幸せみたいなもの




誰も気がついていないと思う。


俺ってヤツのことを。


優しい方だと思うし、そんな怒ることもない。

けど、本当のことだけを言うわけでもない。


そんな正直じゃない、むしろ、


俺は嘘つきだ。










「ねぇ、ほっしー。そんな毎日来ちゃったら飽きるよ?やだよ、飽きないでね?」


色とりどりのショーケースの中から、今日は甘いチョコレートケーキを選んだ俺に、大庭が困ったように笑った。


中学からの幼馴染だった彼は、製菓学校を出た後、何年かどっかの店で修行してきたらしく、一年ほど前にこの街に店を出した。

しかも俺の勤める中学と、家の間でちょうどいい感じに寄り道できてしまうところに。


最初は開店祝いのつもりで、店に寄っていたのだけれど、週替わりで5種くらい出すから、平日1日1個ずつ順番に買ってくようになった。


同級生と毎日顔を合わせる、という懐かしさも手伝って、あっという間にそれは俺の日課になった。


「今更いいじゃん。食べたいんだもん。」

「嬉しいけど、そろそろ気を付けないと。」

「へ?」


毎日毎日、小さな紙の箱に入れてくれるケーキ。

大庭が描いた下手くそすぎて、もはやデザイン化したイラストが描かれている。

黒い点々が、丸の中にポツポツと描いてある。

なんの絵なの?と聞いたことはない。

でも、地元の小学生が「鼻くそみてぇ」と笑ってたのは知ってるけど言ってない。


「へ?って!!もう俺らもいい年なんだからね?そんな毎日毎日ケーキ食べてたら、すぐ太るんだからね。やばいよーどうすんの??」

「ケーキ屋が、客にケーキ食うなって言ってどうすんの?」

「そうだけどさぁ…。」


しぶしぶ、と言った感じで手渡された箱。

それをもって、今日も美術室に向かう。


夏休みに入ってから、昼前に大庭の店に寄ってケーキを買って美術室に来るのが、ルーティンになっていた。


学校は休み。でも、教師の仕事は細々とある。

それに一応顧問をしている美術部がある。午前中だけの活動とはいえ、その終わりごろに顔を出さねばならないからだ。

元々そんなにいない部員の中で、夏休みまで学校に来て絵を描こうという生徒はほとんどいない。


それでも、「活動」はしなければならないものだから、平日のみ開けていた。




美術室には日光は届かない。

デッサンの時に、時間ごとに影の位置が変わるといけないからだ。


一番奥の、一番端っこでひっそりとしている。

石膏像は、みんな何をそんなに憂うのかというほどに下を向き、ロッカーに詰め込まれた画材もごちゃごちゃとしていて、どこもキチンとしたものがない。

意気揚々とアイーダが鳴り響きそうな、そんなのとは無縁なこの部屋が、俺は教師になる前から好きだった。


生徒のときから。

もうなんだか、ずっとここにいる。



「あれ?安藤、お前ひとり?」


古くなって重い引き戸を開けたら、女子生徒が一人キャンパスを前にしていた。

少し開いた窓から、熱風が吹き込んでくる暑さだというのに、汗の一つもかかずに丸椅子に背筋を伸ばして、絵筆をもったままこちらに振り向いた。


「あ、センセーかぁ。びっくりするじゃん。」

「驚いたようには見えなかったけど?」

「十分驚いて、こんな事になってます。」


少しふくれて指差したキャンパスをみると、ひょろっとよくわからん線が横に伸びていた。


思わず笑ってしまったけど、申し訳ない気がしてしまった。

教卓にケーキの箱を置いて、安藤の後ろに立つと、持ったままの絵筆を彼女の手ごと掴んで、少し多めに筆に水を吸わせて、すーっとその線をなぞる。


「‥あとの奴らは?」


水彩がうまいこと滲んで、もとの絵に馴染んでいくのを目で追いながら、そう聞く。

安藤が、少し声を震わせた。


「‥‥何人か来てましたけど、今日…花火大会だから。」

「あぁ。なるほどね。」


そっと手を離すと、安藤はそのまま見上げるように振り返った。いそいそと、花火大会のために準備に励む他の女子生徒とくらべたら、ずいぶんと地味だ。髪は黒いし化粧っ気のない無垢な薄茶色の目が、まるで子犬みたい。


淡い水彩画。

さっきなぞった紺色が滲んでいく。


「私、もう少し描きたいし。鍵、締めますよ。せんせー帰るんでしょ?」

「なんで?今来たのに。」

「今?だって、いっつも“はい終わりー、お前ら帰れー”ってすぐ鍵締めちゃうから。早く帰りたいのかと思って。」


違うの?と首をかしげた薄い笑顔が、妙に大人びていて、どっか懐かしくて、思わず苦笑いしてしまった。誤魔化すように、安藤の髪をくしゃっと撫でた。


「わ、ひどいっ!」


髪を整えながらふくれた安藤に、なんかホッとして立ち上がる。

そのまま隣の準備室を開けた。生徒の入れない、秘密の空間。


油臭い匂いが、ぷんと入り込んだ。閉めきっていた部屋はあまりの暑さで、サウナとほとんど変わらない。油絵具も溶け落ちそうだ。

安藤はなんだかずっと、俺を目で追ってるようだったけれど、気がつかない振りをした。


「…じゃぁ、さっさと帰れよ?」


そう言って後ろ手にドアをしめた。

安藤の方は、向かず。






夏休みの間に、描こうと思っていた絵があった。


なんでそんなことを思ったのか、そのきっかけが何だったのか。

思い出そうとしても、よくわからない。


ただ、描かねば。

と、ぼんやり思ったんだ。


窓を開け、熱風と油の匂いを入れ替えた。

多少マシになったあたりで、古い扇風機をつける。グワグワと回る青い羽から風を浴びながら、首にタオルをかけ、キャンパスを立てた。


8月も真ん中辺り。


あと少し。

あと少しで、描きあがる。


そうしたら、何が終わるんだろう。


ブワブワと鳴る風の音に、頭がぼんやりとしてくる。ぶるっと頭を振って、音楽プレーヤーにイヤホンを挿すと最近よく聞く映画のサントラをつけた。


音量を上げて座り込むと、「よしっ。」と筆を持った。











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