第20話 そぼ降る雨



 結びの結界内は、長い間、人も獣も入れなかった閉鎖されていた地だ。


 だから、登山道や、獣道のようなものも存在しない。


 山肌にはシダがい茂り、その上を落ち葉が隠している。


 その中をちた大木をまたぎ、木の幹をつかみながらそうは強引に登って行った。


 悪霊達が結びの結界の裂け目から出て行ったとはいえ、まだまだ多く存在していて、辺りに漂っている。


 しかしそうは悪霊を無視して、息を荒くしたまま道なき道を頂上に向かって急いだ。


 苦労の末、頂上付近に差し当たった時、やっとその存在を肉眼でとらえることが出来た。


 荒い息を落ち着かせ、手の甲で汗をぬぐい、それを見る。


 体長は四メートルは越える、大柄な身体。腰布は巻かれているがその他は裸で、赤黒い肌には筋肉が盛り上がり、額に大きな角を二本持つ。それが囚人しゅうじんのように、両腕を体ごと結びの結界で縛ばられていた。


 蒼は思い出したように頷く。


 たしか、奈良の中腹部辺りの伝承でんしょうに出てくる存在だ。


「なるほど………霧ヶ峰の鬼か」


『はぁ、はぁ、霧ヶ峰の鬼って何?』


 蒼の独り言に、イヤホンマイクから砂那さなが問いかける。


「暴れ神の正体だ。鬼の雪隠せっちんって聞いたことが有るか?」


『はぁ、はぁ、明日香村あすかむらの………はぁ、はぁ、鬼のトイレと言われる遺構いこうね』


 砂那は今、竹串でお札を刺しては走るを繰り返している最中だ。だからの息が上がっている。


「そうだ。その雪隠せっちんを使っていたのが、霧に紛れて人を喰らう、霧ヶ峰に住む鬼だ」


『はぁ、はぁ、人喰い鬼、それが正体………』


「あまり関わりたくない存在だな」


 電話越しだが、蒼の台詞には幾分いくぶんの余裕が感じられる。しかし、強弱は有るにしろ、鬼と言う名が付いているなら、抑えるにはそれなりの霊力が必要だろう。


『蒼、なんとかなりそう?』


「囲いが発動するまでは何とか持たすさ。それより、そっちはどうだ?」


『………こっちは順調よ。これなら、予定より早く囲えるわ』


 彼は鬼を結んでいる、結びをみる。


 山に張られた結びの結界が、頂上あたりの頂点から下に降りて来て、その鬼自体をグルグル巻きにしている。しかし、鬼は結びが弱くなってきたのが解るのか、力を入れたように腕の筋肉を盛り上がらせ、結びから抜け出そうともがく。その途端に弱くなってきた何本かの結びの糸は切れ、徐々に結びの本数が減っていく。


