第26話
俺たちの前に現れたのは、とても大きなクマだった。
博物館で見たヒグマの標本より、二回りは大きい。
『蒼い閃光』四人の青ざめた顔を見れば、あのクマがどれだけ危険か嫌でもわかった。
「マーダーグリズリーか、銀等級のおれたちにゃ荷が勝ちすぎるな」
ライヤーさんが吐き捨てるように言う。
マーダーグリズリーと呼ばれた四足歩行のクマは、俺たちの一〇メートルほど手前で一度足を止める。
まるで、こちらを品定めしているかのようだった。
「ライヤー殿、いかが致しますか?」
ロルフさんが自分たちのリーダーに、落ち着いた口調で判断を仰ぐ。
「いかがも何もないだろ。おれたちのランクじゃ逆立ちしたって勝てないモンスターだ。できることなら今すぐにでも逃げ出したいところだが……」
「無理、でしょうね。マーダーグリズリーは足がとても速いと聞きます。私たち
「ボク仲間は見捨てないにゃ!」
「ですが、戦っても勝てませんよ?」
「うぅ~~」
ロルフさんの言葉に、キルファさんが歯噛みする。
「ちっくしょう。見ろよあのサイズ。おれたち五人を丸ごと喰えちまいそうじゃねーか。しかのあの色……マーダーグリズリーの亜種かよ」
「ボク、食べられるのだけはイヤにゃ」
「…………わたしも」
ライヤーさんの言葉に、キルファさんとネスカさんが身を強張らせる。
「んなのおれだって嫌だよ。さてっと、逃げても追いつかれる。戦っても絶対に勝てない。どうしたもんかな」
「誰かがこの場に留まり、時を稼ぐしかありませんね」
「やっぱ、それっきゃないよな……」
ライヤーさんとロルフさんは顔を見合わせ、頷き合う。
二人とも、最初からそれしかないってわかってた顔だ。
さて、突然ですがここで問題です。
この状況下で一人だけ囮にならなければならない場合、いったい誰が適任でしょう?
――答え、俺。
蒼い閃光の四人は仲間なんだ。
ここにいる部外者は俺ひとり。
知り合ったばかりの浅い付き合いの男がクマに食い殺されたところで、さして胸は痛まないからね。
つまりは選択肢なんて、最初から一つしかなかったんだろう。
「なあ、あんちゃんよ」
どこか寂しそうな顔で、ライヤーさんが話しかけてきた。
俺は次に言われる言葉が何かをわかっていながら、「なんでしょう?」と返す。
マーダーグリズリーの囮になってくれ。
――そう言われるとわかっていた。
――そう言われると思っていたのに、
「おれとロルフがあのクマ公の注意を引き付ける。あんちゃんはキルファとネスカの後ろについてアイツから逃げてくれ。ああ、ネスカはよくスッ転ぶからよ。もし転んだら助け起こしてやってくれ。……おれの代わりにな。頼んだぜ、あんちゃん」
予想だにしない言葉だった。
なんか盛大に肩透かしを食らった気分だ。
ライヤーさんは困ったように笑い、ロルフさんの隣に立つ。
「ロルフ、すまねぇな」
「お気になさらずに。ライヤー殿とは長い付き合いですからね」
「最期まで付き合ってくれるお前さんには、感謝しかねえや」
「貴方に命を救われたときから、この命は貴方の為に使うと決めていました。フフッ、思ったよりはずっと早かったようですが」
「だーな。いつかこんな時がくるとは思ってたけどよ、ずいぶん早かったな」
「ええ」
「ま、冒険者やってりゃんなこともあるか。ネスカ、達者でな。キルファ、ネスカとあんちゃんのこと頼んだぞ」
ライヤーさんに頼まれたキルファさんは、泣きそうな顔で。
「うん。ボクがふたりの代わりにネスカとシロウを守るにゃ。だから……心配しなくていいよ」
「…………わたしも一緒に戦う」
「ばーか。トロくさいお前がいたら足手まといだっての。それと……わかれよ。最期ぐらい惚れた女の前でカッコつけたいんだよ」
「…………バカ」
ネスカさんが、涙をいっぱいに溜めた目でライヤーさんを睨みつける。
これに対し、ライヤーさんはいたずらっ子みたいな笑みで返す。
「そんじゃ、おれが仕掛けたら逃げろ。ロルフは回復魔法の準備を頼まぁ。ついでにおれが一撃で殺られないように祈っててくれ」
「承知」
ロルフさんが頷き、神に祈りを捧げる。
そのときだった。
――ガサリッ。
また後ろで音がした。
振り返るとそこには――
「ロルフ……もう一匹出てきたにゃ」
もう一体のマーダーグリズリーが。
みんなの顔が絶望に染まる。
前門のマーダーグリズリー。後門にもマーダーグリズリー。
つまりは挟み撃ちの形だ。
「ウソだろ。クソッ、ふざけろよ!」
ライヤーさんが吐き捨てる。
「キルファ殿は逃げる準備を。この場は私とライヤー殿でなんとか――」
「…………できるわけない。もう終わり。……わたしたちは今日死ぬ」
圧倒的な絶望がそこにはあった。
『グルゥゥ……」
マーダーグリズリーが歩みを再開し、ゆっくりと近づきはじめた。
背後にいる一体は足止め役なのか、動かない。
ライヤーさんは両手で剣を構え、腰を落とす。
――マーダーグリズリーが近づいてくる。
キルファさんはネスカさんの手をぎゅっと握り、脚に力を溜める。
――マーダーグリズリーが近づいてくる。
ロルフさんが祈りを唱えながらメイスを振り上げる。
――マーダーグリズリーが近づいてくる。
緊張が続くなか、俺はというと、
「確かここに……」
リュックを開け、中をガサゴソと。
「何してるあんちゃん!? まだ動くな! マーダーグリズリーがあんちゃんを狙っちまうぞっ」
ライヤーさんからの制止の声。
しかし俺はリュックを探り、ついに目的の物を見つけた。
「あった!」
俺はリュックから取り出したモノにマッチで火をつけ、ポイポイと放り投げる。
前方のマーダーグリズリーに一つ。
もう一つは背後のマーダーグリズリーに。
瞬間――
――パパパンッ! パパパパパンッ!
