金の国と笑顔の絵

とある国の国立美術館に、一枚の絵が飾られている、横幅が1000mmという巨大な30号キャンパスに描かれた、巨大な風景画。その絵には、この国の広場と、たくさんの人が描かれていた。汗を流しながら木箱を運ぶ船乗り。ほうきを持ち、広場を清掃する行商人。屋台を構え、絵画や美術価値の高い調度品を並べ、手を高く上げたたく女性。それを興味深く眺めるドレスの女性や、貴族風の男。髭を生やした恰幅のいい男は、絵の奥に見える巨大な建物の前に立って、広場を眺めている。作者はキリカ。題名を「笑顔」というこの絵は、国立美術館の最も光の当たる場所に飾られている。

日も沈みかけた夕方。深紅の空が街を見下ろす時、天窓からオレンジ色の光が照らすこの絵を、一人、立ち尽くして眺める、コートを着た男がいた。

その中年の男は、親指と中指を顎に当てて、その絵をじっと、眺めている。

「これは・・・商業ギルド会会長様ではございませんか。ご来館なさっていらっしゃったのに気づくことができず、申し訳ございません」

美術館の奥から、黒いスーツの蝶ネクタイの男が一人、会長と呼ばれた男に駆け足で近寄る。

「いや、結構。今日は忍びで来たのだ。絵を鑑賞するのに、人をぞろぞろと連れていては、格好が悪い」

「申し訳ございません。上司からの命令でございまして。お供させていただきます」

「ふん。どいつもこいつもご機嫌取りで忙しいようだな。これを堪能したら私は帰るよ」

「かしこまりました」

しばらく会長は、絵を眺めてうなずいている。蝶ネクタイの男は、目を伏せ、姿勢を正し、会長の斜め後ろに立ち尽くす。

「ところで、首尾の方はどうだ?」

会長が、蝶ネクタイの男に声をかける。

「首尾・・・と申しますと?」

「先日この絵に予告状があったそうじゃないか。怪盗シモンとやらからの挑戦状だ」

「そのことにございますか。首尾は万全・・・と申したいところですが、奴の手口がわからず、とりあえず金庫室に置いて、警備を厳重にしようという方針にございます」

「そうか。予告の日は今日、それも今夜とのことだが、こんなところに堂々と飾っておいていいのか?」

「そのことですが、人目があれば、いくらヤツといえど堂々と盗むことはできますまい。なので、閉館と同時にこの絵を金庫室に収めようかと。すでに警備のものは金庫室に詰めており、4人一組として翌朝の開館まで、目を離さないようにさせる算段です」

「なるほど。それにその予告状。今回は何かおかしい様子らしいじゃないか」

「ええ、私としても不気味です。いただく、ではなく借り受けるとのこと。盗みに成功した場合、3日後の朝に返すと、予告状にございました。音に聞く怪盗でありますが、泥棒が盗んだものを返すと宣言するのは、これまた奇妙にございますな」