「頼む! こっちの結びはもう持ちそうにない」


 鬼はその声で蒼の存在に気付くと、楽しそうに、下顎から生えた牙を覗かせ、口元をゆるめる。


 長い間、結ばれていて、要約お目見えした最初の獲物に喜んでいるのだろう。


 蒼は鬼の前にやってくると、右手を確かめるように、手のひらを開いたり閉じたりを繰り返した。それから簡単な感想を述べる。


「これは、式守神にするには程遠い存在だな」


 翠が考えたのか、篠田が出し抜いたのか、この鬼を式守神にするにはてきしていない。伝承でんしょうから考えて、この鬼は人喰い鬼だからだ。


 この鬼は、呪いや霊障を起こしたり、取り憑いてどうこうする存在ではなく、霧に紛れて人を捕まえ、その人を喰い殺してしまうそんな存在だ。


 ただ、喰うと言っても、肉体を持っていないこの鬼には、物理的に人を食べ消化することは出来ない。


 鬼に食べられる行動により、肉体に変化はないが、その部分の魂は削がれてしまう。それは喰われたと同じく死を意味していて、少しの油断も許されない。


 蒼が目の前に現れることにより、鬼はさらに身体をくねらせ、力任せに前のめりになる。その瞬間、音もなく、ゆっくりと結びの糸は切れ失せ、ついに鬼は自由になった。


 鬼は一度、動くことを確かめるように腕を大きく回すと、口を開け蒼を見る。


 それは、腹を空かせて獲物を喰らう前にも見えるし、自分の近くに寄ってきた間抜けな餌に対して、笑ったようにも見えた。


「――――霧ヶ峰の鬼よ、自由になったお前は何を望む?」


 蒼は一言そう問いかけると、その鬼と対峙したまま、右腕の袖を二の腕の半ば辺りまで上げ、そして左手で右腕に触れる。その時、彼の頬に一粒の雨があたった。


 雨音が次第しだいに、木々の葉にあたり軽快な音をかもし出していく。


 降り出した雨を合図に、鬼は二歩ほどで一気に蒼に近寄ると、その蒼の身体の何倍もある腕を、彼を捕まえるために振り下ろした。





 そぼ降る雨が砂那のコートを濡らす。それによってコートには重みが出てくるが、彼女はそんな事もお構いなしに走っていく。


 目の前の飛び出している枝を、身体をそらして避け、息を粗立あらだてながら更にスピードを上げた。


 ついに、あのすばらしかった結びは消え失せ、悪霊が一斉いっせいに出ていく。


 繋がれたイヤホンマイクの向こう側では、蒼の荒くなった息使いが聞こえてくる。どうやら戦闘が始まったらしい。


 霊体の攻撃なので、肉体を破壊するような攻撃は出来ないだろうが、神様や、砂那の式守神といった力の強い霊なら、壊滅師のような、相手の魂を傷つける攻撃が出来る。それは、霊力が高い鬼も同じなはずだ。


 だから、一歩でも間違えれば直ぐに生死に関わる。


 彼の言った使いたくない手でどこまで持つのか。


 今の所は、蒼は上手くかわしているのか焦りの声は聞こえてこない。しかし、砂那は慌てていた。


 いくら蒼が、砂那の知らない魔法であれ、技であれを持っていても、相手は霊力の強い人喰い鬼だ。彼一人で抑えるのにも限界がある。


 砂那の方は、順調に五十囲いの準備を進めていた。こぐろと二手に分かれて一人二十五本。こぐろの方が足は早いので、事実上、砂那は二十本程になるだろう。


 砂那は意識を集中して、こぐろの見ている風景を見た。


 走るときは視界が低いので、仔猫の姿をとっているのだろう。そしてお札の串を刺すときは、視界が高くなるので少女の姿に戻っているようだ。それを繰り返し、砂那が予想したよりも早く準備が進んでいる。


 こぐろは阿紀神社を通り越し、半分を超えていた。後の残りのお札は二人合わせて八枚となり、時間も十三分しか経っていない。


 このペースで行くと、蒼を早く助けることが出来る。それまで彼が持つかが勝負だ。


 砂那は焦りで顔をゆがませてから、意識を自分側に戻そうとしたとき、こぐろの視界の片隅に人影を確認した。


 それを見た瞬間、半ば予感の様に、砂那は声を上げる。


「避けて!!」


 その声に反応して、こぐろが素早く横跳びする。途端に、こぐろが走ろうとしていたルートに、何かが音を立てて通り過ぎた。


『?!』


 イヤホンマイク越しの砂那の声に反応して、蒼も霧ヶ峰の鬼を相手しながらこぐろに意識を持っていく。しかし、戦闘の最中でうまく意識を持って行けず、飛び飛びの様な途切れた映像になる。


 こぐろは仔猫の姿で、くるっと空中で一回転すると、頭を下げた攻撃態勢でその者を見た。


 ノーネクタイでダークブルーのジャケットを着ている男。


 髪は肩までの金髪で後ろで一つに束ねていて、つばの付いた茶色のハットを被っている。顎元あごもとには無精髭ぶしょうひげたずさえ、高身長でブルーアイの、四十歳ほどの白人の男性だった。


