第3話 新聞部部長 3年C組 桜島はな

 天災は忘れた頃にやって来るというが、その日春の嵐が僕に直撃した。

 部室のドアがノックもなく荒々しく開けられた時、僕は部室内の椅子に座って雑誌を読んでいた。『月刊デジタル一眼レフマガジン』という写真好きのバイブル的雑誌。前の日の学校帰りに書店で買ったのだ。


 ちょうど雑誌の人気コーナーで、僕も毎回楽しみにしている『今日の一枚』のページを読んでいた。集中して読んでいたので、ドアが開いた音にビックリして椅子から飛び上がった。いや、現実には飛び上がっていない。でも、気持ち的には30cmは飛び上がったと思う。


「写真部の1年生は君か?」


 ドアを開けて1人の女子生徒が入ってきた。背中まで伸びた髪を左右に分けてまとめ、黒縁のメガネをかけた女性だ。上靴の色からすると3年生のようだ。


「あ、あの……」


 この展開はコミュ障でなくてもテンパるはずだ。そうしている間にも、彼女は勝手に部室に入ってきて、僕の向かいに座った。


「1年生、名前は?」

「エッ?は?あの……」

「な・ま・え!」


 僕と彼女の間にある机をトン、トン、トンとリズミカルに叩きながら、問いかけてきた。


「ま、柾木です」

「まさき?それだけじゃ、苗字だか名前だかわからんだろ。こんな時はフルネームで言うもんだ」


 めちゃくちゃ怒られた。たしかに苗字だか名前だかわからないような名前だけど。いきなりノックもなしに入ってきて、怒られるいわれはない。ただ僕に反論する勇気はない。


「柾木純也です」

「柾木純也くんね、はい」


 彼女は中指でメガネを押しあげながら「最近の若い子はもう……」とばかりに大きなため息をついた。


「私は桜島はな。新聞部の部長をやってるわ。あなたのことを生徒会長から聞いてやって来たの」

「は、はぁ」

「じゃあ、打ち合わせをはじめるわね」

「エッ?」


 何の打ち合わせだろう?何も聞いていない。でも、それを聞くとまた、めちゃくちゃ怒られそうな気がする。聞かないと、それはそれで怒られる気がする。もう八方ふさがりだ。

 桜島先輩は散らかっていた机の上をガーッと端に押しやって持ってきていた紙の束を置いた。その衝撃でホコリがもうもうと立ち昇る。


「ゲホッ、何この部室。掃除してないの?ちょっと窓を開けてちょうだい」


 僕は言われるままに窓を開けた。

 何年もの間、部員がいなくて満足に掃除もしてもらえなかった部室。その間に積もり積もったホコリが窓から吸い出されていく。


「じゃあ、はじめましょうか。座って」

「は、はい」


 促されるままに座ってはみたものの、まだ何がはじまるのかがわかっていない。わからないというのは、それだけで恐怖だ。さらに、この怖い桜島先輩の前だから、余計に縮みあがってしまう。