「まあ、ヤツにはヤツの腹積もりがあるのだろう。とはいえ、泥棒ごときに盗まれてしまっては、我々のメンツに泥を塗られるようなものだ。必ずや捕らえよ」

「御意に、ございます」

蝶ネクタイの男は、会長に深々と頭を下げる。

会長は、もの惜しげに、再びこの絵を眺め始める。

「私はね、思うのだよ。今回の予告状の一件にしてもそうだが、もしかしたら明日。この絵を眺めることができなくなってしまうのではないかと」

「我々の警備は厳重にございます。盗まれることはない、と断言できましょう」

「そうではない。私は明日、死ぬかもしれない。明日、世界が滅んでしまうかもしれない。この絵を見ていると、ふと、そう思うのだよ」

「なるほど・・・」

「ところで、キミは若いな。いつからここで働いている」

「ちょうど、先月からでございます」

「ほう?では芸術の知識はあるのか?」

「そこそこには・・・しかし、私は若輩の身。まだまだあなた様にはかないません」

「ふん、ならば一つ問題を出そう。ここで働くものなら、即答できる簡単な問題だ。この絵を見たまえ。この絵は、どこの絵の具が使われている?」

「それは・・・申し訳ありません・・・私には・・・」

「ふん」

「ただ、この屋台の部分に描かれているこのワインのことについてなら、ある程度はわかります」

「ほう、答えてみたまえ」

「このワインの赤は、この国の北、マール地方の原産物、ドゥーロローセという硬い鉱石を砕いた顔料を用いています。この鉱石は希少であり、そのままカット加工を施して、宝飾品としての価値も高いとか。それをわざわざ取り寄せ、用いていることから、この国に対するリスペクトが、このワインの色合いから感じられます。このことから推理して、この絵は、この国の各地方で取れる鉱石や植物から作られる顔料を用いて、描かれていると推察します」

「ほう、まんざら馬鹿ではないらしい。その通りだ。だが、それだけではないのだよ」

「と、申しますと?」

「ふん、長い話になる。どうだ。そこの休憩用のソファにでも座って。コーヒーでも飲みながらというのは」

「かしこまりました。今、コーヒーをお持ちしますね」

「頼んだ」



蝶ネクタイの男が、コーヒーを皿にのせて二つ、持ってくる。

「どうぞ、ブラックコーヒーです。お口に合えばよろしいのですが」

「悪いな。はぁ・・・最近うるさい連中の相手をしていて眠れていないんだ。助かるよ」

「ありがとうございます」

会長はコーヒーを啜ると、それを机に戻してゆっくりと語り始める。

「さて、私がまだ一つのギルドの長だったころだ。今じゃ会長なんて言われているが、かつて小さいギルドの長だった。だいたい5年前ぐらいのことだな」

「5年前。ちょうどこの国が未曽有の大不況だったころ・・・ですね」

「ああ。海と陸の貿易を主要な経済としている我々の国家としては、経済が止まるぐらいの危機というのは、国が亡ぶよりもひどい苦境だった。原因は、知っているか?」

「ええ、当時の主力産業であった、鉱山資源の暴落、それから海産資源が不作だった、ですよね」

「その通りだ。よく勉強しているな。ギルド連合で国家として看板を掲げている我々としては、そうした貿易資源が売れない、というのは最悪の状況ということだ」

「一応、表の歴史としては、あなたがこの国の経済を持ち直した・・・ということになっておりますね」

「ふん。それは利益をあげることに余念のないクズどもが作った偽りの話だ。私など何もしていない。ただ、金の流れを調整していただけだ。本当の英雄は、あの絵を描いたお人さ」

「なるほど・・・詳しくお聞かせ願いますか?」

「いいだろう」

男は手を組むと、前のめりになって、語る。

「あの時は、本当にひどい年だった。それぞれの店は、何を並べても全く売れない。経済の潤いがなかったのだよ。船に山となるように宝石を積んだとしても、数少ない魚を、木箱に隙間なく敷き詰めたとしても。宝石は売れず、魚は腐るばかり。売れるものがないから、行商人の足並みも遠のいてしまった。売れたのは我が国の誇りでもあるワインぐらいなものだ。確かに、ワインは飛ぶように売れた。当然だ。ほかに売るものがなかったからな。とはいえ、ワインだけでは国の経済を回せるはずがない。金はあっても、買えるものは少ないし、売るものはさらに少ない。加えて国庫はみるみると減っていくのだ。当時は面白い格言があってな。ワインのみが真実である。なんてな。投資家たちはみんなワインを買いあさったのさ。ワイン市場はガタガタ。不況で安く買いたたかれるから、金持ちしか儲からないような世の中だった。そんな中だった。現れたのだよ。救世主が」

「それが、あの絵の作者。ですか?」

「ああ、その通りだ。彼女は絵具と筆だけ持って、この国の港に現れた。二十歳はたちといったところだろうな。年齢的に。彼女は、この国の風景を描きに来たそうだが、あいにく船賃で文無しでな。絵をあげるからキャンパスと、ご飯と寝床だけ貸してくれないかと、広場をさまよっていたよ。当然不況の経済国家だ。誰も、そうだれ一人として部屋を貸し与える者なんていなかった。自分の今日の飯すら危ういのに、当時としては、どこの馬の骨ともわからん画家を家に入れて、絵具で家を汚してもいいなんていう者は、いなかった」

