第4話 チアダンス部部長 3年A組 目黒沙良
真夏の炎天下。中天にいる太陽がじりじりと肌を焦がす。耳をすませば、その音が聞こえるのではないかと思うほどだ。
基本的に引きこもりのインドア派の僕が、真夏の日中に外出するなんて余程のことでもない限り有り得ない。そんな僕が今、日陰1つない市営球場のスタンドにいるのは、はな先輩からの指令がくだったからに他ならない。
それは3日前のことだった。部室のドアが乱暴に開かれ、そこにコンタクト姿が板についてきた、はな先輩が立っていた。
「やぁ、柾木くん」
「あ、ど、どうも……」
最近、はな先輩が部室を訪れることが増えているのだが、毎回、ドキンと心臓がはじける。そのうち、心停止するのではないかと不安になるほどだ。それでも、はな先輩は毎回お構いなしに部室のドアを開ける。あれだけ礼儀にはうるさい先輩なのに、そこだけはオッケーなのが不思議だ。
「今度の日曜日、何か予定はあるかな?」
「エッ、に、日曜日ですか?」
「あぁ、日曜日だ」
このセリフだとデートに誘われるのではないかと一瞬、期待した。だけど相手ははな先輩だ。そんなにうまい話はないだろう。
僕の日曜日なんて予定がある訳がない。朝、遅めに起きて部屋でのんびり写真雑誌を眺めて過ごす。気が向けばカメラを持って散歩に出る程度だ。
それも、梅雨に入って雨が降るとできない。天気だとそれはそれで暑いからと言い訳をして、エアコンの効いた部屋から出ない生活を送っている。
「何だ、ヒマなのか」
「え、ええ、まぁ……」
「ちょうど良かった。君に頼みがあるんだ」
「な、何でしょう?」
先輩の頼みは2択だった。夏の炎天下、甲子園を目指して予選を戦う野球部の取材をすること。もしくは、県民ホールで、こちらも全国大会を目指して頑張る吹奏楽部のコンクールを取材すること。そのどちらかを選べというのだ。
うちの野球部は強豪校ではない。毎年1回戦を勝てばいい方だというレベル。それに対して吹奏楽部は県大会は確実に突破するほどの強豪で、全国大会も夢ではないらしい。
市営球場は炎天下だが、県民ホールならエアコンが効いている。選ぶまでもなく県民ホールの1択だ。しかし、僕が吹奏楽コンクールの取材をするのには1つ大きな問題があった。
僕はクラシックを聴くと猛烈に眠くなるのだ。以前、カメラ屋さんに問い合わせの電話をした時、保留音で流れてきたビバルディの『春』を聴いて寝落ちしかかったほどだ。すべての曲がショパンの子守唄となり僕を眠りにいざなうのだ。
僕がそんなごく個人的な理由で悩んでいると、「あたし、県民ホール」と声が響いた。見ると部室の外、開け放たれたドアにもたれかかるようにしてはな先輩の妹のゆきさんが立っていた。さん付けで呼んでいるが、彼女と僕は同い年、つまり同級生だ。だけど、姉のはな先輩に負けず劣らずの強引な性格。後先を考えずに突っ走るあたりは、はな先輩より質が悪い。そんな彼女に僕が言い返せるはずもないので、あっさりと白旗をあげる。
「じゃ、じゃあ、僕が野球部の方で……」
「おぉ、思ったより早く決まったな。2人とも前向きでよろしい」
はな先輩が僕の手を握ってブンブンと上下にふる。
「それじゃあ、しっかりと取材をしてきてくれ。夏休み明けの特別号に掲載する予定だから、よろしく頼む」
そう言い残して、桜島姉妹は去っていった。
市営球場は毎年高校野球の予選くらいしか出番のない老朽化が進んだ施設だ。そのため、スタンドは炎天下にさらされ、応援する方は熱中症の危険と常に背中合わせの状態だ。
グラウンドでは野球部員が試合前の練習をしている。まだ試合開始までには時間がありそうだ。
「あ、暑い……」
あまりの暑さに、知らず知らずのうちに言葉が漏れていたようだ。不意に頭の上にひんやりとした物体が覆いかぶさってきた。
「つ、冷たい!」
驚いて振り返ると1人の女性が僕のを見下ろしていた。
「今からそんなんじゃ試合終了まで持たないぞ」
ニコッと笑った口元からは可愛らしい八重歯がのぞく。小麦色の健康的な肌に白い歯がまぶしく光る。
頭に手をやるとビニール袋に氷を入れたいわゆる『かち割り氷』が乗せられていた。
「野球の応援ははじめて?」
「あ、は、はい……」
「あぁ、ごめんごめん。私のこと知らないよね。私はチアダンス部の目黒沙良。一応、部長ね」
「あ、ぼ、僕は柾木純也です」