 男は力を抜いた自然体で立っている。


「………こぐろ、逃げて!」


 危険を感じた砂那は、直ぐ様にそう判断する。


 サブマスターの砂那からの指示だ。こぐろは迷わずその指示に従がった。その男に注意を向けながら、草むらに逃げ込もうとする。


 それを阻止するように、その外人の男は、人差し指と中指をまっすぐ伸ばすと、頭上まであげ、こぐろに向かって振り下ろした。


 それだけの行動でこぐろは吹っ飛び、後ろの木に叩きつけられる。


「こぐろ!」


 砂那は五十囲いの準備を中断して、こぐろの元に駆けつけるために走った。


『砂那、待て! 行くな!』


 急ぎ駆けようとする砂那を蒼が止める。


 突然に現れ、攻撃をしてきた者だ。その相手の目的も攻撃手段も何も解っていない。今、砂那が行けばこぐろの二の舞になりかねない。


 しかし、砂那は聞かなかった。


「けど、こぐろが危ない!」


 たとえ使い魔といえど、こぐろが危険な状態だと解るし、霧ヶ峰の鬼を相手している蒼が助けに行くことは出来ない。ならば助けられるのは自分だけだ。


『くっ、解っているが………とっ、はぁはぁ………』


 霧ヶ峰の鬼の攻撃が激しくなったのか、蒼の返答が途切れがちになる。


「蒼は鬼に集中して! こぐろはわたしが助ける」


 砂那はそれだけを伝えると、こぐろの元に急ぐ。


 走りながらコートからダガーを抜き、そのダガーにお札を刺しながら木を避け、草むらを抜け、開けた場所に出た。そこで、目に飛び込んで来たのは、人差し指と中指をこぐろに向かって振り下ろそうとしてる外人の男だった。


 砂那は躊躇ちゅうちょなく、持っていたダガーを男に向かって投げつける。


 大振りなダガーだ、当たればただでは済まない。


 男はその攻撃を、余裕をもって簡単に避けたが、腕のほうは振り下ろせなかったようだ。


 砂那はこぐろと男の間に立ちはだり、新しくダガーを握り、刃先を彼に向けた。そして、怒りで顔をゆがませたまま啖呵たんかを切る。


「あなた、これは何の真似? この子はわたしの使い魔よ。事によっちゃ許さないわよ!」


 砂那はこの外人の男が使っている技が、何だか解らなかったが、直感で同業者の祓い屋ではなく、蒼達の分類に入る魔法使いだと感づいた。だからあえてこぐろを使い魔と言ったのだ。