「その彼女を、あなたは迎え入れたのですね?」

「そうだ」

「なぜですか?」

「さぁて。今でもわからんよ。ただ、彼女の目を見て、何となくだが、この子には投資の価値があると思った。それに、汚れた女性など、見るに耐えなかったからな。私は彼女に、私のギルドの一室と、古い小屋をアトリエとして貸し与えた。ただ、私のところも当時は存続が危うくてな。3か月以内に利益をあげられなければ、担保として描いた絵の利益のすべてを支払ってもらい、追い出すとね」

「ふむ・・・」

「彼女は、迎え入れた翌日から、各地を徒歩で歩いては、夜にアトリエに戻り、絵を描いていったよ。驚くべきところは、彼女の絵を仕上げる速度だ。当時の私も驚いたよ。油絵具を塗ったかと思えば、それが乾かぬうちに別の色を塗る。本人曰く、これによって美しいグラデーションがでるとか・・・気でも狂ったのかと思ったよ。やはり投資したのは間違いだったのかとさえ思った。しかしだ。彼女の絵は完ぺきだった。わが国のどの派閥にも当てはまらないそのタッチは、新鮮で、新しかった」

「だが、うまくはいかなかった」

「そうだ。彼女のその量産性と、伝統を重んじるわが国家の文化がいけなかったのだろう。なかなか買い手がつかなくてな。2か月がたつ頃には、最初の威勢のよさはどこへやら。顔に焦りを浮かべて、絵も暗い景色のものが増えていった。そんな時だ。彼女に幸運の女神がほほ笑んだのか、はたまた、彼女の持ち前の明るさが起こした必然か。逆転の時が訪れた」

「その、逆転とは?」

「彼女の絵を仕上げる速度が功を奏したのか。ある実業家から肖像画の注文が来てな。それを彼女に投げたのだ。彼女は、それまでの画法とは別に、わが国の伝統的な画法を用いて、その肖像画の依頼を成し遂げた。その絵は非常に写実的であったのがよかったのか、その実業家は気をよくしてな。国の滞在中はパトロンになるといったのだ。加えて、当時は安値でたたき売りされていた彼女の絵を、大量に買い込んでいったよ。彼女は、利益をあげたのだ。芸術などみじんも興味がないつまらん男であるが、先見の明と商才だけは目を見張るほど優れた男だ。安い投資のつもりで買っていったのだろう。それが彼女の運命を変えたのだ。すでに彼女は、ほかの諸国で実績のある画家だと判明したのだ。安く買いたたいたつもりが、飛ぶように行商の間で売れてな。彼女の描く絵はどんどん売れていったよ。彼女に問題があったとすれば、その時だった。当然彼女には、絵の注文が来たが、注文を受けるかどうかは、彼女の興味次第だったし、注文通りに描いた絵は、あまり値が付かなかった。あくまで彼女が、自由に描いた絵だけが売れていった」

「すごい・・・出世ですね」

「ああ。だがこういう話には、当然無粋な輩が、まるで肉にたかるハエのように寄ってくる。彼女の身柄を金で買おうとする者。贋作がんさくを作り偽物を売る者。中でもたちが悪いものでは、彼女絵の市場を独占して、利益を集中させようとする者もいたな。だが、私は彼女を売らなかった。当然彼女からは、事前に約束した利益以上を受け取らなかった。それでも、彼女と我がギルドは、瞬く間に金持ちになっていった。そんなときに、私は彼女に話を持ち掛けた。絵画教室を開かないか、とね」