「あなたのことは、はなちゃんから聞いてるわ。後輩が取材に行くから面倒を見るように頼まれてるの」
そう言ってまたニッコリとほほ笑む。この人は小悪魔系の才能がある。この笑顔に骨抜きにされた男子は少なくないだろう。
「今日は吹奏楽部は1年だけの参加だから、チアダンス部が応援の指揮をとるからね」
「あ、そうなんですね」
「コンクールと重なっちゃったから、しょうがないのよ」
「あ、そっか」
「だから、あなたもしっかり声を出して応援してね」
「は、はい」
「期待してるわよ、新聞部さん」
「あ、ぼ、僕は写真部です」
「エッ、そうなの?」
「は、はい……」
「はなちゃんが後輩って言ってたから、てっきり新聞部だと思っちゃった」
失敗とばかりにペロッと舌を出す。すべての仕草が可愛らしさをまとっている。女の子らしい女の子といえる。それを無意識にやっているところが末恐ろしい。
「あ、そろそろはじまるみたいよ。しっかりと取材してね、写真部くん」
「は、はい」
「でも、チア部の子を撮る時は、あまり下からのぞき込むような写真は取らないでね」
わかったかなという具合に目の前に立てた人差し指を出された僕は、ただうなずくしかできなかった。目黒先輩は、呆然とする僕を残してチアダンス部が整列する方へと戻っていった。
グラウンドでは練習を終えた野球部が応援席の方に向かって整列をしている。この瞬間を逃してはならないと、僕は写真部のモードにシフトチェンジをした。
僕が野球観戦をするのは人生ではじめてのことだ。一応、簡単なルールはわかっているつもりだ。打ったら1塁に走ること、三振するとアウトになること、アウトが3つで攻守が交代することなど。より専門的な知識はスマホでフォローすることにする。まぁ、ルールがわからなくても写真は撮れる。
先攻は相手高校。うちのピッチャーは事前情報によると2年生エースらしい。負ければ3年生の引退が決まる試合だからプレッシャーも半端ないだろう。
「プレイボール」
球場に大きなサイレンが響く。老朽化している割にはいい声を出している。
先頭バッターにはボールが先行したものの内野ゴロに打ち取った。続くバッターも三振に切って落とし上々の立ち上がりだ。次のバッターにはヒットを打たれたが、4番バッターを外野フライに打ち取り初回は無失点に抑えた。
1回の裏。こちらの攻撃になると、吹奏楽の演奏とチアダンス部の応援に熱が入る。そのバッターに合わせた応援ソングがあるようで、統率の取れた応援を繰り広げる。しかし、残念ながら三者凡退に終わった。
相手高校の応援席は観客の数は多くない。強さ的にはうちと同じレベルらしいが応援ではうちの圧勝だ。
もしかしたら、1回戦から吹奏楽部とチアダンス部の応援があるうちの学校の方が珍しいのかもしれない。これはかなり昔からの我が校の風習らしい。今日はコンクールがあったので吹奏楽部の人数が少ないが、全員が揃ったらかなり壮観だと思う。
試合は3回までは膠着した展開が続いていた。どちらも1塁にランナーを出すものの後が続かず、得点にはいたっていない。炎天下の中、よく倒れないなと不思議になる。僕なんかさっきもらったかち割り氷がすでにぬるま湯になっているので頭から湯気が出ているのではないかと思うほどだ。
チアダンス部のメンバーは目黒先輩のリードの元、一糸乱れぬ応援を続けている。全員の動きが揃っているだけでもすごいのに、全員笑顔を絶やさないのがすごい。自然とチアダンス部を写す写真が増えてしまう。
4回の表、ついに試合が動いた。先頭バッターを四球で出すと、続くバッターの送りバントを三塁手が痛恨のエラー。ノーアウト1塁2塁のピンチを招いたのだ。
「ドンマイドンマイ」
「切り替えよう」
「気にすんなって」
エラーをした三塁手をフォローするような声が響く。応援席からも鼓舞するように声が上がる。
「頑張れぇ」
「しっかりしっかり」
「大丈夫だよ」
「ファイトぉ」
スタンドからの黄色い声援に軽くグラブをあげて答える三塁手。その顔には笑みが浮かんでいる。この空気感がすごくいい。ミスを責めるのではなく前向きに切り替える。僕だったら3週間ぐらい引きずるだろう。
「カキーン!」
快音が球場に響いた。白球がライト前に落ちランナーがホームへ戻ってしまった。先制点は相手高校。マウンド上では滴る汗をぬぐう2年生エースの元に内野陣が集まっていた。