 その外人に日本語が通じたのかどうか解らない。男はしばらく無言で砂那を見ていた。


 弱い雨が辺りを濡らしていく。


 草木を叩く雨音が一定のリズムを叩きだし、そして、その男が動いた。


 再び人差し指と中指を上に向け振り下した。それだけで何らかの力が砂那を襲う。


 彼女は横飛びをしてそれを避けながら、外人にダガーを投げつけた。しかし、距離が遠いことから男は砂那のダガーを簡単にかわす。


 砂那は焦っているのか、それでも、さらに横跳びしながら、男に三度ダガーを投げつけた。しかし、何度投げても男はすべて簡単にかわし、口元をゆるめる。


 完全に軌道を読まれているのだ。


 ダガーは男に当たらず空を切り、ただ、地面に刺さるだけ。


 砂那は再びダガーを構えて、そして、笑った。


 その様子に、眉をしかめた男に対して、砂那は左手で素早く五芒星ごぼうせいを描く。


「残念だったわね。あなたに構ってる時間はないの」


 男を囲うように、地面に五芒星ごぼうせいが現れ、淡い光を放った。


 砂那は外人を囲ったのだ。


 彼女は本来の目的を忘れていなかった。


 砂那がするのは五十囲いを完成させ、暴れ神を祓うこと。こんな男に構っている時間はない。


 砂那は囲った男を背に、こぐろの元に走りよる。こぐろはぐったりとしていたが、意識はあるようすだった。


 砂那は胸を撫で下ろし、こぐろを抱きかかえようとする。そこを力強い衝撃で後ろから吹っ飛ばされた。


 背中を強打した一撃だ。


 砂那は受け身も取れず、草の上を横向きに転がり、木の根元で止まると、痛む身体の上半身だけを素早くあげて男を見る。


 転がった拍子に、オーバーニーソックスが破れ、ところどころ出来た擦り傷に血がにじむ。口の中も噛み切ってしまったのか、口の隅からは血が流れていた。


 力を抜いていたところに不意打ちのような一撃だ。体の芯が痛み、力を吸い取られたように、足に力が入らない。


 男は囲われた場所から一歩も動くことなく、人差し指と中指を振り下した格好で砂那を見ていた。


「なんで………囲いを切れるの?」


 砂那は戸惑ったように呟いた。


 そう、男の攻撃は、囲いを切断してそのまま砂那まで届いたのである。


 蒼は寝っ転がったこぐろから、砂那の様子を見て、自分の読みの甘さを痛感していた。


 篠田は囲い師としては、他の囲い師の追及を許さないような素晴らしい囲いを張る。もちろん神様を抑えたり、式守神に憑いてもらったりと、囲い師としての腕前も高いだろう。しかし、その他の調査や、囲いを切る、九字切りに関しては他の囲い師と変わりがない。


 だから、砂那の張った十六囲いを『切るのに苦労させられた』と言ったのは嘘ではないのだ。


 そう、彼にはこの山を覆う素晴らしい結びを切るほどの腕前はないはずだ。ならば切ったものが他にいる。それが、その外人の男なら、砂那たち囲い師とは非常に相性が悪い。


『砂那、そいつの技の正体は九字切りだ』


「九字切り?!」


 砂那は驚き言葉を詰まらせる。


 九字切りとは、邪気や霊体など祓う方法で、熟練者は囲いや結びの結界を切ることができる。もちろん肉体も霊体と繋がっているので、生きた者が強力な九字切りを受けると、跳ね飛ばされ疲労のような状態におちいる。最悪の場合は死にいたるだろう。


 こぐろのような使い魔はもっと悪く、肉体はあるが生物の枠からは外れた存在だ。どちらかと言えば、霊が生物に乗り移る憑き物に近い。そのこぐろに対して、九字切りは極めて有効な攻撃で、式守神しきしゅがみに対しても同じことだ。


 囲いも切られる、式守神しきしゅがみも駄目だとなると、囲い師は攻撃手段を失う。彼女にとってまさしく、最悪な相手だ。


「これが本当に九字切りなの?」


 だが、これが九字切りとすれば、砂那には一つ解らないことがあった。


 九字切りは発動するとき、神仏を表す九種類の印契いんそうりんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜんもちいらなければいけない。


 その方法は指や手を使って、印契いんそうを表す形を九個作るか、人差し指と中指で九回、十字を書くようにくうを切らないと発動しないのだ。


 なのに、この外人は一度くうを切っただけで、九字切りを発動させた。


『方法は解らない。でも、結果を見れば九字切りと同じだ。砂那、とにかくそこから逃げろ!』


「駄目! こぐろがいる!」


『だが、相手が悪いぞ、一旦退いったんひけ!』


 イヤホンマイク越しの蒼の声に、砂那は見えていないにも関わらず首を振った。


 砂那は立ち上がると、ダガーにお札を刺し、口元の血を腕に巻かれた包帯でぬぐい、自分を見た。


 ロングコートは泥だらけで、オーバーニーソックスは所々破れ、血がにじんでいる。雨は強くもなく、憂鬱にしとしとと降っている。髪の毛が肌に張り付いて、気分は最悪な状態で、何もかもが、まったくもって――――


情緒じょうちょがない!」


 砂那はきつい釣り目で男を睨みつけると、付け加えた。


「だけど、今からあなたを倒す! 覚悟してね」


 砂那は雨に濡れた重いコートをなびかせ、男に向かって駆け出した。

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