「彼女は、受け入れたんですか?」

「もちろんだ。ただし、その時彼女は条件を突き付けてきた」

「その条件とは?」

「意外なものだったよ。私はその条件を聞いて、やはり気でも狂っているのではないか、と思った。その条件とは、ひとつ、開催の告知を、なるべく手の届く範囲全域にすること。二つ、必要な画材は、資金提供は自分がするから、確保はギルドがすること。三つ目、軽食を用意しておくこと。もちろん無料でそれを食べられること。最後の四つ目は、絵画教室を開くならば、参加料など一切料金を取らないことかつ、そこで得た技法を用いて絵画教室などで人に伝える場合、金をとってはいけないとね。驚いたよ。そこで金を徴収すれば、さらに利益は増えるというのに、彼女はそれをしなかった。もちろん私は反論したよ。気でも狂ったのか。おかしいと。しかし、彼女は、金をとるなら私はやらないと突っぱねたのだ。さすがにその時は、私は頭に血が上ったよ。だが、彼女に救われた身、彼女の意見に逆らえるものは、一人もいなかった。当然私は理由を聞いた。なぜかと。彼女はこう答えた。一人で絵を描いてもつまらない。みんなに絵を教えるのは、みんなで絵を描いたほうが、楽しいからと答えた。当時は理解できなかった。金こそが絶対。金があるから、すべてが成り立つのだと思っていたからだ。全く利益にならないことなんて、やる価値がないと思っていた。だが彼女は、当時の私としては、信じがたい行動に出た。なんと彼女は、自分で築いた金の山をあっさりと崩して、すべての画材をそろえてしまったのだ。さすがにこれには私も絶句したよ。とはいえそれにも難儀したものだ。絵画教室を開くにも、場所と道具が必要だ。だが、それを用意するのも大変だった。なんせ物流が止まっているからな。外国産の画材は、高くてとても大量の人数をまかないきれない。資金がいくらあっても足りなかった。私はない頭をひねって、朝から晩まで考えた。その時、不幸中の幸いとでいうべきか。一つ、アイディアが浮かんだ」

「その・・・アイディアとは?」

「鉱物だよ。話のはじめに君が言っただろう?鉱物の価格が暴落していたと。以前は希少な鉱石が、その時は安く買えたのだよ。私は、彼女にそう進言し、彼女とともに鉱物を買いあさっては砕き、顔料を作らせた。いい出来とは言えなかったが、少ない投資で、大量の絵の具を得ることができた。とはいえ、最初は30人規模が限界だった。それでも、彼女は絵画教室を開いた。開催当日、ひやひやしたものだよ。これは、一切の利益を生まない。こんなことになんの意味があるのかと。加えて言えば、彼女は開催の告知を、特に貧乏人には手厚くと指示をしていた。当日の会場は、ものすごい盛況だった。予定していた30人の規模は、はるかに超過していた。なんせ一般市民は食うのにすら困っていたのだ。そんな時代、ただで軽食が食べられるというのだから、それを目当てに人は集まった。騒然としていたよ。会場を視察していた私は、食べ物の奪い合いになるかと思っていた。だが、彼女の持ち前の明るさと若さがそうさせたのだろう。彼女の言葉にみな耳を傾け、軽食はなるべく全員に、公平に分け与えられるようになった。その場には、金持ち連中も集まっていたが、見て呆れていたのは今でも覚えている。やはり、私と同じ思考だったのだろう。だが、彼女の技術が欲しいのは事実。しぶしぶ参加していたものさ」

「それは・・・すごいですね・・・」

「すごいなんてものじゃなかった。彼女のその行動は、私の予想もしない方向に進んだ。彼女のその絵画教室が、慈善活動ととらえられていたのだろう。国民の世論は彼女に傾いていった。彼女の作品は、以前にもまして飛ぶように売れ、その値もより高くなった。それに応じて、絵画教室の規模も、50人、100人と規模が大きくなっていった。1000人を超えそうになった時には、特に技法の習得が早いものが、率先してその技法を伝えていった。徐々に徐々にではあったが、金持ちとそうでない者たちの溝が、少しずつ、しかし確実に埋まっていった。普段憎み合う者たちが、絵画教室を通してその溝が埋まっていき、絵画に興味のない金持ちたちも、いち早く売れる絵を描ける人材を確保しようと押しかけ、その日のうちに画家としての仕事が決まる者も多かったほどだ」