「ほら、写真部くんも声を出して応援して」
目黒先輩から声が飛ぶ。
「あ、はい。が、頑張れ」
僕の声なんてたかが知れている。絶対にマウンドまでは届かない。蚊の鳴くような声だと笑われてもしょうがないと思う。
「オッケー、いいよ。その感じでね」
目黒先輩は僕の声の小ささを笑わなかった。それどころか褒めてくれたのだ。心の内がじんわりと温かくなるのがわかる。
小学校の頃、音楽の時間が嫌いだった。やたら声を出せという音楽の先生がイヤでイヤでしょうがなかった。出せと言われても出ないものは出ない。「腹から声を出せ」と言われても出ないものは出ないのだ。
国語の音読もそう。大きな声こそ正義という風潮が僕をどれだけ傷つけたか。だから目黒先輩の励ましがとても嬉しかった。もっと声を出そうと生まれて初めて思ったのだ。
「が、頑張れ!頑張れぇ!」
声の限りに叫び続けた。声を出すだけじゃなく、心からピンチをしのいで欲しいと願っていた。
「カッキーン」
僕の願いむなしく、この日一番の大飛球が外野を襲った。青い空に吸い込まれるように高く舞い上がった白球は、風に乗るとグングンと伸びていきフェンスを越えたのだった。
「あぁ……」
「いやぁん」
明らかに応援席が意気消沈したのがわかる。マウンド上では2年生エースが膝に手をついてうつむいている。どうすればいいんだろう。応援経験の少ない頭で懸命に考えた。
「が、頑張れぇ。まだ負けてないぞぉ」
自分でもビックリするほどの大声が出た。応援席のチア部の人も僕の方を見ている。僕は驚きと気恥ずかしさで消えてしまいたい思いに駆られる。
「ほらほら、写真部くんに負けないように応援するよ」
目黒先輩が手を叩いて応援部隊を鼓舞する。その時にこちらを見て、優しく微笑んでくれた。二重まぶたの黒い大きな瞳に僕が写っているのが見えた気がした。
一度相手に傾いた流れは、応援だけで盛り返せるものではない。結局この回、さらに2点を追加され6対0となってしまった。
「うーん、この流れは良くないねぇ」
次の回の攻撃の合間に目黒先輩がかち割り氷を持ってきてくれた。
「そ、そうですね。点を取られちゃいましたね」
「まぁ、まだまだこれからだけどねぇ」
「は、はぁ……」
「さっきは、ありがとうね。いい声出てたよぉ」
目黒先輩は去り際に僕の頭をコツンと突いていった。
うちの攻撃はあっさりと終わり、続く相手チームの攻撃。前の回の勢いが衰えることなく連打が続いた。ヒットとエラーで4失点。10対0と大差がついてしまった。
「この回、点が取れなかったらコールド負けね……」
今まで撮った写真をチェックしていた僕は、その声に驚いて顔を上げた。気が付けば、今度は目黒先輩が僕の隣に腰かけていた。小麦色に日焼けした健康的な太ももが僕に当たっている。
「ずいぶん、集中していたねぇ、写真部くん」
「あ、あのコールドって?」
「あぁ、高校野球のルールで5回を終わって10点差以上ついていたら試合が終わっちゃうんだよ」
「そ、そうなんですね……」
「だから、この回1点でも取らないと負け」
「き、きっと大丈夫ですよ」
「そうね、写真部くんも頑張ってるんだから、私も頑張らないとね」
そう言うと、ウーンと伸びをしながらチアダンス部の列の方へと思っていった。
点を取らないと負け。そう思うと自然に応援にも力が入る。僕はカメラで撮影を続けながら応援を続けた。
先頭バッターはファールで粘ったものの三振。これで1アウト。
「カキーン」
次のバッターは快音を残したものの相手ショートのファインプレーに阻まれ2アウト。どうやら運にも見放されたようだ。
「頑張ってぇ、頑張ってぇ」
チアダンス部の応援も悲鳴に近くなっている。
「が、頑張れ。頑張れよぉ」
僕も気がつけば声が枯れるほど声を出して応援していた。
すると、祈りが通じたのか次のバッターがヒットで出塁した。そして次のバッターの初球、2塁への盗塁を決めたのだ。一気に盛り上がる応援席。吹奏楽部の演奏も熱を帯びる。
次のバッターは初失点につながるエラーをした三塁手。バッターボックスの手前で2度3度とスイングをしてバッターボックスに入る。
初球はボール。次もわずかに外れてボール。しかし次の球をファールにしてしまい2ボール1ストライク。そしてフルスイングをした次の球がフラフラと二塁後方へと上がった。懸命にバックする二塁手。突っ込んでくるセンターとライトの選手をあざ笑うかのように白球はポトリと落ちた。
