな学校に居場所がなくなった僕は不登校になり、部屋にこもるようになってしまった。


 幸いにも両親は幼稚園時代の僕を見て、遅かれ早かれこうなることを予想していたみたいで、無理に学校に行かせるようなことはしなかった。これは本当にありがたいと思う。


 そんなある日、母親からこんな提案をされた。


「ねぇ、あんたさ。部屋にこもってるくらいならおじいちゃんの所に行かない?」

「エェッ!」

「おじいちゃん、1人で心配なのよ。お願い」

「べ、別にいいけど……」


 おじいちゃんは母親の父で、うちからバスで20分くらいのところに住んでいる。歴史を感じさせる大きな庭付きの一戸建てに、おばあちゃんを亡くしてからは1人で暮らしているので、母親はいつも心配をしている。何度か同居を勧めたみたいだけど断られたらしい。


 当時の僕は、おじいちゃんがあまり好きではなかった。優しくていつもにこにこしていたおばあちゃんに比べて、無口で難しい顔をしているおじいちゃんは怖い人だと思っていた。大学教授をしていたらしく、いつも部屋にこもって本を読んでいる印象。遊んでもらった記憶はない。

 そんなおじいちゃんの家に行くというのは、僕にとって一大決心だった。


「じゃあ、早速、明日からお願いね」

「エェッ!」

「おじいちゃんには言っておいたから」

「う、うん……」

「帰りは私かパパが迎えに行くわ」

「わ、わかった」


 僕に拒否権はない。そんな訳で僕は日中をおじいちゃんの家で過ごすことになった。


 初日。僕はいきなりおじいちゃんから怒られるんじゃないかとびくびくしていた。大学教授だった厳格なおじいちゃんが不登校の孫を許すはずがないと思っていたのだ。

 でも、おじいちゃんは何も言わなかった。


「よく来たね。あがりなさい」


 低く響くバリトンボイスで、たった一言、それだけを言うと僕を迎え入れてくれた。


 おじいちゃんは基本的に部屋で難しそうな本を読んでいる。僕がいるからといって、その生活スタイルを変える気はなさそうだ。

 だから僕は思う存分1人の世界に浸ることができた。気が向いたら庭に出てアリの行列を追いかけてみた。タンポポの綿毛を吹き飛ばしたり、カタバミの種を飛ばしたりするのは意外と楽しかった。


 庭の片隅にある小さな池。そこには数匹のニシキゴイが泳いでいた。エサをあげる役目を仰せつかったので、決まった時間に決まった量のエサをあげるのが僕の唯一の仕事だった。ニシキゴイにも学習能力はあるようで、しばらくすると僕の姿が見えただけで口をパクパクさせてエサをねだるようになった。


 おじいちゃんはお昼になると僕のためにご飯を作ってくれた。メニューは、ラーメンやウィンナーなど。おじいちゃんなりに僕に気を遣ってくれたのだろう。子どもが喜びそうなメニューばかりだった。

 両親の迎えが遅くなる時は夕食もおじいちゃんと一緒に食べた。その時は大体、外食に連れて行ってくれた。


 おじいちゃんとの生活は学校よりずっと快適だった。でも、おじいちゃんがどう思っているのか、それだけが心に引っかかっていた。

 僕が小学校3年生くらいの頃。僕は思い切っておじいちゃんに尋ねてみた。


「あ、あの、おじいちゃんは僕のことをどう思っているの?」

「ん? どうとは?」

「だ、だから学校にも行かないで、こ、ここに来ていることを。わ、悪い子だと思ってる?」

「別に悪い子だとは思ってはいないよ」

「じゃ、じゃあ、どう思っているの?」


 おじいちゃんは僕の質問の真意をはかるように真っ直ぐに僕の目を見つめていた。そしておもむろに口を開いた。


「純也は学校に行く子がいい子だと思っているのかな。私は学校なんか行く必要はないと思っているよ」


 意外過ぎるおじいちゃんの発言は僕をびっくりさせた。


「無理矢理、学校に行って席に座らされて授業を聞いたところで何も頭には入ってこない。人間、その気になれば道端に落ちている石ころからだって学ぶことはできるもんだ」


 おじいちゃんの話は僕には少し難しすぎた。それが表情に出ていたのだろう。もう少し噛み砕いて話してくれた。


「例えば理科の教科書でタンポポの花が黄色から綿毛に変わることを知るだろう。でも、純也はうちの庭でそれを知った。実際に目で見て、手で触れて体験した。どちらが頭に残るかな?」