「まずはこれね」


 僕の前に1枚の紙が差し出された。


「これは見たことあるわよね」


 見たことがないとは言わせない雰囲気を醸し出しながら言われても困る。おずおずと首伸ばして眺めてみる。まるで甲羅の中から首を出す亀みたいな気がした。


「あ、これって……」

「そう、学校新聞よ。教室にも貼ってあるでしょ?」


 桜島先輩は、僕に答えを言わせてくれない。先輩がせっかちなのか、僕が遅いのか。どちらにしても、やりにくいことに変わりはない。


「私たち新聞部は、年に4回、この新聞を発行してるの。春、夏、秋、冬の4回ね。あとは冊子タイプの特別号を年に1、2回ほど発行してるの」

「は、はぁ」

「次は夏休み前に発行する夏号よ」

「は、はぁ」


 話のゴールが見えないので、どうしても気のない返事になってしまう。それでも桜島先輩は気にした風もない。


「柾木くん、夏と言えば何?」

「エッ、エッ?」


 突然の質問に、ただ戸惑うばかりの僕。桜島先輩は、僕に人差し指を突きつけて、返事を待っている。


「えっと、あの……」

「そう、プール。夏と言えばプールよね」


 僕がプールと答えたことになってしまった。多分、桜島先輩はせっかちだ。


「そこで柾木くんには来週に行われるプール掃除の写真を撮ってきて欲しいの」

「ぼ、僕がですか?」

「あら、写真部には他にも柾木くんがいるのかしら?」

「い、いえ、いませんけど」


 桜島先輩は怒っている感じではない。むしろ笑みさえ浮かべいる。絶対、僕をいじって楽しんでいる。


「あ、あの、何で僕が?」

「あなたたち写真部は新聞部のために写真を撮らなきゃいけないの。去年までは部員がいなかったから大変だったのよ」


 そう言うと、また1枚の新聞を取り出した。


「写真部がいないから、苦肉の策で美術部に協力をお願いしたの。でも、やっぱり写真には勝てないわね。アーティスティックになりすぎて記事の内容が頭に入ってこないもの」


 そこには写真の代わりに手書きの絵が載っていた。もう少し写実的なら印象も違うのだろうが、これはかなり抽象的な絵だ。これでは新聞の邪魔でしかない。


「生徒会長に聞いたら、今年は新聞部に優秀な1年生が入ったって言うじゃない。だったら、早速、働いてもらわなきゃと思ってきたの」

「あ、そうだったんですか」


 新聞部と写真部は協力関係ということは了解できた。ただプール掃除の撮影は気が乗らない。


「プ、プール掃除は、ぼ、僕も参加するので撮影はちょっと……」


 我が校の慣習で毎年のプール掃除は1年生がやることになっていた。だから、撮影するのは不可能なのだ。カメラを持って、足元が滑りやすいプールには入りたくない。カメラが水没したら立ち直れない。


「そうか、プール掃除は1年生の仕事だったわね」


 桜島先輩は腕を組んで考えはじめた。


「わかったわ。生徒会長に頼んで、あなたのプール掃除を免除してもらうようにするわ」

「エエッ」

「それなら問題ないわよね?」


 あまり特別扱いされるとイジメの対象になるのではないかと心配になる。目立たないように空気として生きている僕の生活を脅かさないで欲しい。

 ただ桜島先輩の依頼を断る度胸もない。結局、僕が了解したことになって話が続いてしまった。


「じゃあ、そんな感じでお願いね。最後に何が質問ある?」

「あ、し、新聞部は何人いるんですか?」

「2人よ。私の他にもう1人、あなたと同じ1年生の女の子がいるわ」

「エッ、2人だけ……」


 うちと同じ少人数の部活だった。ちょっと意外でビックリした。


「何よ、文句あるの?」


 桜島先輩が中指でメガネを押しあげながら凄んでくる。


「い、いえ、文句はないです」

「そう、良かったわ。よろしくね」


 桜島先輩が机の向こうから手を差し伸べてきた。この手を握れば契約成立になるのだろう。

 この前、体育館で河合先輩と握手をしたけど、女性の手を握るのに免疫ができた訳ではない。だから緊張する。

 取り敢えず、制服で手汗を拭ってから手を差し出した。


「私のことは、はな先輩って呼んでちょうだい」


 そう言い残すと、はな先輩は嵐のように去っていった。


 プール掃除当日。抜けるような青空が広がる快晴。プール掃除日和というものがあるとすれば、まさにそれに相応しい日だった。

 僕は生徒会長からの圧力のおかげでプール掃除を免除され撮影に専念することになっていた。


 プール掃除というのは、学校の行事の中では比較的、遊びに近い行事だと思う。まず各クラスに配布されるデッキブラシの数が足りない。交代で使うように言われるが、待ち時間の間に遊びはじめてしまう。スケートのように滑りはじめる者、ヤゴなどの水生昆虫を探しはじめる者、水遊びをはじめる者など。


「おぉ、ヤゴ見っけ」

「ちょっとやだぁ。やめてよ」

「行くぞぉ」

「マジ、やめてってばぁ」


 そこかしこで楽しそうな声があがる。こうなると数名の教師ではどうしようもない。

 そんな無法地帯でどうすれば新聞のネタになるような写真が撮れるのだろう。非常に悩ましい問題だ。


 そうしているうちにプールで足を滑らせて転倒する者が出てくる。女子が転んで体操服の上が濡れると下着が透ける。そこからは男子の欲望が暴走をはじめ、プール掃除は次の局面を迎えるのだ。


「ちょっと冷たい」

「もうやめてよぉ」

「いやだって言ってるでしょ」


 女子が拒めば拒むほど男子の勢いは増してくる。ただ女子の方も本気で嫌がっているようには聞こえない。むしろ嬌声に聞こえる。だから、男子の邪な炎がますます燃え上がるのだ。

 僕もファインダーを覗きながら、女子の下着が透けている姿を追ってしまう。そして1人で罪悪感にさいなまれ落ち込むのだ。みんなのように自然にふるまえたらどんなに楽だろう。


 僕の中で天使と悪魔が戦っていた。そして少しだけ悪魔が優勢になった。その時だった。


「ちゃんと撮ってるか?」


 突然、声をかけられて心臓が飛び上がるほどに驚いた。体がビクッと反応して危うくカメラを落としそうになる。てっきり、はな先輩が様子を見に来たのだと思ったのだ。でも、違っていた。