「だが、また一波乱が起きた。ですよね?」

「察しがいいな。そうした市場の流れ、世論の流れに乗れなかった者たち。いわゆる集権派の金持ちの屑どもと、それまで伝統的な画法を重んじていたやつらが、この活動に異を唱えたのだ」

「なるほど・・・」

「しかもそいつらは、わが国に伝わる宗教画を手掛けていた。彼女の絵を異端とし、即刻取りやめるようにと活動を始めた。それはもうひどいものだった。彼女の命を狙うこともあったし、彼女の画法を修めた者を、異端として牢に監禁したり、絵を焼いたりなどだ。一度火がともり始めた絵画の波は、消えそうになった」

「だが乗り越えてしまった」

「ああ。世の中で一番強い力は、カネの力と集団の力とはよく言ったものだ。それまで彼女の絵で利益をあげていた金持ちどもは、彼女の絵が絶たれてしまっては、元の不況に逆戻りしてしまうことを、痛烈に理解していたのだ。その時、名付けられた彼女の画法、キリカ派を保護しようと、芸術ギルドを設立。キリカ派画法の画家を多く、資産を問わず保護し、住居を与える代わりに利益の一部を納めよというギルドだ。当然我々のギルドもそこに参加した。戦争の始まりだよ。もちろん、剣とか魔法とかで戦う戦争ではない。どちらがより儲けられるかという商業戦だ。こちらの頭目はキリカ本人。彼女は戦うことを快く思ってはいなかったが、これに勝たねば、国から出ることすらできないという状況でな。しぶしぶ彼女にも協力してもらった。こちらの作戦はこうだ。敵が何をしてきても、反撃をしない。ひたすら絵を描き続けることのみだ。最初はひどいものだったよ。向こうはなりふり構わずだから、キリカ派の絵をこき下ろしにこき下ろし、評価を下げようと躍起になっていたし、アトリエを破壊したり、絵具の物流を権力で止めたり、ひどいものだった。だが、世の中因果応報。そんな活動が世に知られれば、どうなるかは想像に難くない。瞬く間に屑どもの市場は縮小していき、その空いた分をこちらがいただいた形になった。我々は勝利したのだ」

「なるほど・・・」

「しかし、悲劇は終わらなかった。彼女は、敵対した彼らすらも、自らの画法に取り込もうとしたのだ。自分の足で彼らの下に赴き、頭を下げてまで誘おうとした。だが、彼らはそれを受け入れようとせず、多くは国を離れた。中には宗教に殉じて自殺したものもいた。彼女にとっては、これが最も大きな事件だったかもしれない。間接的に、彼らを殺した。そう思っていたかもしれない」

「ふむ・・・」

「彼女は優しすぎたのだよ。多くの人間が、彼女を慰めようとした。だが、それでも彼女は気を落としたままだった。彼女曰く、私の絵は、なんて無力なのだろうといっていたのを、今でも覚えている。私は、彼女の様子が、見るに耐えられなかった。だから私は、彼女にこう言い放った。お前は、絵を描かなければならない。勝利したのだから、彼らの分まで絵を描かねばならない。避けられぬ戦いに勝ったからこそ、お前はお前らしくいなければならないと。彼女は泣いていたよ。その言葉を聞いて。だが、私にはこういうことしかできなかった。今思うとひどいものだよ。だが、彼女を慰めて、何か利益はあっただろうか。彼女自身に、何か変化はあっただろうか。そう考えると、私は彼女がうなだれているのが、見るに耐えなかったのだ。彼女が立ち直るまで、長い時間がかかったよ。だが、彼女は立ち直った。そして、集まるキリカ派の者たちにこう言い放ったのだ。描こう。みんなのために。去っていった人たちのために。私たちのために。とね」