「え、えっと、体験した方」

「そうだね。純也はニシキゴイにエサをやるために時計の見方を覚えた。学校で時計の模型で勉強するより、その方がずっといい」


 この時のおじいちゃんの語り口はとても優しく感じられた。


「で、でも、お、おじいちゃんは大学教授だったんでしょう?が、学校で勉強を教えるのが仕事だったのに……」

「私は勉強以外に何も取り柄がなかったからね。大学教授になるしかなかったんだよ。自分の才能を活かして仕事をしている純也のパパやママの方がすごいんだよ」


 大学教授といえば1番偉い先生だと思っていた。だから、おじいちゃんの言葉はとても意外だった。ただこの日、色々と話をしたおかげでおじいちゃんとの距離が少し縮まったように感じた。


 ある日のこと。いつものようにおじいちゃんの家に行くと、おじいちゃんは何やらバタバタと忙しそうに動き回っていた。


「おぉ、純也。今日は物置の掃除するから手伝っておくれ」

「あ、はい……」


 おじいちゃんの家の物置は、庭に面した廊下を真っ直ぐ進んだ突き当たりにある。いつもドアにはカギがかかっているので僕にとっては開かずの間だ。


 おじいちゃんがカギを開けた。ドアを開くとカビのにおいが鼻をつく。正面の壁にしつらえた窓から斜めに太陽が差し込んでいる。その光に照らされて、舞い上がったホコリがきらきらと輝いて見えた。


 はじめ目にする物置の中。そこにはダンボール箱に詰められた色々な物が整然と並べられていた。まるで厳格できちんとしているおじいちゃんの性格を表しているかのようだ。あまりに整然と並んでいるので整理する必要などないように思える。


「よし、じゃあ手前の箱から順番に出してくれるかい」

「う、うん……」


 一番手前はミカンのダンボール箱。思っていたよりも重くはなかった。僕が箱を運び出すとおじいちゃんが中身を確認しはじめた。そこには沢山の絵の具や絵筆が入ってた。


「お、おじいちゃん、これは?」

「これは油絵の道具だよ。昔、少しやっていたことがあるんだけどね。どうも私には絵心がなかったみたいで、すぐにやめてしまったんだよ」

「そ、そうなんだね」

「これはもういらないから、捨ててしまおう。純也、次のダンボールを出しておいておくれ」


 そう言うとおじいちゃんは油絵の道具をダンボールごと抱えていってしまった。僕は次の引っ越し屋さんのダンボールを引っ張り出した。このダンボールはとても重くて抱えることができなかった。おじいちゃんが戻ってきてダンボールを開けると、そこには沢山の部品や工具が入っていた。