大きな炸裂音が響いた。
俺が投げたのは『爆竹』。
クマ被害の多い北海道でも、クマよけとして使われているものだ。
音に驚いたマーダーグリズリーが、慌てて数歩後退する。
よし。距離ができたぞ。
「お次はこいつだ!」
リュックからスプレー缶を取り出し、四人が見つめるなか噴射口を前方のマーダーグリズリーへと向ける。
飛び退いたマーダーグリズリーとの距離は、五メートル。
こちらの様子を伺いながら、再び距離を詰めようとしている。
しかし俺は怯まず、逆にどんと一歩前へ出て、
「マーダーグリズリー! 俺の前に現れたことを悔いるがいい! ファイアッ!!」
スプレー缶に付いていた安全ピンを抜き、噴射ボタンを押し込む。
――プシュゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!
赤みのかかった粉末がクマの顔面へと噴きかかる。
瞬間、
『グギャアアァァァァァァァァァァァァ―――――――ッ!?』
マーダーグリズリーが悲鳴を、ホント、悲鳴としか例えようがない叫び声をあげた。
間を空けずに背後のもう一体にもプシュー。
『グルガギギギャアアァァァァァァァァ―――――――ッ!!』
ゴロゴロと転げまわる二体のマーダーグリズリー。
『グギャッ!? グホゥっ!?』
『ガルギャッ! グルギャァァッ!!』
マーダーグリズリーたちは、地面に顔や鼻を必死になって擦りつけている。
この光景に蒼い閃光の四人はぽかん。
「うーん。効果はバツグンってやつだな。それとも会心の一撃?」
俺がひとり呟いていると、
「あ、あんちゃん……いったいなにをやったんだ?」
震える声でライヤーさんが訊いてきた。
信じられないとばかりに、転げまわるクマを見ている。
「大したことじゃありません。毒の霧であのクマ――マーダーグリズリーでしたっけ? マーダーグリズリーの目と鼻を利かなくしただけです」
「なんだって!? 毒の霧? あんちゃん魔法も使えたのかっ?」
「やだなー。魔法じゃないですよ。ただのアイテムです。ほら、これです」
右手に持ったスプレー缶をライヤーさんに見せた。
スプレー缶には、『クマ撃退マグナムブラスター』と書かれている。
当然日本語で書かれているから、ライヤーさんには読めない。
「これは?」
「このアイテムの中には毒の霧が込められていて、指向性を持たせて噴射することができるんですよ。どうです、凄いでしょ?」
「毒の霧……。それでマーダーグリズリーがあんなに苦しんでるのか」
「ええ、その通りです」
万が一に備えて用意していた、クマ撃退スプレー。
もっとも使うことになるとは想像もしてなかったし、何よりこんなにも効果があるとは思わなかったけどね。
備えあれば何とやらだ。
「さあ、いまの内にみんなで逃げましょう!」
そう言い走り出そうとしたところで、
「待ったあんちゃん!」
ライヤーさんから制止がかかった。
「あんちゃん、マーダーグリズリーはあんちゃんの使った毒で目と鼻が潰されてるんだよな?」
「ええ。そうですけど……?」
俺が首肯すると、ライヤーさんはニヤリと笑う。
「ってことはだ、マーダーグリズリーをボコり放題ってことか! 冒険者としちゃこれを逃す手はねーな。ロルフ、キルファ、やるぞ! ネスカは攻撃魔法を頼む!」
「りょーかいにゃ!」
「承知!」
「…………報いを受けさせる」
先ほどまでの悲壮感はもう遠い彼方。
こうして、視覚と嗅覚を失った哀れなクマさんたちは、『蒼い閃光』の四人によって倒されてしまうのでした。
「いよっしゃーーーーー!!」
勝利の雄叫びをあげるライヤーさん。
そんなライヤーさんに向かって、俺はふと思いだしたことをひと言。
「そういえばライヤーさんて、ネスカさんのことが好きなんですか?」
「「……」」
答えが返ってこない代わりに、ライヤーさんとネスカさんは顔を真っ赤にするのでした。
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