「ふむ・・・」

「そうしてキリカ派は絵を描き始めた。その量産性は、彼女から技術を習った者たちでさえ、劣化することなく、親キリカ派の金持ちたちも、その絵をどんどんと売った。瞬く間に国の物流は、以前よりもより良くなり、繁栄を極めた。絵もさることながら、絵具も飛ぶように売れ、その絵の具の原料の鉱石も、以前のような利益を取り戻し、鉱山にも活気が戻った。そんな中。彼女は一人、アトリエにこもった。普段恐ろしい速度で絵を量産する彼女が、アトリエから全く出てこなかったのだ。出てくるときといえば、食事をとるときか、絵具や筆の洗浄用の油を補充するときか、たまに街を散歩するときぐらいだ。2か月ののち、彼女はようやく、アトリエから出てきた。発表したい絵があると」

「それが・・・」

「そう、それがあの絵だ。題名は笑顔。よく覚えておきたまえ。あの絵は、リスペクトが込められているとキミは言ったな。それは、絵具だけではない。彼女があの絵を仕上げるのに、時間がかかった理由が重要なのだ」

「その理由とは・・・?」

「彼女は、懐古的な、この国の伝統的な時間のかかる画法を用いて、あの絵を一人で完成させたのだ。それは、ただ単純に、自分に協力してくれた人たちへの感謝だけではない。自分が打ち倒さざるを得なかった者たちも、自分についてきた者たちも、ともに笑って暮らせるようにという願いが込められているのだ。それが、あの絵なのだ」

「なるほど・・・」

「後の顛末は、まあわかるだろう?彼女の絵と、キリカ派の利益の一部をもってこの美術館が建てられた。彼女への尊敬を込めて、一番目立つところに、あの絵を飾ったのだ」

「なるほど・・・興味深い・・・ところで、その彼女は、今はどこに?」

「さあ。私にはわからない。あの絵を書いてしばらくしてから、貿易船に乗ってどこかの国へ行ってしまった。この国に残ってほしいと、頭まで下げたが、私はお酒が飲めないからと、行ってしまったよ」

「なるほど・・・」

「さてと」

会長はコーヒーを飲み干すと、席を立つ。

「話し込んでいたらだいぶ遅くなってしまった。そろそろ閉館時間だろう。私は帰るよ。時間をとらせてしまったな」

「いえ、貴重なお話をしていただき、ありがとうございました」

蝶ネクタイの男は、深々と礼をする。

「出口までお見送りいたします」

「いや、結構。あの絵をしまうのだろう?君は君のに取り掛かりたまえ。盗まれないように十分に気を付けることだ。幸運を祈る」

「ありがとうございます」

会長はソファから離れると、出入り口のほうへと歩いていく。

「また来るよ」

会長は足を止めて、少し振り向くと、蝶ネクタイの男に向かって一言放ち、美術館を出ていく。

会長が見えなくなると、蝶ネクタイの男は頭をあげる。

「全く。どうしてああいう大物相手には、ボクの変装が通じないんだ」

蝶ネクタイの男は、笑顔という絵に近づく。

「ふふふ、しかしこの怪盗シモン。抜かりはない。ほかの者には、まさか金庫室にしまう前に盗むなど、考えてすらいない。さっさとこの絵を盗んで、ずらかりますか」

シモンは丁寧に額から絵を取り外すと、素早く丸めて、天窓に袖から飛び出したひもを伸ばす。ひもが天窓に仕掛けられたフックにかかると、ひもが袖の中へと吸い込まれていき、シモンの細いからだが宙に浮く。

「ちゃんと3日したら返すぜ。会長さん」

シモンは、天窓に到達すると、その天窓を開けて、町の中へと消えていった。



会長は夜空の下に賑わう広場を、コートのポケットに手を入れて歩く。

「ふふふ。間抜けな怪盗め。美術館の人員の中でも、絵具の原料をこたえられる奴なんて、片手で数えられるぐらいしかいない。新人がそんな問題に答えられるわけがないだろう」

会長は、足を止めると、空を仰ぐ。

「あの絵はこの小さな国の大きな希望だ・・・皆の生きる希望だ。あの絵は、皆の命だ。必ず無傷で返せよ。怪盗め」

会長は、家々の屋根を駆ける怪盗を見送ると、再び、歩き始めた。

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