 声の主はプールの縁に肘をつきながら上目遣いで僕を見ていた。僕はこの女の子を知らない。でも、どこかで見たような気もする。


「エロい目で写真撮ってんじゃねぇぞ」


 可愛らしい顔からは想像もできない毒舌だ。


「べ、別にエロい目なんてしてないよ」

「いやいや、かなりヤバい目をしてたって」

「し、してないってば」


 プール掃除をしているということは同級生だろう。しかし、初対面なのになんて失礼な女の子だろう。でも、この感じどこかで……


「お、怒ったか?お姉ちゃんからは草食系のおとなしい子だって聞いてたんだけどなぁ」

「お、お姉ちゃん?」

「そ、そ。桜島はな。知ってるでしょう?」

「エエッ、は、はな先輩の妹さん?」

「そうだよ、桜島ゆきってんだ」

 はな先輩が文系のメガネ女子だとしたら、彼女はバリバリの体育会系な気がする。まさに正反対の姉妹だ。


「ちなみに新聞部だから、よろしく」

「エエッ」


 僕はまた驚かされてしまった。もう1人の新聞部員は、はな先輩の妹さん。なんと新聞部は家族経営だった。驚かずにはいられない。


「だから、あんたがエロい写真ばかり撮らないように監視してたんだよ」

「い、いや、と、撮ってないから」

「ホントか?じゃあ、見せてみろよ」


 そう言うと彼女はエイッとばかりに体を腕で支えて、プールサイドに上がってきた。そして僕のすぐそばにくっついてきた。人にはパーソナルスペースというものがある。それを 越えられると不快になる。しかし、彼女はそんなのお構いなしとばかりに距離を詰めてきた。僕の場合パーソナルスペースを女性に越えられると挙動不審になる。今回も彼女の横顔を見ながらドギマギしている。


「早く見せてみろよ」


 相変わらず可愛いくせに口が悪い。僕は今まで撮った写真を彼女に見せていった。


「へぇ、なかなかうまいじゃん」


 はじめは「へぇ」とか「ふーん」とか言いながら見ていた彼女も次第に無口になっていった。やっぱり面白みのない写真ばかりだから退屈になってしまったのかもしれない。やがて今日撮った分はすべて見せ終わってしまった。


「なぁ、今、最後にちらっと見えたの見せろよ」

「え、あ、あれは……」


 どこまでが今日撮った分かがわからなくて、最後にこの前撮った写真が見えてしまったのだ。彼女はそれを見逃さなかった。僕は諦めてその写真を彼女に見せた。


「これ、お姉ちゃんだよな」

「う、うん……」


 その写真はこの前はな先輩が部室に来た時、埃でメガネが汚れて拭いている時の写真だった。窓から差し込む日がはな先輩の横顔を照らし、くっきりとした陰影をつけている。


「すげぇ、この写真、メッチャいいじゃん」

「そ、そうかな?」

「なぁ、この写真、今度の新聞に載せないか?」

「エエッ、ダメだよ。ぼ、僕が怒られるよ……」

「大丈夫だって、あたしがうまくやるからさぁ」

 本当だろうか?はな先輩にバレたら、めちゃくちゃ怒られるんじゃないだろうか?でも、この妹さんの提案を断るのにも勇気がいる。僕にはとても断れそうにない。結局、押し切られる形でデータを渡す約束をしてしまった。


 数日後、はな先輩が部室に怒鳴り込んできた。刷り上がった新聞を手に、怒り心頭といった表情で飛び込んできたのだ。


「おい、この写真は何だ」

「あ、エッ、あの……」


 この状況で言葉が出てくるほど、僕は器用に生きていない。

 机の上に新聞が置かれた。見ると一番下の段の右隅にあの写真が載っていた。


「ここには編集後記が入る予定だったんだ。それをゆきが勝手に差し替えた。お前もグルなんだろう」

「い、いえ、あの……」

「私の写真なんか載せても誰も喜びはしない」

「エッ、でも……」

「いいか、編集長でもある私に無断でこんなことをして許されると思っているのか」

「す、すみません」


 謝ったところで、はな先輩の怒りが収まる気配はない。


「しかも、この写真、メガネをしてないじゃないか。メガネのない素顔を撮られる女性の気持ちがわかるか?」


 たしか芸能人がメガネのない素顔を撮られるのは下着姿を撮られるよりも恥ずかしいと言っていた気がする。はな先輩もそのタイプなのだろう。


「で、でも、この写真、すごく綺麗です」

「はぁ?」


 はな先輩の顔が一気に紅潮した。それが怒りなのか何なのかは僕にはわからない。


「メ、メガネをかけてないはな先輩は、す、すごく素敵です」


 はな先輩は耳まで真っ赤になっている。今度の反応は、僕でも理解できた。その後、はな先輩は何も言わずに部室から出て行った。刷り上がった新聞を机に残したまま。


 翌日、またはな先輩が部室にやって来た。


「おい、柾木くん。次の打ち合わせをしようか」


 そう言って僕の向かいに座るはな先輩は、メガネをかけていなかった。


「コンタクトにしてみたんだが似合うかな?」


 僕は満面の笑みで「似合ってます」と意思表示をした。

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