「おぉ、これはこれは……」


 おじいちゃんは何だかとても懐かしそうに目を細めて眺めている。


「こ、これは何?」

「これは昔、おじいちゃんが働いていた大学で親しくしていた人からもらったものなんだよ。これはその工学部の教授が作ったコンピューターなんだよ」

「こ、コンピューターって?」

「今ではパソコンというんだろう?ノートパソコンとか小型の物が出ているけど、昔はこんなに大きかったんだよ」

「そ、そうなんだ」

「そのくせに性能は今のスマートフォン以下なんだから困ったもんだねぇ」

「す、スマホ以下なんだ……」

「でも、このコンピューターがあったから小型化に成功したんだから、バカにはできないよ」


 おじいちゃんは、これは捨てられないと言ってダンボールを脇に寄せた。


 次のダンボールはジャガイモのダンボール。これは何とか抱えられる重さだった。

 ダンボールの中身はカメラだった。


「か、カメラ?」

「そうだよ。カメラにも一時期、凝っていたことがあってね」

「そ、そうなんだ」


 おじいちゃんは、どうやら形から入るタイプの人のようだ。まず道具から揃えるタイプ。だから、続かなかった趣味の名残りが押入れに溢れかえっている。

 おじいちゃんが懐かしそうにカメラを触れている時、ダンボールの片隅にある珍しい物体が目に留まった。


 それは直方体をしていて、表面にはあまり凸凹はない。側面にのぞき窓のようなものがついている。上部には正方形の切り込みが入っているが、これは多分ボタンだろう。

 僕がのぞき窓を覗いているとおじいちゃんが声をかけてきた。


「それはポケットカメラだよ」

「ぽ、ポケットカメラ?」

「昔はカメラと言えばこの大きさだったからね」


 おじいちゃんは手に持った一眼レフカメラを構えて話し続けた。


「今はデジカメでも小さなものがあるだろう。でも、昔はそのポケットカメラが小型カメラだったんだよ」

「へぇ……」

「山登りの時なんかは一眼レフカメラだと重いからね。ポケットカメラを持って行ったものさ」


 僕はのぞき窓から色々なところを覗き見ながら、おじいちゃんの話を聞いていた。


「ね、ねぇ、おじいちゃん」

「どうした、純也?」

「このポケットカメラ、もらってもいい?」


 人にも物にもあまり興味がなかった僕。この時ははじめて、ポケットカメラが欲しいと思った。しかし、おじいちゃん少し困ったような顔をしている。


「だ、ダメかな?」

「ダメじゃないんだけど……そのカメラに使うフィルムは、もう売ってないんだよ」

「エッ?」

「古いカメラだからね。だから、もうそのカメラでは写真は撮れないんだよ」

「そ、それでもいい。だ、だから、貰ってもいい?」

「わかった。純也がそこまで言うのなら持っていきなさい」

「あ、ありがとう、おじいちゃん」


 僕はポケットカメラをズボンの後ろポケットに入れて手伝いを続けた。そしてヒマさえあれば、ポケットカメラののぞき窓から色々なとろこを覗いてみた。


 ポケットカメラは壊れているところはなさそうだった。フィルムの巻き上げダイヤルをいっぱいまで巻いてシャッターを切るとちゃんとカシャッと音がする。それだけで写真が撮れたような気持ちになれた。


 結局、押入れの後片付けは夕方遅くまでかかってしまった。


「じゃあ、ちょっと夕飯の買い物に行ってくるから、純也はこれとこれを私の部屋まで運んでおいてくれるかな?」

「う、うん。わかった」


 そう言うと、おじいちゃんはいそいそと買い物に出かけていった。


 僕は言われた通りに荷物をおじいちゃんの部屋まで運んだ。

 はじめて入るおじいちゃんの部屋はおじいちゃんの匂いに溢れていた。床に敷かれたカーペットやおじいちゃんが愛用しているイスは派手な色合いだけど高価だという感じが伝わってくる。だから部屋の中を歩く時は少し緊張した。


 3つ目の荷物を運んだ時のこと。荷物を置く時に体を机にぶつけてしまって、おじいちゃんが読んでいた難しそうな本を床に落としてしまった。慌てて拾い上げ用とした僕の手がぴたりと止まった。


「こ、これって……」


 床の上に落ちた本。開かれたページには僕が大好きだったおばあちゃんが笑っていた。僕は床に置いたままでページをめくる。どのページにもおばあちゃんばかり。最初の方は若い頃の、そこからページを進めると次第に見覚えのあるおばあちゃんの姿に近づいていく。


 本の表紙には難しそうな名前が書いてあるが、これはアルバムだ。おじいちゃんは毎日、部屋にこもっておばあちゃんの写真を見ていたのだ。一人暮らしだったけど、今でもおばあちゃんを身近に感じていたのだろう。おじいちゃんは今でもおばあちゃんを愛しているのだ。


 無口で怖いと思っていたおじいちゃんのイメージが、今日1日で大きく変わった。本当はとても優しいおじいちゃんだと気づいたのだ。

 僕は本を元に戻して部屋を出た。この事は誰にも言わないでおこうと心に決めていた。


 それから数日後、おじいちゃんは亡くなった。自宅で倒れているところを母親が発見したのだけど手遅れだったらしい。その日も今日みたいに暑い日だった。


 もしかしたら、おじいちゃんは予感をしていたのかもしれない。だから、あの日、押入れを整理しようと言い出したのではないか。僕はそう思っている。


 今日はおじいちゃんの七回忌。おじいちゃんの家に親戚一同が集まっている。

 おじいちゃんが亡くなった後、この家をどうするか親戚で話し合ったようだ。その結果、七回忌まではそのまま残しておこうと決めたらしい。それまでは母親がたまに訪れては掃除などをしていたようだ。


 僕は久しぶりにおじいちゃんの家の中を歩いていた。あの頃、毎日のように過ごしていた僕のもうひとつの家。柱の傷も庭の雑草もすべてが懐かしい。


「おじいちゃん、僕はあれからずっと写真を撮っています。まだまだ下手くそだけど、少しは人の心のうちがわかるようになったかもしれません」


 ザワザワと庭のビワの木を風が撫でた。


「写真のおかげで人にも興味を持つことができました。多分、これから先も何とかやっていけそうです。だから、心配しないでください」


 再び、一陣の風が庭を駆け抜けた。その風は僕の前髪をかきあげて去っていった。まるでおじいちゃんに頭を撫でられたような、そんな気がした。

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