スタートを切っていたランナーが一気にホームへと還ってきた。まるで勝利したかのように湧き上がるスタンド。僕はここぞとばかりにシャッターを切り続けた。
次の回は両校とも無得点。10対1のまま7回の裏の攻撃になった。高校野球のルールでは7回になると7点差以上でコールドになるらしい。つまりこのままでは負けてしまうのだ。
僕も応援団の一員として懸命に声を出して応援した。多分、今までの人生でこれだけ声を出して叫んだことはない。それほどまで必死になったのは目黒先輩の存在だけではない。一生懸命頑張っている人を応援するというのは、自分自身にもエネルギーがもらえることだと気づいたからだ。
最後のバッターが打席に入った瞬間から、僕はカメラで目黒先輩を狙った。いつも笑顔の目黒先輩を写真に残しておきたかったからだ。
最後のバッターは粘りを見せたもののセカンドゴロ。一塁にヘッドスライディングしたがわずかに届かずゲームセット。うちの学校は10対1の7回コールドで敗戦した。
最後のバッターがアウトになった瞬間、一瞬だけ目黒先輩から笑顔が消えた。そして一条の涙が頬を伝った。それを周りに気づかれないようにそっとぬぐうと、またすぐにいつもの笑顔に戻った。
「ありがとぉ」
「お疲れ様ぁ」
「ナイスファイト」
口々にねぎらいの言葉をかけるチアダンス部の面々。そこに涙はない。野球部も全員で応援席に向かって整列し深々と頭を下げていた。
帰り道。市営球場の出口に向かう通路。ここだけは日が差し込まないため炎天下のスタンドに比べると空気がひんやりと感じる。そこで壁にもたれている目黒先輩を見つけた。うつむき加減で立つ姿は、笑顔こそないもののドキッとするほどに美しい。
僕はゆっくりと目黒先輩に近づいていった。聞きたいことがあったからだ。
「お、お疲れ様です」
自分の声がかすれ切っていて笑える。僕の姿を見つけた目黒先輩は一瞬で笑顔に戻る。
「あぁ、写真部くん。お疲れ様。声、大丈夫?」
「あ、大丈夫です……多分」
「頑張って声を出してたもんね。さすが男の子だよ」
ニコッと笑って親指を立ててくれた。男をとろけさせる笑顔だと思った。
「あ、あの、ちょ、ちょっとこの写真を見てくれますか?」
「何かなぁ?」
カメラを覗き込んだ目黒先輩の目がビックリしたように見開かれた。そう、僕は目黒先輩が試合終了の瞬間に涙を流している写真を見せたのだ。
「こ、これは?」
「ゲ、ゲームセットの瞬間を、と、撮ったものです」
「そっかぁ。いいところと狙ってるね。さすが、はなちゃんが褒めるだけのことはあるねぇ」
目黒先輩が目を細めて僕を見ている。
「笑顔で応援するのはチアの基本だからね。その写真の私はチア失格だね」
「い、いや、そんな……」
「彼氏なの」
「エッ?」
「エラーした三塁手。私の彼氏なの」
「そ、そうだったんですか」
僕の胸の奥のところがチクリと痛む。それは微かだけど鋭い痛みだった。
「誰にも秘密にしてたんだけどね。その写真を見せられたらバレバレだね」
「い、いえ、あの……」
全然、気づいていなかった。目黒先輩は最後の最後で、彼氏の高校野球が終わったことに涙したのだ。この写真はチアダンス部の部長から一人の彼女に戻った瞬間なのだ。
「彼ね、高校までで野球はやめるんだって。野球している姿、好きだったんだけどなぁ」
残念だなぁと言いながら、ペロリと舌を出した。
「こ、この写真は消しますから……」
「エッ?」
「こ、この写真は、誰にも見せませんから、安心してください」
「あはは、写真部くんは優しいね」
そう言って顔を傾ける目黒先輩。後ろに結んだポニーテールが尻尾のように大きく揺れた。スッと小麦色に焼けた細い腕が伸びてきて、僕の頭をなでた。
一瞬で顔が紅潮したのがわかる。それが恥ずかしくて、僕は顔を伏せた。
「じゃ、じゃあ失礼します」
僕は目黒先輩の横を通って出口へと向かう。
「ゴー、ファイト、ま・さ・き!ゴー、ファイト、ま・さ・き!」
僕の背後から大きな声が聞こえてきた。あまりの大きさに体がビクッと反応する。きっと今、最高の笑顔でエールを送ってくれているに違いない。僕はその声援を背中に受けながら、振り返らずに球場を後にした。
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